ガラスの靴を履いたネコ。
時間が飛んだ。
車の中にいることは、変わらない。握っているハンドルも同じだ。だが、窓の外を流れる景色が変わっていた。
クラクションが聞こえた。交差点の中。フロントガラスの上端、わずかに見えた信号の色は赤だった。ブレーキは踏まない。踏んだとしても間に合わない。代わりにアクセルをさらに床へ向かって踏みつけた。赤いスポーツカーが、車体の後部をかすめるようにして、走り抜けていった。悪態をつくかのように、何度もクラクションを鳴らしていた。
頭痛がした。吐き気も一緒だ。どうにか堪えたが、それでも諦めずに上ってきた胃液が、口中に広がった。窓を開け、唾とともに吐き出す。
視界が暗い。
目は開いているはずなのに、見えるものが極端に少ない。夜であることが、その一因ではある。だが、それだけではない。強烈な睡魔に襲われているときの状態に似ていたが、眠いわけではなかった。
赤信号。
認識はしていた。無視するつもりだったわけでもなかった。だが、ブレーキは間に合わず、そのまま通り抜けた。結果的に、そうなった。無人だったのが幸いだった。
麻薬の副作用。
四肢の感覚が、曖昧だった。車を操るために、わずかながらも動いているはずなのに、他人の手足のような気がする。
吐き気も、消えない。
悪い夢を見ているようだった。
片方の耳にはめたイヤホンから、アイザックに背後をとられた男たちの、悲鳴と怒号が聞こえている。どれだけの被害が出たのかは分からなかった。が、静寂でないだけましだ。
無線から聞こえる無数の銃声と、窓の外から聞こえる銃声が重なり始めた。≪ホープ・タウン≫が視界に入る。
街灯に群がる蛾のように、≪ホープ・タウン≫の入り口の前には何台もの車が止まっていた。無数の銃声は、そこから聞こえていた。
クラクションを鳴らしながら、速度を上げた。
近づく車の群れ。恐怖はなかった。高揚感さえあった。悪い傾向だ。体と同時に、精神も麻薬に蝕まれ始めている。制御できているとは、お世辞にも言えなかった。
衝撃。
エアバッグが視界を塞ぐ。ブレーキは踏まない。アクセルを床に押しつける。十秒数えてから、ハンドルを切り、急ブレーキで車を止めた。勢い余って、車の片側が少しだけ浮いた。
マカロフでエアバッグを打ち抜く。車はちょうど百八十度回転した状態になっていて、フロントガラスの向こう側には、先ほどとは反対側からの景色が見えていた。車の群れの中央にできた割れ目に、人影が一人。アイザック・ライクンであることは、すぐに分かった。奴をいぶり出すために、車の群れを切り裂いたのだ。アクセルを踏む。今度の狙いは、アイザック自身だった。
フロントガラス越し、アイザックと目が合う。
新しい玩具を見つけた、子どものような表情を浮かべていた。瞳は輝きを放っていると言ってもいい光を見せている。
時速は八十キロに達していた。
衝突。
音は小さかった。アイザックを捉えきれなかったことが分かる。
上にいる。
フロントガラスに突き刺さった、新調したらしい義手で、それが分かった。無機質な手のひらの中央に、穴が開いていた。覗き込むことはしなかった。代わりに、よける。音がして、助手席が弾け飛んだ。残っている部分には、獲物を見つけたピラニアの群れのように、無数の釘が突き刺さっている。
散弾銃。しかも、釘を詰め込んだ装弾を使っている。
相変わらず、趣味の悪い男だ。釘を装弾に詰め込んだところで、威力は減りこそすれ、増えはしないのだ。それでも、釘にこだわる。
何かを打ちつけたいのだろうか。どこかへ行ってしまわないように?
昆虫の標本を作るときのように? お前はもう、俺のものだと告げるように? そして、自分でもそう認識できるように?
急ブレーキ。
車の天井から落ちてきたアイザックの体が、ボンネットで弾む。バランスは崩していない。散弾がさらに助手席を破壊した。無数の釘の攻勢は、運転席の方にも、わずかながら及んだ。マカロフで応戦する。ギアをバックに入れ、アクセル。肘を引っ掛け、ハンドルを回す。ギア。一速、二速。銃声が連なる。運転席側のドアにぴったりと体を付けた。運転席のシートの左半分が吹っ飛んでいた。マカロフの方も、フロントガラスにいくつもの蜘蛛の巣を広げている。
成果はない。アイザックはぴんぴんしていた。
だがそれも、ここまでだ。
フロントガラスの向こう側の景色が狭くなる。進路にあるのは、レンガ造りの古びた建物だった。いつ崩れ落ちても不思議ではない代物だったが、車の鼻先とともにアイザックの体を板挟みにして、破壊するくらいの強度はあるはずだった。
アイザックが後方の状況に気づいた。
車内から義手を鷲掴みにした。進路は十分固定されている。ハンドルを握っている必要はなかった。釘の散弾が車内を破壊する。マカロフを撃つ。弾倉が空になる。交換する暇はなかった。
衝撃。
視界が飛んだ。息が詰まる。背中が、レンガの壁に叩きつけられていた。建物にぶつかった衝撃で、運転席から放り出されたのだ。シートベルトを締めるべきだった。フロントガラスは割れてしまっていた。ボンネットの上に、義手が転がっていた。
義手だけが。
内臓が跳ねた。鳩尾を突き上げられていた。右のショートアッパー。肺から空気が逃げる。ようやく視界にアイザックを見つける。金色の前髪を掴んだが、無意味だった。腹に蹴りが入る。吹っ飛び、路上を転がる。アイザックは義手を拾い、左腕に付けなおした。車のボンネットから地面に下り立ち、乱れた前髪を、再び後ろへ撫でつける。
「また、君か。しつこい女だな」
「一途な女だと言ってくれる?」
「なるほど。だが、その美徳のお陰で君は死ぬな」
「あるいは、あなたが」
アイザックは頷いた。
「どちらが正しいか、夜が明けるまでには、答えを出さなくちゃね」
距離を測る。
暗く沈んだ道路が、長いカーペットのように伸びている。アイザックと、目が合う。
マカロフの弾倉を交換する。アイザックが、義手の一部をスライドさせる。仕込まれている散弾銃は、ポンプアクション式らしい。
まだ、撃たない。
互いに、射程距離ではない。
一歩一歩、確かめるようにして歩を進める。楕円を描き、道路から歩道へ。視線は、外さない。
歩道には、褪せた色のタイルが敷かれていた。視界の端で、無意識のうちに、タイルの色と形、そしてパターンを追っている。
街灯の明かりが、いくつもの影を作っている。影はさまようように、足下の周りをぐるぐると回る。消えては現われ、現われては消える。
建ち並ぶ、シャッターの閉まった店舗。不良たちが落書きの技術を競うためのキャンバス代わりに使われている場所も、少なくない。
落書きは、どれも落書きだった。芸術の領域を、わずかでもかすめているものさえ、ない。児戯の域を、脱していない。
互いを結ぶ線が、道路と垂直に交わる。
射程距離。
窓ガラスの割れる音が鼓膜を叩いた。アイザックが散弾銃を撃ったのだ。空に遠く、銃声の残響が聞こえた。
駆ける。
逃げはしない。だが、直進もしない。描く円を急速に縮めるように、駆ける。
引き金を引き続ける。
縮まる円の中を、銃弾が飛び交う。決定打は、ない。
歩道から車道へ。車道から歩道へ。
互いの位置が入れ替わる。
弾倉が空になる。
建物の壁を蹴り、飛ぶ。
アイザックは散弾銃を撃ったばかりだった。銃身のスライドは間に合わない。
宙で回転。足を突き出す。
防御のために交差された両腕ごと、アイザックを蹴り飛ばす。
着地、疾駆。
肩からアイザックの懐へ体当たり。体勢を戻しながら上半身を捻り、右のフックを脇腹に叩き込む。左のロー、右のハイ。よろけたところに、さらに浴びせるように右のハイ。下半身を回す。糸の切れた人形のように、アイザックの体が飛んでいく。
空になったマカロフの弾倉を捨てる。
新しい予備弾倉を装填。
引き金にかけた指は、引けなかった。
風。跳ねたアイザックの体が、懐にあった。マカロフの銃口は、遥か先を向いてしまっている。
息が、詰まっていた。肘が胸を捉えていた。
マカロフが手のひらから落ちる。落とした、と言ってもいい。
前蹴りと右の掌底。相打つ。よろめく。
路面を擦り、踏みしめる。ストレート。
右と義手の掌底。
同時。
ぶつかる。
釘が拳の中に侵入するのを感じた。
だから?
痛みはない。
拳を振りきる。バランスを崩したアイザックの膝を、真横から蹴り抜く。倒れるアイザック。腹に拳を叩き下ろす。
今なら、拳で大地を真っ二つに割れる。そんな気がした。
アイザックの呻き声を聞く。
気分が良い。非常に、気分が良い。
続けてアイザックの体を踏みつけようとしたが、かわされた。転がったアイザックは、その勢いを利用して起き上がる。繰り出された左のミドルキック。膝でいなして左からワン・ツー。間を空けてリズムを乱し、がら空きになった脇腹を右のミドルで刈る。飛んでいこうとしたアイザックの足を片手で掴み、振り回す。
建物の壁や窓ガラスで、アイザックの顔面をずたずたにする。そのままの勢いで、投げる。
大きな車の側面にぶつかり、地面に転がる。アイザックはそのまま、動かなくなった。
もちろん、まだだ。
まだまだだ。
マカロフを拾い、懐にしまう。そして、歩いていく。
高揚していた。体が火照っているのを感じる。
今にも歌い、踊りだしそうな自分を抑える。
アイザックがぶつかった車は、ここに来るときに使ったものだった。後部座席に、麻薬が入った鞄と、散弾銃が仕込まれた松葉杖がある。鞄を肩から提げ、松葉杖を取り出す。クレッシェンド、デクレッシェンド。
振り返ったところに、膝が入っていた。捉えられたのは顎。膝が落ちる。腹、顔。容赦なく、蹴りが入る。
たいした威力はいなかった。
もはやアイザックの微笑は、彼の顔にぶら下がっているだけと言ってもよかった。いつ消えてもおかしくはない。
同情してやってもいい。そんな気分になっていた。
こちらに、痛みはほとんどない。腹に入った蹴りのお陰で、胃液が上ってきただけだ。
立ち上がり、歩く。
散弾銃が吼えた。アイザックの義手に仕込まれたものの方だ。散弾は、明後日の方向へと飛んでいった。向けられた銃口を、掌底で受け流したのだ。ぱらぱらと、どこかで建物の破片か何かが落ちる音が聞こえた。
前蹴り。
アイザックの体が二つに折れる。鉄製の松葉杖を振る。いや、これはもはや松葉杖と言える代物ではない。歩行の補助のために持っているのではないのだから。棍棒と言ってもいい。あるいは、鎚矛(メイス)。
左、右。メイスを振り回す。面白いように、アイザックの体が揺れる。再び鳩尾に前蹴りを食らわせ、吹っ飛ばす。
メイスをスライドさせ、薬室に散弾を送り込み、散弾銃として機能する状態にする。
道路が爆ぜた。
銃弾が足下をかすめるようにして、走る。咆哮を聞き、振り返る。見知らぬ少年が、サブマシンガンを撃ちながら、突進してきていた。
散弾銃の口をそちらへ向ける。
引き金を引く。
散弾は少年の体をわずかにかすっただけだった。
体が揺れる。
バランスを崩した原因が空にこだましていた。銃声。目の前の少年が撃ったものではない。別の、もっと遠い場所から撃たれた銃弾だ。
サブマシンガンを抱えた少年が近づいていた。だが、恐れはない。闇雲に撃っているだけだった。咆哮は、彼自身を鼓舞するためのものだ。鼓舞しなければ、引き金を引けないのだ。
狙撃手に撃たれたのは、左の上腕だった。右、クレッシェンドの銃口を巡らせる。焦りはない。だからと言って、時間をかけたりもしない。丁寧かつ迅速に、照準を合わせる。
サブマシンガンの弾が数発、体をかすめた気がした。構わず、引き金を引く。
後ろから、糸で思いきり引っ張られたかのように、少年の体が飛ぶ。
遠くからの銃声が響いたが、弾は道路で跳ねただけだった。
走る。
狙撃手の位置は、考えながら、だ。その場でのんびり思考にふけり、スナイパーライフルの照準を合わせる時間を与えることはない。
手近にあった中華料理店の窓を割り、中に入る。シャッターは閉じており、明かりも消えていた。人の気配もない。
撃たれたときの状況を再生する。傷を見て、銃弾がどのような角度で入ったのかを確認する。そのときに、自分のいた場所を思い出す。
中華料理屋の店の裏口から、狭い裏路地へ出た。隣り合う建物の壁が、顔を突き合わせるかのように、そびえている。ごみ袋の入ったポリバケツを蹴飛ばし、歩き出す。頭の中にある立体地図と、目的地を照らし合わせる。
そう長くはかからなかった。
目的地。汚れた黄色の、モルタル塗りの壁。階数はおそらく、四か五と言ったところだろう。錆びた鉄製のドアで塞がれた、裏口があった。鍵がかかっている。散弾銃を二、三発叩き込み、最後には蹴りを入れてこじ開けた。
耳を澄ませる。
暗闇に閉ざされた建物の中からは、音は聞こえない。位置を特定された狙撃手が、慌てて醜態をさらすかもしれないと思ったが、案外、冷静らしい。
パニックで腰が抜けて、音を立てることもできないという可能性もあるが。
いや。後者はどうやら違うようだ。
踏み出しかけた足を、戻す。暗闇に、わずか。ほんのわずか、光が反射するのを見たのだ。目をこらすと、ワイヤーが足下に走っているのが見える。ワイヤーの先には、爆弾と思しきもの。
ブービートラップ。
これがあるから、狙撃手は冷静なのだ。位置を特定されても、まだ王手をかけられたわけではない。
ワイヤーをまたぎ、建物の中に入る。すぐ側にロッカーがあり、掃除用具が入っていた。モップを取り、トラップから十分に離れてから、ワイヤーに向けて投げる。
爆発。
派手ではない。人を一人、退けることができればいいのだから、当然だった。建物を破壊し、もしかすると自分の命まで危うくするような状況にしてしまっては、本末転倒だ。
入り口を入ってすぐの場所に、階段があった。慎重に、目をこらしながら上る。音を立てないよう、注意もする。
クレッシェンドとデクレッシェンドを、いつでも撃てる状態にする。銃身はゆっくりとスライドさせたので、音はほとんど聞こえなかった。
五つ目のトラップを数えたところで足音を聞いた。階数は、四階から五階へ至ろうとしているところだった。銃口を上方へ向け、階段を、ゆっくりと、一段ずつ上る。
影が見えた瞬間、引き金を引いた。
早すぎた。かわされる。
階段の下と上。手すりの陰に身を潜め、互いに姿を確認しないまま銃を撃つ。火花が踊り、視界が明滅を繰り返す。
このままでは、埒が明かない。
壁を蹴り、飛ぶ。一度では、もちろん足りない。対する壁を交互に飛び、宙を昇る。一つ上の手すりに達したところでそれにメイスを引っ掛け、体を持ち上げる。
狙撃手の横顔を捉える。先ほどと年齢に大差ない、少年だった。横顔がスローモーションでこちらを向き、はっとする。
遅かった。
引き金。デクレッシェンドが吼える。少年の体は壁に張りつき、そのまま動かなくなった。いくつもの散弾が少年の体に穴を空け、血の染みを作り、繋げていく。
アイザックの仲間だろうか?
多分、そうだろう。
あの一匹狼に、そんなものができるとは、驚きだった。
ふと、左上腕が脈を打ち始めていることに気づく。
それを始まりにして、脈は体中に広がっていく。数多の傷口を駅に、線路を繋げるように。
脈?
違う。
これは、痛みだ。痛みが、帰ってきている。
魔法の切れる時間が訪れようとしている。
肩から提げた鞄の中を探った。目当てのものを見つける前に、気配を察知する。
暗闇の中に光るブルー。瞳のブルーだ。
隻眼であることを教えるように、その輝きは一つしかない。
光。
散弾が発射されたことを告げる光。
微笑の濃度が戻っていることを示す、真っ白い歯の光。
宙をちらつく無数の光。
釘。
右胸が爆ぜた。麻薬が見せる幻であるように願った。だが、そうではないようだった。
闇から闇へ、視界が飛んだ。
つづく
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