Gusuku LABELへようこそ!
最近、自分がフリーメールを活用できない人間だってことに気付きました。

2008年01月30日

ブログ小説 焔-HOMURA-[integral] 第148回(6版)


あたしは、君。君は僕。


 艶やかに伸びる黒髪は、長いワンレングス。力強く弧を描く眉。触れると切れそうな、細い目。各パーツが作り上げたバランスを、微塵も乱さない鼻。ぷっくりとした唇には、瑞々しい珊瑚色の口紅が塗られている。あどけない表情に、化粧が毒薬のような色香を添えている。年は慶慎と同じか、少し上。少女の微笑に、慶慎は眩暈を覚えた。慶慎は言った。
「君は、誰?」
 今度のこの台詞は、言葉通りのものだった。少女は、慶慎の知らない人間だ。ただ、それだけでは済まない何かがあった。誰にも似ていないようでいて、誰かに似ているのだ。そんな印象が、慶慎の胸の奥をかき立てる。彼女を形作るパーツのひとつひとつが、慶慎の記憶を刺激してやまないのだ。
 少女は、うっとりと彼女に見とれている、野球のユニフォーム姿のケイシンを、そっと押しのけた。
「どうでもいいじゃない。そんなこと」
 少女は猫のように静かに歩を進め、慶慎と距離を詰めた。人差し指で、慶慎の胸骨を撫でる。
「そうはいかないよ」慶慎は言った。声が、かすれていた。
「どうして?」少女は、小首を傾げた。「君がいる。あたしがいる。それで、十分じゃない」
「だって」
 言いながら慶慎は、“確かに、それで十分かもしれない”と思った。“だって”と言ったきり、言葉を繋ぐことができなくなり、押し黙る。手を伸ばせば届く距離にいる、少女の体から発せられる体臭は、甘ったるい。香水を使っているのだ。それが、慶慎の思考を著しく鈍化させていた。
「あたし、魅力的じゃない?」
 そんなことない。慶慎はそう言おうとしたが、できなかった。少女に、唇をふさがれていた。珊瑚色の、彼女の唇で。キス。慶慎の口内を、少女の舌が撫でる。この唾液の味は、知っている。慶慎は思ったが、記憶をくすぐる、唾液の持ち主の映像と、少女の容姿は重ならない。混乱する思考を、何とかして正常な状態に戻さなければと思う一方で、“そんなことはどうでもいい”と思う自分がいる。ちくしょう。慶慎は胸の内で呟き、そっと少女の体を押し戻した。彼女が側にいると、自分の何かが狂う。慶慎は思った。
「こんなこと、よくない」
「どうして」
「ここは、どこなんだ? 君は、知ってるんだろ?」
「知ってるよ。けど、そんなこと知ってどうするの? ここから出たければ、いつでも出られるよ。外の世界が、そんなに好きなの?」
 そんなわけがない。散々虐待した挙句、家族でいることを諦める父親がいるような世界。殺し屋として、人を殺し続けなければ、自分の居場所を守ることのできない世界。自分の犯した罪が、目に見える形をとって襲いかかってくる世界。そんな場所に、執着する気持ちなど、微塵もない。慶慎は、首を振った。
「なら、ここにいればいいじゃない。そして、あたしとしよう? あたしなら、君のこと、癒してあげられるよ。誰よりも、うまくできるよ」
「そんなこと、どうだっていいんだ」
「“そんなこと”なんて、言わないで。あたしは、君のためにいるんだよ? 君のためだけに。君に拒絶されたら、あたし。存在する意味がなくなっちゃう」
「ごめん」
 慶慎は、頭を垂れた。少女の目が見れなかった。彼女を傷つけてしまったことが分かったこともあったが、それだけではない。彼女とは、視線を合わせているだけで、体力が激しく消耗しているような気がするのだ。
 自分の足下を捉えていた、慶慎の視界の中に、白衣が飛び込んできた。少女が着ていたものだ。黒いジャケット、白いカットソー。デニムのミニスカート。黒いロングブーツ。慶慎は、顔を上げた。少女は、自分の体から自分で、身につけているものを剥いでいた。
「何をやってる」
 少女は、返事をしなかった。目の縁が、涙で光っていた。少女は緑色のブラジャーとガーターベルトを外し、同色のパンティを脱いだ。最後に、目の粗い黒いストッキングを床に投げ、少女は慶慎を見た。
「あたしのこと、好きにしていいんだよ」少女は、すがるように言った。「何でも言って。あなたの好きなように、してあげるから」
「君は」
 慶慎は、目を見開いた。溜め息をついて、少女の右の乳房に手を伸ばす。そこにある、ふくらみに触れたかったわけではない。そこに刻まれた、黒い炎を見つけたのだ。トライバルの、刺青(タトゥー)。
 少女は、宝物でも見つけたかのように、乳房に触れる慶慎の手のひらを、自分の手のひらで包み込んだ。少女は言った。
「あたしは、君」
「君は、僕」
 慶慎はそこで、言葉を止めた。今まで、壁のくすんだ灰色しか見えなかった、地下鉄の窓の外に、あるはずのない景色が見えたのだ。まるで、車両内と外界の間に隔てるものがないかのように、音や声も聞こえる。この上ないほど、明瞭に。<サンドーム・ビル>の前で、怒り狂うミカドの者たち。真っ白な病室で、陰鬱な表情を浮かべ、“殺し屋になれ”と告げる、越智彰治。ビール瓶を振り上げる、風際文永。罵倒の言葉を叫びながら、灰皿を投げる風際文永。慶慎のことを下の名前で呼び、あざける、出血のせいで顔色の悪い、エイダ・ヒトツバシ。別離の言葉を口にする、眼帯をした風際文永。死体の山。殺した者たちの返り血で、真っ赤に染まった、慶慎の顔。
 何なんだ。呟きながら、よろけた慶慎を、少女が後ろから支えた。
「外は怖いよ。平気な顔して、君を傷つけるんだから。勝手なことを言って、君を操る。勝手な理屈で、君を殴る。蹴る。間違った方向へと、導く。君のことを理解しようともしないで、一方的に罵る。今まで、たくさん傷ついたでしょう? でも、それで全部じゃないんだよ。まだまだ、怖いことが。痛いことが。辛いことが、あるんだよ。だから、ここにいよう? ここなら、安心だよ。ここでずっと、あたしと一緒にいた方が、幸せだよ」
「そうなのかな」
「そうだよ」
 慶慎は、後ろから少女に抱き締められた。ふんわりとした体温に、慶慎は思わず涙を流した。
「君は、優しいね」
「当たり前じゃん」少女は笑った。
 慶慎は、少女の方へと向き直った。改めて、その体温を味わおうと思ったのだ。正面から。そのときだった。少女の体が、揺れた。
 角。二本の角が、少女の胸を刺し貫いていた」
「これ以上、この世界の主をたぶらかさないでもらおう」
 低い声が言った。ずるりと、少女の胸から角が抜ける。少女の胸には、大きな穴がふたつできていた。彼女の口も合わせて、三つの穴から、血が溢れる。少女は、その場に音を立てて倒れた。少女に駆け寄ろうとする慶慎に、低い声が“やめておけ”と言った。無視して、慶慎は少女の手を取った。が、すぐに手の中の温もりは消えた。少女の姿ごと。床には、彼女が流した血だけが残る。慶慎は、声の主を見た。
「お前」
 そこにいたのは、四本の角を持った羊だった。
「少し、話をする必要がある。慶慎」

つづく




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posted by 城 一 at 15:39| 長編小説 焔-HOMURA-[integral] | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月29日

ブログ小説 焔-HOMURA-[integral] 第147回(9版)


その地下鉄はとても混雑している。


 後ろから、足に何かがぶつかった。
「ごめん」
 陰鬱な声に振り向いた慶慎の前にいたのは、ケイシンだった。病院の入院患者用の寝巻きを着ていて、全身が怪我だらけであることを示すように、包帯とガーゼをその身にまとっていた。お陰で、ケイシンの体には、肌色よりも白色の方が多い。
 ケイシンは、車椅子に乗っていた。慶慎の足にぶつかったのは、その車輪だ。
「君は」
 誰なのかは、慶慎にも分かっていた。歯を磨くとき、顔を洗うとき。鏡を覗き込めば、いつでもそこにいる人間だ。だが、そう口にせずにはいられなかったのだ。無理もないことだった。現実には、あり得ないことなのだから。
 慶慎の混乱を察したかのように、ケイシンはわずかに口角を上げた。
「分かってるだろう? 僕のことは、他の誰よりも。あのときは、本当に死ぬかと思ったよね。いや、でも。死にたくないと思って、死ななかったわけでもないけど。君は特に、そう思ってるだろ? あのとき、死んでいればよかったと」
 車椅子に乗ったケイシンの左前腕と右足首は、ギプスに保護されていた。左目には、白い布の眼帯。寝巻きの襟元から覗く、左胸の黒い炎のような、トライバルの刺青(タトゥー)。周囲の肌が、赤みを帯びていた。まだ、彫られたばかりなのだ。風際文永に。
 世界が揺れ、横から微かに重力がかかった。勝手に動こうとする車椅子を、ケイシンは車輪を手で掴むことで、止めた。が、たったそれだけでも、満身創痍のケイシンにとっては重労働のようだった。額に滲む脂汗が、それを証明していた。どうにかして、彼の助けになろうと伸ばした慶慎の手を、大丈夫だと首を振り、ケイシンは拒んだ。
 ねえ、と声をかけられて、また慶慎は踵を返した。声の主は視線の高さにはおらず、慶慎は膝を折らなければならなかった。声をかけてきたのは、幼い少年だった。今はもう、鏡の中に見つけることはできないが、かつては確かにいたことのある、少年。その少年もまた、ケイシンだった。
「お兄ちゃんなら、直せるでしょう? これ。もう、大きいんだから」
 幼いケイシンはそう言って、慶慎に人形を差し出した。道化師の姿をした人形だ。左目の下に赤い涙が描かれた、笑顔をディフォルメした白い仮面をつけている。白いシャツ、白い手袋。黒いぶかぶかのパンツと、大きすぎるサイズの茶色い革靴を履いている。頭には、黒いフェルト帽。慶慎が昔好きだった、ピエロを模した特撮ヒーローの人形だ。右前腕と右脚が破損していて、シャツとズボンの右側はだらりと垂れていた。ケイシンの小さな手のひらには、その人形の右前腕と右脚が載っていた。慶慎は直してやりたかったが、人形の修繕に使えそうな道具を持っていなかった。慶慎は、“ごめんね。また、今度ね”と言ってケイシンの頭を撫でた。ケイシンは目元に涙を溜めながら、分かったと言い、元いた場所に戻っていった。オレンジ色のシートに。
「相変わらず、冷たいんだな。過去の自分には。その子がどんな思いをしてたのか、知ってるくせに。まあ、気持ちは分かるけどね」また、ケイシンが言った。「僕も嫌いさ。父親の愛情を受けることもできず、部屋に閉じこもって、人形遊びに興じることしかできない子どもはね」
 今度のケイシンは、吊り革に掴まって立っていた。胸に<カナジョウ・リトル・ウルヴズ>と書かれた、野球のユニフォームを着ている。野球をしたことがなく、するつもりでユニフォームを着たわけではないので、アンダーシャツを着ていないし、ストッキングもつけていない。靴も、スパイクのない普通のスニーカーだ。
 慶慎は、唾を飲んで喉を鳴らした。また少し、世界が揺れて横に重力がかかる。
「何なんだ、ここは」
「見れば分かるじゃないか。窓から景色は見えないんだから、地下鉄だよ」
 四角い箱型の空間。壁に沿って設置された、オレンジ色のシート。天井付近に張り巡らされた、ステンレスのバー。そこからぶら下がる吊り革が、車両と連動して揺れている。レールと車輪が擦れて立てる、甲高い金属音。カーブに沿って、左右にずれる前方の車両。ユニフォームに身を包んだケイシンに言われなくとも、自分がいるのが地下鉄の中だということは分かった。しかし、慶慎が聞きたかったのは、そんなことではない。
 ユニフォーム姿のケイシンは、笑った。
「ごめん、ごめん。少し、意地悪をしちゃったね。分かるよ。君が本当に聞きたいことは」
「なら、答えてくれよ」
 ケイシンは吊り革から手を離し、肩をすくめた。
「はっきり定義ができるほど、整然とした場所じゃないんだよ。ここは」床と天井を繋ぐ、ステンレスのバー。眩暈がして、慶慎はそれに掴まった。ケイシンは言った。「ああ。“自分に酔っちゃった”かい?」
 車両の中は、乗客でいっぱいだった。服装や年齢は、さまざま。だがどれも、慶慎に覚えのある格好をしていた。多少の違いはあれど、慶慎と同じ顔をしていた。乗客は全て、ケイシンだった。
「何なんだ、ちくしょう」
「あまり、難しく考えない方がいい。目に映る光景を、そのまま受け入れるのさ。この世界の理(ことわり)をひも解いたところで、すぐにその解に意味はなくなる」
「そうよ」
 ケイシンの後ろから、声がした。異性のものだった。細い指がケイシンの腹を這い、野球のユニフォームをめくり上げていく。その指先には、ラメの入った緑色のマニキュアが施されていた。
「ああ、君か」ケイシンは自分の肩越しに後ろを見て、目を細めた。
 まるでケイシンの肩から生えるようにして、少女が顔を出した。
「ええ。あたしよ」
 少女は、妖しく微笑んだ。

つづく




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posted by 城 一 at 00:41| 長編小説 焔-HOMURA-[integral] | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月26日

短編小説 LADY×LADY

「別れよう?」

 マナミが言った。そんなことを言われるような気はしていた。彼女と付き合い始めてから、もうすぐ二年が経とうという頃だ。何を考えているのかくらいは、それとなく分かる。

 サエは、自分で作ったカシス・ソーダの入ったグラスの縁を、指先で撫でた。縁はわずかに濡れていて、指の腹の下で、ひゅいん、という音が鳴る。

「何があったの?」
「何も」マナミは言った。

 嘘だ。サエは思った。嘘をつくとき、マナミは耳たぶを触る癖がある。紫色に塗った爪の下で、揃いの色の石がぶら下がったピアスが揺れる。付き合ってひと月が経った記念日に、プレゼントしたものだ。まだ彼女の好みが分かっていなかったので、一緒にデパートに行き、彼女に選んでもらった。

「もう、疲れたの。女同士なんて、やっぱ変だよ。ベッドの中だって、電車に一緒に乗るときだって。映画館の席とか、クリスマスの夜とか、大晦日の新しい年を迎える瞬間とか、誕生日とか。そういうときに、隣にいるのはやっぱり、男の人がいいの」

 最初に会ったときと、真逆のことを言っていた。初めて会ったときのマナミは、サエと共通の友人だったレズビアンのノリコに手を引かれ、雪の積もった黒髪の下で瞳を潤ませ、言ったものだ。もう、男の人は嫌だと。

 マナミは、大学時代から付き合っていたキョウジという男に、売春をさせられていた。キョウジが毎夜のように連れてくる友人を相手にセックスをして、金をもらっていたのだ。

 金は全て、キョウジに取り上げられていた。キョウジはギャンブルにはまっていた。そのくせ運や才能はなく、借金だけが膨らんでいた。その返済に、マナミが体を売って稼いだ金は消えた。

「キョウジ」

 試すようにサエが投げかけた言葉に、マナミの視線が泳いだ。溜め息は、持ち上げたグラスの中に溶かし、カシス・ソーダとともに飲み込んだ。舌に、アルコールはあまり感じなかった。ソーダの分量を、多くしすぎたのかもしれない。

 二年。マナミとともに過ごした月日を、閉じた瞼の裏に再生してみる。かつての男のされた、ひどい仕打ちを忘れるのには、十分な時間なのかもしれない。それに。異性愛と同性愛の狭間でバランスを取り続けるのは、想像以上に難しいものだ。

 だが、言った。

「あの男にされたこと、忘れたの?」
「もう、あの頃のキョウちゃんとは違うもん! キョウちゃんのこと、何も知らないくせに、知った風な言い方しないで」

 ガラステーブルの上から、カシスの壜を取った。やはり、アルコール分が少し足りない。

「知ってるよ。あんたの大好きなキョウちゃんは、恋人だったはずのあんたに、平気で友だちとセックスをさせて、金を取ってた。そして、それを借金の返済にあててた」
「今はもう、真面目に働いてるもん。キョウちゃんは」

「あの頃も、真面目な大学生だったんじゃないの? キョウちゃんは」

 言いすぎた。いや、確信犯だった。マナミの瞳が歪む。怒りでカーペットを敷いた床を鈍い音で踏み鳴らしてこちらに来て、置いたばかりのグラスを、テーブルの上から弾き飛ばした。

 グラスはカーペットの上に転がり、ゴトンという音を立てて、中身をこぼした。マナミが、この部屋で一緒に住むことを決めてすぐに、ふたりで初めて選んだインテリア。象牙色のカーペットは、カシス・ソーダを吸い込んで、明るい赤色に染まった。

「そうやって、人の悪いところをあげつらって、自分のところに引き止めようとしちゃって。それがレズビアンのやり方なの?」
「違うよ、マナミ。そんな言い方はするもんじゃない。これは、レズビアンだとか、そういうのは関係ない。単純に、わたしのやり方なのさ」

「最低」
「そうだね。最低だね」

 こめかみを指で揉んだ。やはり、アルコールが足りない。カシスを壜から、直接飲んだ。ソーダで割らなければ飲めたものではないが、この際、味など関係ない。

「わたしのことは、もう好きじゃない?」
「最初から、好きじゃなかったもの」

 自分の唇が、自嘲的に歪むのが分かった。どんな言葉が返ってくるのか。分かっていて、尋ねた。気付かないうちに、自分も別れの準備を始めているのかもしれない。

 マナミと初めて体を重ねたときから、薄々気付いていたことだった。いくら彼女の体を愛撫して、彼女の声と快楽を吊り上げても、その瞳の奥まで、自分の姿は染み込まなかった。それは、何度体を重ねても変わらなかった。表面には映るものの、それ以上、彼女の中へと踏み込むことはできなかった。

 いつ終わっても、不思議ではない関係。そう思っていた。二年は、持った方なのかもしれない。

 マナミはクローゼットから、袖口や襟元に、青く染めた毛皮の付いた、黒いコートを取り出した。

「無理しなくていいよ。マナミが嫌なら、わたしはソファで寝るから。出て行くのは、眠ってからにしなよ。外は、雪が降ってる。電車もないよ。この時間じゃ」
「大丈夫。キョウちゃんが、車で迎えに来てくれてるの」

「そうかい」
「荷物は、あとで取りに来るから」

 リビングから出る途中で、マナミが振り返って言った。
「サエちゃんだって、あたしのこと、好きじゃなかったんでしょ。あたしなら、泣くもの。好きな人と、別れるときは」

「あんたが言うかね」
「そうだね。ごめん」

 マナミは部屋を出て行った。バックルがふたつ付いた、ワインレッドのブーツを履いていったのだろう。そんなことを考えていた。デートのとき、彼女はいつも、そのブーツを選ぶ。

 カーペットに落ちていたグラスを拾い、水で洗った。もう一度、カシス・ソーダを作る。今度は最初から、カシスを多めに入れた。飲むと、ようやく、喉に熱さを感じた。酔えそうだった。

 泣かなかったのは、マナミを愛していなかったからではない。むしろ、逆だ。彼女のためだった。彼女は、優しい。泣いている者を、冷たく突き放すことはできない性格だ。

 同情で彼女を繋ぎ止め、場当たり的に、関係を長引かせるようなことはしたくなかった。

 携帯電話で、ノリコに電話をかけた。たった今、マナミと別れたことを告げた。

「あら、残念なことね。でも、長く持った方じゃない? また女の子、紹介しようか?」
「いや、いいよ。しばらくは、ひとりでおとなしくしてるよ」

 カシス・ソーダを、ひと口飲んだ。思い当たったことがあり、ノリコに言った。
「もしマナミがまた、彼氏に売春させられたら。そして、それが分かったら。わたしに連絡してね」
「あんたも、人がいいね。そのときになったら、またあの子を助けてやるのかい?」

 軽く笑って、言った。
「違うよ。あの子の、客になるんだよ。あたしが、ね」

言葉とともに、ようやく溢れた涙が、グラスの中に落ちた。また、アルコールが薄くなった。そう思って、カシスを足した。

posted by 城 一 at 08:01| 短編小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月23日

ブログ小説 焔-HOMURA-[integral] 第146回(8版)


星空の下で。


 カナコ・ローディンから話を聞いただけでは、足りなかった。彼女が把握している情報は、あくまでも<カザギワ>に関係のあるものが中心だ。<SKUNK>と<ロメオ>の抗争に関して、別の立場にいる人間からも、話を聞きたかった。カナコとも、アンバーとも異なる視点を持つ人間。約束は既に、取りつけていた。
 街に群れをなす建物が描く、いびつな線の向こうに日が落ちる頃。鈴乃は鶴見と会った。
「<SKUNK>も<ロメオ>も、もう存在しないチームだ。そんな連中のことを調べて、いったいどうするつもりなんだ?」
 コルベットの助手席で、鶴見は言った。鶴見は、赤銅色のトレンチコートのポケットに両手を突っ込み、フロントガラスの向こう側を見つめていた。積雪を待つのにくたびれて、闇色に染まっている道路を。まるで、車内には彼ひとりしか存在しないかのように。
「ただ、好奇心を満たしたいだけよ」鈴乃は言った。
 車体が小さく揺れた。浦口だ。鶴見とコンビを組んでいる、若い私服刑事。ボンネットに腰かけ、寒さに体を小さくしていた。手には、近くの自動販売機で買ってきたばかりの、煙草のパッケージ。ベッドで女の衣服を脱がすかのように、フィルムを剥がしている。鶴見は、浦口のことを眺めながら、言った。
「感心しない趣味だな」
「あなたに感心されても、全然嬉しくないけれど」鈴乃は言った。「それで?」
 抗争に関して、警察にある情報を調べてくるように、鶴見にはあらかじめ言ってあった。鶴見は横目で鈴乃を見る。
「仮にも、<カザギワ>で殺し屋をやってるんだ。分かってるだろう。ガキの喧嘩に首を突っ込むなんて、よっぽどのことがない限り、しないはずだ。違うか?」
「その、裏づけをしてほしいのよ。<カザギワ>の外部の人間にね」
 鶴見は、溜め息混じりに頷いた。フレームレスの眼鏡を外し、ペイズリー柄のハンカチで、そのレンズを拭く。
「抗争が起きたのは、大伏(おおふし)通り。通称、<クラウン・ストリート>。昔、<王冠(クラウン)>って呼ばれてたギャングが縄張りにしてた通りだ。当時はなかったが、今はその通りの上にある交差点のひとつが、<宇宙(ザ・スペース)>って呼ばれて、ガキの遊び場になってる」
「知ってるわ」
「<クラウン・ストリート>には、<ゴールデン・ハイドラント(黄金消火栓)>というのがあってな。生前、クラウンが大事にしてた消火栓だ」
「生前」
「ああ。今はもう、死んでるんだ。享年二十六歳。まあ、ギャングにすれば、妥当な寿命さ」鶴見は言った。「クラウンは自分が、その消火栓の前を縄張りにしてたこととか、他のギャングと喧嘩をしたときに投げ飛ばされて、その消火栓に頭をぶつけて大怪我をしたこととか。その消火栓で頭をかち割ってから、急に運気がよくなったこととか。運の話はまあ、本人の解釈次第なんだが。色々縁があって、クラウンはその消火栓を金色に塗って、お守り代わりにしてた。<SKUNK>は、そのクラウンの世話になったヤツらが、中心になって作ったチームだった。だから、<SKUNK>の連中は、クラウンが死んだあとも、<ゴールデン・ハイドラント>を守ってた」
「守る?」
「警察が見つけたり、この街じゃ化石だと言ってもいい、良識ある市民が、警察や消防に通報すれば、塗装を剥がされたり、上から元の色に塗りなおされたりする。そうなったとき、ヤツらがまた、金色に塗るのさ」
「ギャングにしては、神経の細かいことをするのね」
「それだけ、クラウンのことを尊敬してたんだろうさ。けどある日、当時<SKUNK>と敵対関係にあったチームが、<ゴールデン・ハイドラント>を落書きだらけにした。それが、<ロメオ>だ。<SKUNK>にしてみれば、顔に泥を塗られたのと同じだった」
「それで、抗争が始まった」
「そうだ。<ゴールデン・ハイドラント>のある、<クラウン・ストリート>一ブロック分は、それはもうお祭状態さ。通りに面した建物の大部分は、無事では済まなかった。一階部分にあった、窓及びガラス製のものは、ほとんど全てが割れ、破損した。二階より上の部分も、もちろん無傷じゃないがな。道路はガラスの破片だらけ、壁は弾痕だらけ」
「まるで、見てきたみたい」
「現場の片づけをした連中と、話をしたんだ。感謝してくれ」
「それはどうも」
「死者十四名。うち、どちらのチームにも属していなかったと思われる死体が、ひとつ」
「死体の名前は?」
「平気な顔して、クソ細かいところまで突っ込みやがるな」鶴見は眼鏡をかけなおして、顔をしかめながら、そう言った。濃いグレイのスーツの内ポケットから、手帳を取り出して、開く。「田村李代(たむらりよ)。女。当時十五歳。家族や友人に話を聞いたが、やはり、どちらのチームにも属していないようだった。ただし、彼氏が<SKUNK>の中心メンバーだった。名前は、成釜幸太(なるかまこうた)。通称、アンバー。そのことを考えれば、田村李代も<SKUNK>の関係者だったと言えるが」
「田村李代の死因は」
「心の蔵に、ズドンと一発。即死」鈴乃が口を開く前に、鶴見は先回りをして答えた。「使われた銃弾は、44マグナム」
「田村李代以外で、どちらのチームにも属さない、部外者らしき人物を目撃した人間は?」
「いない。そもそも、目撃者自体、皆無だ。自分の命を賭けてまで、野次馬したいものではないだろう? ギャングの抗争なんていうのは」
「そうね」鈴乃は言った。「あなたの見解を聞かせてくれる?」
「田村李代を除いて、十三人が死んだわけだが、<SKUNK>も<ロメオ>も、全滅したわけじゃない。怪我をしてたヤツらはいただろうが、半数以上生き残った。<カザギワ>の殺し屋が、その抗争に介在していたとしたら、そんなことにはならない」
「どちらかのチームが、壊滅的なダメージを受けていなければならない。死者のうち、<SKUNK>のメンバーだと思われる人数は?」
「ふたり。もちろん、田村李代を除いて」
 鈴乃は頷いた。アンバーの話が間違っている可能性が、高くなってきた。<カザギワ>が<ロメオ>の人間に雇われたと言うには、<SKUNK>の死者が少なすぎる。<カザギワ>の殺し屋と言えども人間で、ときに失敗があることを考慮をしても。たとえ、何らかのトラブルが発生し、その場の標的を全滅させることができなかったのだと、仮定しても。
「ただ、抗争が終わったあとも、両チームのメンバーが、ぽつぽつと殺されてる。それが、だらだらとひと月ほど続いた。<SKUNK>はそれで、抗争で生き残ったヤツらの半分を失った。<ロメオ>は、全滅。最終的に、メンバーは全員殺された」
<SKUNK>が、<ロメオ>を潰すために<カザギワ>の殺し屋を雇ったという絵図の方が、まだ信憑性があった。殺し屋が、失敗はしたものの抗争後も動き、最終的には依頼内容を満たしたという、話の方が。<SKUNK>が全滅していないのでは、逆は成り立たない。アンバーの話にはやはり、嘘が混じっている。それは確かなようだった。アンバーが作ったものであれ、誰か他の人間が作ったものであれ。
「好奇心は満たされたかい? ミス・殺し屋」鶴見は言った。
「まあまあ」
 鈴乃はそう言って、懐から封筒を取り出した。中には、十万が入っていた。が、鶴見は手のひらを上げて、鈴乃がそれを渡そうとするのを制した。
「礼はいい。その代わり、頼みがあるんだ」鶴見は言った。「これで最後にしてほしい」
 鶴見とのセックスを収めたディスクを破棄したことは、まだ教えていない。鈴乃は依然として、鶴見の弱味を握ったまま。鶴見の頭の中では、そうなっているはずだった。
「何かあったの?」
「俺に決定権がないのは、分かってる。けど、面倒なものが出てきたもんでね」
「何?」
「<ミカド>」
「それなら今、あたしたちが潰して回ってるわ」
「俺たち、警察の中に発生したものもか?」
 鈴乃は、鶴見を見た。鶴見は続けた。
「<カザギワ>と昔から繋がってた刑事が、ふたり殺された。犯人は、仲間のはずの警察官。制服だがな。自宅を調べると、本棚は雑誌やらミニコミ誌やらで埋まってた。<Z city>、<ピースメーカー>、<赤と黒>、<Black List>、<エイジ>。全部、<ミカド>を名乗る人間が作ったものだ。犯人自身も、<鉄槌>なんてミニコミを作っていやがった」
「それはそれは」
「それに、本人は頑として吐かないが、明らかに警察内部に仲間がいる。<ミカド>がな。もしそいつらに、俺が<カザギワ>に便宜を図ってることが知れれば、俺も殺されるかもしれない。お前に会えば会うほど、その危険が高くなる」
「そう」
 鶴見が、横目で表情をうかがうのが、鈴乃には分かった。鈴乃は、思案するふりをした。鶴見は言った。
「俺だって、命が惜しい」
「でしょうね」
「駄目か?」
「あたしに、“うま味”がないわね」
「そうだな」鶴見は指先で、自分の顎を撫でた。「なら、こう考えるのはどうだ? これを最後にしなくてもいい。ただ、しばらく間を置く。俺たちだって、仲間内に<ミカド>がいると、何かとやりづらい。いずれ、何らかの対処をする。それで警察内部の<ミカド>が、おとなしくなるまで、時間を置いてくれ。そうしてくれれば、また俺はお前に、便宜を図ってやれる」
「いつ頃?」
「それは、まだ分からん」
「そうね」鈴乃は、ドアの肘かけに肘を突いた。運転席側の窓から、外を見る。鶴見に、ディスクはもう存在しないことを教えようかとも思ったが、やめた。「それでいいわ」
「感謝する」
 そう言いながらも、鶴見は小さく溜め息をついた。不満なのだ。できることなら、これを機会に鈴乃と縁を切りたかったのだろう。鈴乃は何も言わず、放っておいた。鶴見はシートにもたれて、上を向いた。その眉間に、皺が寄る。
「何だ? こいつは」鶴見は言った。
 鈴乃は舌打ちした。コルベットの天井には、たくさんの画鋲が刺さっていた。難しいとは分かっていたが、あまり人に見つかりたくないものだった。手をポンと合わせて、ごまかした。
「話は終わり。早く帰った方がいいんじゃない? あたしと会ってるところ、<ミカド>に目撃されたくないんでしょう?」
「ああ、そうだな」
 なおも天井の画鋲群をちらちらと見ながら、鶴見は頷いた。そして、コルベットを出て行った。浦口とともに去っていく鶴見の背中を見送ってから、鈴乃は煙草に火をつけた。紫煙を追いかけて、視線を天井にやる。天井に画鋲が描いているのは、星座。おおぐま座と、こぐま座だった。

つづく




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posted by 城 一 at 20:29| 長編小説 焔-HOMURA-[integral] | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月18日

ブログ小説 焔-HOMURA-[integral] 第145回(8版)


嘘と仮定と女と煮干し。


 床は、プリントアウトの白色で埋まっていた。まるで、雪が降ったあとのようだった。
<カザギワ・ビル>、カナコ・ローディンの部屋に、鈴乃はいた。アンバーの言葉が、頭の片隅に引っかかっていた。<SKUNK>と<ロメオ>の抗争に、<カザギワ>の殺し屋が関わっていたのかどうか、確かめたかったのだ。
 カナコ・ローディンは、プリントアウトの雪原の中央にいた。頭髪と同じ、燃えるような赤色のペディキュアを施した裸の足で、積もった雪を踏みつけにしている。<ミカド>の情報が、綴られた資料を。両手をだらりと脇に垂らし、半ば閉じた瞼の下で、眼球がせわしなく動いている。柿色の口紅を引いた、唇も同じだった。声を発さず、呪文を唱えているかのようだった。<資料踏み(ステッピング)>。カナコが、あまりにも膨大な量の情報を前にしたときに行う、儀式のようなものだ。前に、カナコに<資料踏み>の意味を聞いたことがあるが、“脳の回転が、よくなる気がする”という、曖昧な答えしか返ってこなかった。非論理的なものを嫌うカナコにしては、珍しいことだった。
「絶対に、踏まないでくださいね、ミス・鏑木」
 少年が、鈴乃の所までやって来て、そう言った。口端に手のひらを添え、声を潜めて。
「ええ、分かってるわ」鈴乃は、声の音量を少年に合わせて言った。
 少年は、十代前半。姿を消した風際慶慎と、同じ年の頃だった。卵型の、整った顔の輪郭に沿って、さらさらの金髪を顎下まで伸ばしている。サスペンダーで吊った、タータンチェック柄のパンツ。白いシャツ、グレイのカーディガン。頭に乗せているハンチング帽は、パンツと揃いの柄だ。彼の白いラバーソールを履いた足も、慎重に、床のプリントアウトを避けていた。<資料踏み>の邪魔をすれば、カナコの逆鱗に触れる。
「結構、かかりそうなの?」鈴乃は言った。
「僕には、ちょっと」
 少年の名前は、ロミオ・D・O。カナコ・ローディンの従者のような存在だった。彼女の仕事のサポートをし、ときには身の回りの世話までする。その若さで、カナコ・ローディンの側にいることを許されているのは、それ相応の仕事をするためだ。カナコの部下の中には、それを不服に思う者もいるようだったが、カナコの毅然とした態度と、非の打ち所のないロミオの仕事を前にして、実際に言葉にする者は少ない。
「ねえ、ロミオ。頼まれたもの、買ってきたんだけど」
“忙しい”のひと言で逃げようとしたカナコに、話をする時間を作らせた代わりに、鈴乃は使いを頼まれていた。小魚を買って来い、と。鈴乃は、自宅の近所にあるスーパーで迷った末に、煮干しを選んで、買って来ていた。ロミオに、スーパーの買いもの袋を示す。ロミオは、袋の中を覗き込んで、顔をしかめた。
「煮干し、ですか」
「おかしい?」
「そうではないんですが。コーヒーは飲みますか? ミス・鏑木」
「ええ」
「ブラックでしたよね」
「そうよ」
 ロミオとともにコーヒーを飲んだことがあったかどうか、鈴乃は覚えていない。あったとしても、記憶に残らない程度だということだ。にも関わらず、ロミオが当たり前のように、自分のコーヒーの好みを覚えていたことに、鈴乃は驚いた。カナコが、ロミオを側に置いている理由が、少しだけ分かったような気がした。鈴乃は、足音も立てずに部屋を出ていく、ロミオの背中を見送った。
 カナコは相変わらず、情報の入力(インプット)に忙しいようだった。鈴乃が来たことに気づいているのか、いないのか。挨拶のひとつもなかった。長い時間、同じ姿勢で立っていると、骨折した左脚が痛んだ。楽な姿勢を探そうにも、プリントアウトで埋まった大理石の床には、あまり足の踏み場はない。以前、同じようにカナコ・ローディンが<資料踏み>をしていたときに、少しくらいなら大丈夫だろうと、プリントアウトに足をかけたことがあった。どう考えても、彼女の視界の外だと思ったのだ。だが、違った。足を置いた感覚をろくに味わう暇もないうちに、カナコの怒声が飛んできた。人の怒りを買うというのは、気持ちのいいことではない。また、それを試す気にはならなかった。暇を潰そうにも、カナコの部屋は、視覚的な楽しみが皆無だと言ってよかった。窓際にある、大型のオーバーフロー水槽の中にいる、肺魚(ハイギョ)くらいだ。ただ、それも、何の可愛げのない熱帯魚だった。体長約九十センチの、長い体は灰色。太いうなぎのようなものだ。気を引くような動きをするわけでも、鳴き声を上げるわけでもない。長い時間が経過したような気がして、腕時計を見ると、まだ十分しか経っていなかった。
 鈴乃は、待つのをやめた。
「相変わらず、ロミオとはよろしくやってるの?」
 カナコは、話しかけられてもしばらくは、情報の入力を試みた。鈴乃も、同じように会話を求めて、独り言を続けた。カナコが、先に折れた。
「最近、元気がないという話を聞いていたけれど、どうやらその心配はなさそうね」カナコは言った。「たかが数分の待ち時間にも、耐えられない」
「いい女は、忙しいのよ」
「自分で言うと、価値の磨耗が早まるわよ」
 カナコは、床に敷き詰められたプリントアウトから降りると、脇に揃えて置いてあった、金の靴を履いた。自分の机につき、椅子にどさりと腰を下ろす。背もたれが、軋んだ。集中を解いた途端に疲労が襲ってきたのか、眉間を指先で揉む。
「きちんと、休んでいるの?」
「脳が休むと、人の体はどうなる?」
「動かなくなるわね」
「わたしは、情報管理部のトップの片割れ。言わば、脳よ。左脳と右脳の、どちらかは知らないけれど。わたしが動くのを止めれば、情報管理部の半分が動かなくなるわ」机の上には、コーヒーカップが載っていた。湯気がひと筋も立っていないところを見ると、中身は冷えきっているようだった。それを知っているのか、カナコはコーヒーに手をつけなかった。「まあ、トップのもう片割れは新人だから? わたしが休めば、きっと半分以上が動かなくなるわね」
「彼は、無能?」
「まさか。ただ、馴染むまでには時間がかかるということよ。思慮の浅いことをしてくれたわね、高田清一は」
 脳裏に、高田の最期の瞬間が蘇った。鈴乃は言った。
「いない人間を、悪く言うのはやめない?」
「そうね」
「言われたもの、買ってきたわよ」鈴乃は買いもの袋を、掲げた。「ザ・煮干し」
「は?」
 カナコが珍しく、その表情を歪めた。
「電話で言ったでしょう。小魚を買ってきてくれって。だから、煮干し。えー、カタクチイワシの」
「鈴乃。煮干しは、煮干しよ。欲しかったら、そう言うわ」
「だから、そう言ったじゃない」
「言ってない。わたしは、“小魚を買ってきてくれ”と言ったのよ。“煮干しを買ってきてくれ”とは、ひと言も言ってない」
「んー、と言うと?」
「だから」カナコは親指で、窓際にある水槽を指した。「“彼”が煮干しなんて、食べると思うの?」
「さあ」
 カナコは、机を手のひらで叩いた。
「教えてあげる、この“すっとこどっこい”。そんな、塩分の高いものを、彼は食べないのよ」
「ワオ。我らがミス・ローディンの口から、“すっとこどっこい”なんて言葉が聞けるとはね」
「あらそう。新聞(ブン)屋にリークでもしたらどう?」
「安心して、カナコ。煮干しは、カルシウム不足の補填に最適。まさに、今のあなたに」大きく、カナコに向けて手のひらを広げた。「ワオ! ぴったり」
「余計なお世話よ、馬鹿」カナコは言った。「もういいわ。さっさと用件を済まして、帰ってちょうだい」
「そんな、冷たいこと言わないで。あたしたち、仲間でしょう?」
「用件を済ませずに帰る?」
「不良少年たちから、“宇宙(ザ・スペース)”と呼ばれてる交差点のこと、分かる?」
「自分の車、あるいはバイクのタイヤをすり減らして溝をなくし、ゆくゆくは、タイヤを滑らせて交通事故を起こしたのち、天国もしくは地獄への片道切符を買いたいと考えてる、自殺願望を持った子どもたちが集まる場所(スペース)でしょう?」
「まあ、解釈の仕方は、人の数あれど」
 鈴乃は、カナコの机の上で、煮干しの袋を開けた。カナコは煮干しのにおいを嗅いで、“ごめんだ”とでも言うように、首を振った。鈴乃が何度も、しつこく勧めると、ようやくひとつ取って、そっとかじった。カナコは、眉間に皺を寄せて、言った。
「それがどうしたの?」
「“宇宙”と呼ばれるようになる以前の、その場所であった、少年ギャングチーム同士の抗争に関して、聞きたいの」
 カナコは、顔をしかめながらも、煮干しをもうひとつ、口に運んだ。
「わたしは、警察じゃないのよ。あくまでも、<カザギワ>に関する情報を管理する人間なの。この街であったことの全てを、把握しているわけではないわ」
「その抗争に、<カザギワ>の殺し屋が関わっていたかどうかを、知りたいのよ」
 言って、鈴乃もひとつ、煮干しを食べた。カナコは睡魔に抗うかのように目を閉じ、両の眉尻を指先で撫でた。そして、言った。
「子ども同士の抗争に、<カザギワ>の殺し屋が? あり得ないわ」
「よく、思い出して」
「もう、したわ」
「そういう案件はない、ということね」
「わたしだって、完璧じゃないわ。でも、そうね。九十パーセント以上の確率で、ないと言えるわ。ギャングとは言っても、所詮子どもよ。<カザギワ>を使えるような金を、所持していると思う? わたしは思わないわ。それに、たとえ持っていたとしても、こちらが頷かない。子どもをクライアントにするなんて、リスクの高いことはしない」カナコは言った。「間違ったことを言っているかしら?」
「いいえ」
「それに。子ども同士の喧嘩に大人が介入すれば、子どもの世界に、その世界を治めるルールに、綻びが生じる。バランスが崩れる」
「大人から逃れるために、足を踏み入れた世界が、侵される。汚される」
「そういうことをしたと、他の同世代のギャングに知れれば、メンツが立たない。他の少年ギャングたちから、尊敬(リスペクト)されない。胸を張れない」カナコは言った。「たとえ縄張りが広がっても、それでは何の意味もない」
「でも、耳にしたのよ。子ども同士の抗争に、<カザギワ>が関わったという話を」
「ただの、噂話でしょう?」
「その抗争の場にいた、当事者が言ってるのよ」
「なら、可能性はふたつね。わたしの記憶が間違っているか」カナコは、煮干しを食べ続けながら、言った。もう、顔はしかめていなかった。「その、“ミスタ・当事者”が嘘を言っている」
「耳を傾けてくれる人間がいなければ、嘘は成り立たない」
「なら、自分に対して、嘘を言っている」
「どういうこと?」
 カナコは肩をすくめた。
「思いつきで言っただけよ」
「じゃあ仮に、自分に対して嘘を言っているのだとして」鈴乃は言った。「どうしてだと思う?」
「さあ」
「嘘は、作らなきゃ生まれない」今度は、鈴乃は自問自答した。「どうして、そんな嘘を作ったのかしら」
「その当事者が作ったとも、限らないわよ。他の誰かが嘘を作って、その当事者に吹き込んでいるのかもしれない」
「なぜ」
「もちろん、嘘じゃない可能性もあるのよ? どこかで情報がねじれた末に生まれた、ただの間違った情報だということも。でも、嘘だとしたら。誰かが、何らかの意図を持って、その当事者に嘘を吹き込んだのだとしたら」
「その誰かは、何か、当事者にしてほしいことがある?」
「そのために、当事者を操作(コントロール)したい」カナコは言った。「少なくとも、わたしはそう考える」
「あたしも、そう考える。でも、何がしたいのかしら」
「分からないわよ。それに、今積み重ねたのは、仮定の話ばかりだもの。まだ気になるんだったら、あとは自分で調べてちょうだい」
「分かったわ」
 ロミオが、コーヒーを運んできた。彼は、カナコの机の上で、煮干しの袋が空いていることに、そしてカナコがその中身を食していることに、“珍しい”と驚いていた。コーヒーは、ちょうどいい濃さだった。カップの中を空にして、鈴乃はカナコ・ローディンの部屋をあとにした。

つづく




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ブログ小説 焔-HOMURA-[integral] 第144回(2版)


満ちるは器ばかりなり。


 鈴乃は、窓の外を見ながら、アンバーの魔法瓶に残った、ホット・レモネードを飲んでいた。汗の滲む体に、バスローブが心地いい。
「あんた、イかなかっただろ」
 アンバーが言った。全裸のまま、ベッドの上でポテトチップスの袋を開けていた。ホテルに行く途中に寄ったコンビニで、買ったものだった。口を動かしながらアンバーは、気だるそうに、テレビの画面を眺めている。興味を引く番組がないらしく、落ち着きなく、チャンネルを変えていた。深夜三時になろうという時刻だ。仕方ないことだった。アンバーは、アダルトチャンネルを入れて、リモコンを置いた。
 アンバーの言った通りだった。鈴乃は、アンバーに合わせて、達したふりをした。別に、珍しいことではなかった。貞淑な女が聞けば、顔をしかめ、軽蔑するくらい、体を安売りしてきた。相手だけが満足してセックスが終わり、孤独を感じていたのも、もう昔の話だ。体を介して、男とひとつになる。そんなのは、幻想だ。羽継を失って、鈴乃はそう諦めをつけた。今では、オーガズムに達しない方が、安心するときさえある。
 鈴乃は振り向かずに、窓に映る、ベッドの上のアンバーに言った。
「気になる?」
「多少、自尊心は傷つくな」
「今度から、気をつけるわ」
「そうしてくれ。他の、世の男のためにも」
 半透明な部屋の景色の向こうには、ラブホテルと隣接する、テナントビルの窓と壁が見える。情緒など、微塵もなかった。テナントビルの二階では、アダルトビデオを扱っているらしい。ビデオを作るメーカーか、それを売るショップか。ビルの窓から、その向こう側は見えなかった。AV女優のポスターで、窓ガラスは隙間なく埋まっていた。思わせぶりに両手で乳房を隠した、女優のひとりが、挑発的な視線を鈴乃に送っていた。
「欲求不満にならないのか?」アンバーが言った。「別に、俺はいいんだぜ。まだ、二、三ラウンドはいける」
 鈴乃は首を振った。
「イッたからって、満たされるわけでもないから」
「そうかい」
「聞いてもいい?」
「ああ」
「マリとは、長いの?」
「マリ?」
「この前のパーティに、あたしと一緒にいた女よ」
「ああ、あの女。あんたの連れじゃないか。知らないのか?」
「知らないから、聞いてるんじゃない」
 アンバーはポテトチップスを頬張った。先ほどから、欠片がベッドの上に落ちているが、気にしていない。
「三年くらいかな。俺が、<アンダーワールド>を始めて、すぐからだから。正直言って、あんまり好きじゃないんだ、あいつのこと。面倒な類のファンでな」
「どうして?」
「気を悪くしたかい?」
「いえ」
「ほとんど、ストーカーみたいなもんなんだ、あいつ。教えてないのに、俺の携帯の電話番号とメアド、家の住所まで知ってやがる」
「調べたの?」
「俺の周りにいるヤツらに、聞き回ったらしいぜ。金を握らせたって話もある。趣味は、俺の出したゴミを持っていくこと」
「それを、ほったらかし?」
「言っても、やめねえんだ。もう諦めたよ。ま、見た目は悪くないからさ。気が向いたら、部屋に呼んでファックする。その点は、いい思いさせてもらってるわけさ。ギブ・アンド・テイクってやつだ」
「それは、リヨがいたときから?」
「いや」アンバーは言った。「ああ、ストーカー行為は、その頃からあった。リヨがいたときは、一度ぶっ飛ばしたけどな。あいつが俺の周りにまとわりつくんで、リヨに誤解されかけたんだ」
「マリに、男がいるのは」
「知ってるよ。強いし、金持ってるし、仕事で忙しいし。文句のない男だってよ」
「そう」
「ああいう女とは、つき合いたくないな」
「でしょうね」
 アンバーはベッドから下りて、備えつけの冷蔵庫の所へ行った。扉を開け、中を物色する。
「悪いな。あんたの連れだってことは、分かってるんだけど」
「別に。そんなに、仲がいいわけじゃないから」
「そうなのか?」
「最近、知り合ったばかりなのよ」
「そうかい」アンバーは言った。「なあ、本当にもう一回やらなくていいのか?」
「いいわ」
「なら、ビール飲むぜ」
「お好きにどうぞ」
 プルタブを開ける音がした。鈴乃は、ホット・レモネードを注ぎ足すために、カップに向けて、魔法瓶を傾けた。が、ホット・レモネードは出てこなかった。もう、空だった。

つづく




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ブログ小説 焔-HOMURA-[integral] 第143回(10版)


the space


 交差点は、黒い円(ドーナッツ)で埋まっていた。車やバイク好きの者たちが、そのテクニックを実験し、披露する場所になっているのだ。路面のアスファルトは、焼けついたタイヤのゴムで黒く汚れ、転倒した車体で傷つけられて、小規模の戦争でもあったかのような様相を呈している。手荒い愛撫しか知らない訪問者たちはいつからか、親しみを込めて、この交差点を“宇宙(ザ・スペース)”と呼ぶようになった。黒い惑星(ドーナッツ)が集まってできた、宇宙だ。
 襟に毛皮のついたミリタリージャケットを着たアンバーが、地面に膝を突き、黒い円を指先で撫でた。振り向かずに、鈴乃に言う。
「知ってるか? ここのこと」
「ザ・スペース」
 鈴乃は言った。吐息は、煙草の煙のように真っ白に染まり、夜空へと吸い込まれていく。深夜一時を過ぎた頃だった。澄んだ空には、星が輝いている。
「そう」アンバーは言った。「けど、この宇宙が生まれるきっかけを作ったのが、俺だってことは、知らないだろ」
 鈴乃は、片方の眉を上下させた。
「ええ」
 先を促すことは、しなかった。黙っていても、アンバーが話を続けるつもりなのは、分かった。厳しい寒気が、感覚を鋭敏にしている。
<スージー>のマスター、勝谷を介して、アンバーからデートに誘われた。勝谷は、“お前のことが気に入ったらしいぜ”と言っていたが、鈴乃にはとても信じられなかった。アンバーに叩き込んだ前蹴りと右ストレートはまだ、頭の中で、容易に思い出すことのできる場所に留まっている。あの乱交パーティから、四日しか経っていないのだ。アンバーの方は、記憶に痛みと憤怒が伴っている。自分よりも、鮮明に覚えているはずだ。鈴乃は思った。そのアンバーから、デートなどに誘われるわけがないのだ。
 罠かもしれない。鈴乃は、そう思った。仕返しをするために仲間を集め、待ち合わせ場所に指定したこの“宇宙”という名の交差点の周辺の建物に、隠れさせているのだと。今日着ている、ベージュのトレンチコートの下に装備したショルダーホルスターには、ロブ&ロイが収まっている。腰のガンベルトには、スペアの弾倉。最悪の事態を想定した場合、それくらいの装備は必要だと思った。前に見た、<フォスター>のライブに集まっていた客のことを考えると、アンバーが動かすことのできる人数は、かなり多い。
 だが、それも杞憂に終わりそうだった。アンバーの言葉や仕草の隙間から、殺気というものが感じられない。タイヤ痕でできた宇宙に注ぐ視線は、穏やかなものだった。
「もう、一年以上も前のことだ。リヨが、死んだ」アンバーは言った。
「リヨ」
「俺の恋人さ。それを、忘れたくなくてな。いや、もちろん忘れるつもりはないんだけどな」アンバーは言葉を止めて、思案した。「……そうだな。あいつの記憶を、どうにかして、形にしておきたかったんだ。だから、ここにドーナッツを描いた。バイクでな。ドーナッツ・ターンって、知ってるか?」
 アンバーが、振り返った。鈴乃は肩をすくめた。
「今度、機会があったら、見せてやるよ」アンバーが言った。
「楽しみにしてるわ」
 アンバーが触っている円は、横断歩道の白い縞模様の一部に、重なるようにして描かれていた。他のものとは違い、丁寧で、何重にもゴムが焼きつけられている。よく見ると、テクニックの実験や披露のために描かれたものではないことが、分かる。
「ここだ」アンバーは、円の中心に手のひらをあてた。「ここで、死んだ」
「残念ね」
 アンバーは、脇に魔法瓶を抱えていた。それを手に取ってふたを外し、傾ける。白い、半透明の液体が細く線を描いて、地面に注がれる。
「それは?」鈴乃は言った。
「ホット・レモネードだ。ここから歩いて五分くらいの場所にある、<quilt>って店のな。リヨの、お気に入りだった」
 ホット・レモネードは、凍てつくような外気に触れて、悲鳴を上げるように、湯気を立てていた。アンバーは、魔法瓶のふたにホット・レモネードを注ぎ、それを鈴乃に差し出した。
「飲むか?」
「ありがとう」
 鈴乃は、ホット・レモネードを飲んだ。味を楽しむことができないほど、熱かった。ふた口目からは、慎重に、そっと口をつけた。
「事故か、何かだったの?」鈴乃は言った。
「いや。殺されたのさ。クソ<ロメオ>と、クソ<カザギワ>に。街の、どうしようもないクズどもに」
 口内を焼いたホット・レモネードに、鈴乃は舌打ちをした。突然、アンバーが口にした<カザギワ>の四文字に、手にしていた、魔法瓶のふたを傾けすぎたのだ。だが、ふたを落とさなかっただけ、マシかもしれない。鈴乃は思った。アンバーは、鈴乃の反応に気づいていないようだった。地面の、リヨが死んだという場所に、視線を注いだままだ。
 鈴乃は、確信した。アンバーは、デートに誘った女が、<カザギワ>の殺し屋であることを知らない。
「どういうことなの?」
 鈴乃は、動揺を言葉に滲ませないよう、慎重に尋ねた。
「ここで、抗争があったんだ。<SKUNK>と<ロメオ>って、ギャングチームの抗争が。リヨは、それに巻き込まれた」
「調べたのね」
「違う。俺も、その場にいたんだ。当時、俺は<SKUNK>のメンバーだった」
「元ギャングだったのね」
「馬鹿だったと思う。たかが縄張り争いに、平然と命を賭けてた」
「誰にでも、間違いはあるわ」
「そう、ある。だが、その間違いのお陰で、リヨを失った」
「仕方ない、とは言えないわね」
 アンバーは、力なく笑った。
「気持ちはありがたいけどな。リヨの死は、“仕方ない”じゃ済まされない」
「ええ」
「ギャングとか、夜の街とか。そういうのが、苦手なヤツだったんだ。リヨは。それなのに、無理して。俺のことを心配して、来ちまったんだ。交通安全のお守りを、持ってたよ。まったく」アンバーは、魔法瓶から直接、ホット・レモネードを飲んだ。口に含みすぎたらしく、熱さに呻く。「ちくしょう。ここに立ってた。最初現われたときは、暗くて、影にしか見えなかったんだけど。でも、悪い予感がした。俺は、影が誰なのか、確認しようとした。けど、間に合わなかった」
 車が一台やって来て、鈴乃とアンバーに気づき、中央線すれすれに位置を変えて、走っていった。
「銃声がして、影が倒れた。そのときにはもう、確信があった。倒れ方で、分かったんだと思う。通りには<ロメオ>と<カザギワ>のヤツらの撃った銃弾が降り注いでたけど、そんなの関係なかった。俺は、影に走り寄った。影は、リヨだった」
 鈴乃は、アンバーに同情すると同時に、違和感を覚えていた。少年ギャングチーム間の抗争に、<カザギワ>の名前が出る理由が分からない。子どもは、効率や合理性よりも、プライドやメンツ、評判といったものを優先する。抗争に勝っても、他のギャングから認められなければ、意味がない。だから、チームの外の人間を雇ったりなどしないはずなのだ。プロの殺し屋を雇ったりすれば、評判は下がりこそすれ、上がることは、決してない。同じ裏社会でも、子どもと大人では、少々ルールが違うのだ。
 口には、出さなかった。わざわざ、傷心のアンバーに、挑発的なことを尋ねることはない。<カザギワ>に帰って、カナコ・ローディンや桧垣と言った、情報管理を担当する人間に聞けば済む話だ。
「リヨは、腹を撃たれてた。俺が抱き上げたときにはもう、死にかけてるのが分かった。俺は仲間に、“救急車を呼べ!”って怒鳴った。そして、リヨの心臓マッサージを始めた。呼吸が、脈が弱くなってた。けど、助かると思った。そう、自分に言い聞かせた。絶対に、助けると」
 わずかにできた沈黙に、鈴乃は、アンバーが泣いているのではないか、と思った。が、違った。アンバーはただ静かに、前方を見つめているだけだった。何もない、虚空を。
「また、銃声がした。リヨの頭が、赤く」
 鈴乃は、アンバーの肩に手を置いた。
「もういいわ」
 アンバーは、左手の薬指にはめた、ふたつの指輪を、親指で撫でていた。
「前やったパーティのときに、あんた、聞いてたな。この指輪のこと」
「ええ」
「決まった相手が、どうのと言ってた」
「そこまで詳しくは、覚えていないけど」
「あんたの言った通りさ。この指輪は、リヨと揃えたもんだ」
「そう」
「すまん」
「あなたは、謝るようなことは、何もしてない」
「そうだな。ありがとう」
 鈴乃は、魔法瓶のふたの中に残る、ホット・レモネードを見た。もうひとりの、自分が映っていた。これから、自分がしようとしていることに対して、もうひとりの鈴乃が言った。“ほんと、ずいぶん優しくなったわね、鈴乃ちゃん”。くそくらえだ。鈴乃は、ホット・レモネードを飲み干した。
「それで?」
「それで、って?」
「何か、あたしからもらいたくて、今日のデートのセッティングを、勝谷に頼んだんでしょう?」
「ああ」アンバーは言った。「ああ、まあな。あんたなら、リヨの穴を埋めてくれるんじゃないかと思ったんだ」
「セックスで」
「そいつはこの前、散々、堪能させてもらったさ」
「なら」
 アンバーは、首を振った。
「リヨのことを、忘れたいんじゃないんだ。けど、いつまでも昔の女のことに囚われてたんじゃ、前に進めない。道を、踏み外しそうになる」
「嬉しい言葉だけど」鈴乃は言った。「でも、それは難しいわ。悪いけど、あたしにも想ってる人がいるのよ」
「それは、俺の今の昔話を聞いても、変わらないと」
「理屈じゃないのよ。そういうものでしょう?」
「ああ、そうだな」
「で、どうする?」
「一緒に、ホテルにしけ込むのは、OKなのか?」
 鈴乃は微笑を浮かべ、アンバーに魔法瓶のふたを渡した。その耳元に、そっと囁く。
「今夜は、暴力はなしにしてあげるわ」
「ありがたいね」
 アンバーは弱々しく、笑った。

つづく




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2008年01月17日

ブログ小説 焔-HOMURA-[integral] 第142回(4版)


あなたがそう言うなら。


 視線はどうしても、暗赤色のハートマークへと動いた。
 文永の右目だった。文永は、視力を失った右目に、眼帯をしていた。黒い布地に、暗赤色のハートマークが縫いつけられたものだ。中央に、黒い糸を使ったいびつな字体で、『NEVER KNOWS BEST』と綴られたハートマーク。慶慎はどうしても、そこから視線を外すことができなかった。
 慶慎は、文永の経営するタトゥー・スタジオにいた。<文永堂(ぶんえいどう)>。<ブルーリーフ・ビル>という名のテナントビルの地下一階。ワインレッドに塗られた、分厚い木製の扉を開けると、その店はある。
 なぜ、来たのか。慶慎は自問し、自答した。そんなもの、分からない。あえて言えばきっと、他に行く場所がなかったからだ。
 金はもう、底を突いていた。数日間、家に帰らずに生活した。金を使わずに済むわけがなかった。インターネットカフェ、漫画喫茶、ファミリーレストラン。腹を満たし、喉を潤し、眠る場所を確保するのに、財布の紐を緩めるのを止めることはできなかった。
 昨夜はとうとう、野宿をした。いや。正確に言うと、ただ眠らなかっただけだ。寒風を避けるために、建物の陰に身をひそめ、夜を過ごした。睡魔に負けそうになると、街を歩いた。歩けば、目が覚める。体が暖まる。眠れば、死ぬ。そう考えたのだ。この街の冬を越せずに、死を迎えるホームレスが、たくさんいることを、慶慎は知っていた。
 家には、帰りたくなかった。文永から離れて生活するために借りた、アパートの部屋。それはイコール、慶慎が殺し屋として生活を始めた場所でもあった。その空気を再び吸えば、また殺し屋の世界へと戻ったことになる。そんな気がした。それが嫌でならなかった。
 矛盾している。それは分かっていた。でも、どうにもならなかったのだ。
「元気にしてたか? ひとり暮らしは、大変だろう。ええ?」
 文永が言った。煙草は吸っていなかった。代わりにガムを噛んでいて、しきりに顎を動かしている。慶慎は、返事をしなかった。
 文永の後ろで、ヒン、と音がした。ターボライターのふたを跳ね上げる音だ。
 女。二十代後半から、三十代前半。慶慎とテーブルを挟み、向かい合わせに座る文永の後ろで、壁に寄りかかり、腕を組んでいた。首の左側に、バラの刺青が入っている。白いシャツのボタンを四つ外し、大きく胸元を開けて着ていた。動くと、黒いブラジャーが、ちらちらと見えた。黒いベルト、黒いレザーパンツ、黒いブーツ。箱(ボックス)から煙草を取り出した、左手の薬指には、金の指輪をしていた。文永と、揃いのものだ。
「ひなつ」文永が言った。「煙草は、やめとけ」
「どうしてさ」ひなつと呼ばれた女が、言った。
「喘息の子どもの前じゃ、煙草は吸わないもんだ」
 ひなつは、鼻を鳴らした。慶慎を睨むように一瞥し、煙草を箱の中へ戻す。
「慶慎」文永が顎を動かし、後ろにいるひなつのことを示して、言った。「智坂ひなつだ」
 慶慎は頷いた。
「ひなつ」文永は後ろを向き、今度は逆のことをした。慶慎を示し、ひなつに言った。「息子の、慶慎だ」
「知ってる」ひなつは言った。
「ひなつさんとは」慶慎は、文永に言った。
「ああ、そうだ。ひなつは俺の恋人(オンナ)だ」文永はそう言い、にやりと笑った。「“ママ”と呼びたいか?」
「僕はどちらかと言うと、“お母さん”派だよ」
 文永は、驚いたように片方の眉を上下させた。
「呼びたいのか?」
「まさか」
「文(ぶん)ちゃん。あたしだって、ゴメンだよ。実の父親の、右目の視力奪っといて、平気な顔してるクソガキとは、家族ごっこなんかしたくない」
 文永は、振り向かずに言った。
「ベイビ。口が過ぎるぜ」
「あたしは、そうは思わない」
「俺は思う。だから少し、黙っていてくれや」文永は言った。「なあ、慶慎。今日は、何か話したいことがあって、ここに来たんじゃないのか?」
「僕は」慶慎は口ごもり、うつむいた。落とした視線の先、テーブルの上には、ひなつが出してくれたホットミルクがある。慶慎は、その表面に映る自分の顔を見た。「分からないよ」
「越智が、心配してたぞ」
「師匠が?」
 カザギワで最強の殺し屋“銀雹”と呼ばれる越智彰治。慶慎に人を殺す技術を教え、殺し屋の世界へと導いた男だ。会いたい。胸の内で、そう思うと同時に首を振った。越智に会えばきっと、優しい言葉をかけられる。そして、気づかないうちにまた、殺し屋の世界へと戻っている。
「連絡があってな。また、“お前が手を出したんじゃないか”ってな」
「また」
「お前のことを、死ぬ寸前までぶちのめしたとき。お前が、殺し屋になる決心をする直前のときのことだ。あいつが、なかなか顔を見せないお前のことを、心配して来てな。案の定、俺がまた、お前をひどい目に遭わせたんだってことが分かると、殴られた」
「そう」
「そのときと、同じことが起きてるんじゃないかってな。危うく、殺されかけたぜ」
「そう」
「親父も、心配してる。顔や行動にゃ、出さないが」
「顔にも、行動にも出さないんなら、分かるはずないじゃないか」
「直接、会ってきた。同じ場所にいて、同じ空気を吸ってりゃ、分かるさ。俺と親父だって、一応親子なんだ」
「うん」
「他にも、お前のことを心配してるやつらが、たくさんいる。どうするんだ、お前は。これから?」
「カザギワに、戻るのかどうか?」
「ああ」
「戻るわけ、ないじゃないか。もう、たくさんだ。あんな思いはしたくない」
「DEXビルでのことか」
「そうだよ」
「そして、ミカドのこと」
「そうだよ」
「殺し屋は、人を殺して生計を立てる、業の深い職業だ。それを分かっていて、お前はカザギワに入ったんじゃないのか?」
「それは」
「何をしても、縁ってやつは発生するが、人を殺せば、特別強いのが生まれる。怒り、憎しみ。そういう類の縁だ。殺し屋ってのは、常に、そういう縁に足下すくわれる可能性のある職業なんだ。分かってなかったのか? それを」
「頭では、分かってたよ。けど」
「ミカドがやったのは、そういった縁の可視化だからな。カザギワが築いてきた業を、実際に見せられて、びびっちまったか」
「びびったとか、そんな軽いものじゃないよ」
「じゃあ、何だ」
「考えたくない」
「慶慎。今さら父親面するのもなんだがな。それは、駄目だ。仮にも、お前は人を殺したんだ。たくさん。その数を数えろなんて、言わねえ。けどな。お前が真剣に、人の命のこと。人を殺すということ。そういうのを考えなきゃならないくらいの数は、殺したはずだ。違うか?」
「知らない」
「痛えぞ」
 顔を上げた慶慎は、文永の拳を見た。逃げる余裕はなかった。殴られ、椅子ごと床に倒れていた。火照る頬骨が、今までこらえていた涙を溢れさせる。慶慎は床に手を突き、倦怠感に包まれた体を、何とか持ち上げる。
「何するんだよ」
 慶慎は言った。声が震えているのが、自分でも分かった。どうにもならなかった。
「“知らない”じゃ済まねえんだよ、慶慎。分かってるだろうが」
「分かんないよ」
 文永の手が、白いカットソーの襟元を掴み、慶慎の体を持ち上げた。
「お前」
 振り上げられた拳。慶慎は首を捻ってそれをかわし、文永の腹を蹴った。
「今さら!」慶慎は言った。「今さら、優しくしないでよ! 前のあんたなら、僕のことを気にもかけないで、煙草をバカバカ吸ってたじゃないか。まともな話ができたためしだってなかった。まともな説教だって、したことなかった。こういう殴り方だってしなかった。前は、自分の感情だけで。気持ちだけで、僕のことを殴ったじゃないか。それを、どうして今さら、僕のためになんか殴ったりするんだよ!」
 文永は、テーブルの縁に手をかけて、立ち上がった。そして、言った。
「俺は、変わったからだ。変えてくれたのは、お前だ」文永は、眼帯をむしり取った。色の薄くなった右の眼球が現われる。「右目の視力を失って、俺の世界は変わった」
「僕には無理だよ。変わる世界に、合わせることなんかできない」
「なら、世界を変えろ」
「無理だよ!」
「自分を変えろ」
「できっこない」
「世界を変えることは、自分を変えることだ。自分を変えることは、世界を変えることだ」
「やめて」
「慶慎」
 文永の手が伸びてきた。抱き締められる。慶慎は、そう直感で感じた。
 そんなことをされれば、壊れる。
 叫んだ。手を振り払い、文永の顎を殴った。鼻に左ジャブ。みぞおちに膝。畏怖の対象だったはずの父親の体は、あっけなく床に仰向けに倒れる。慶慎は、その体に馬乗りになった。
 振り下ろそうとした拳を、止めた。かちり、という聞き覚えのある金属音を聞いたからだ。慶慎は顔を上げた。ひなつが、小型のピストルを構えていた。
「お前にやるのは、右目だけだ。クソガキ」
 跳躍。空中で体を捻る慶慎に届いたのは銃声だけだった。銃弾は当たらなかった。着地し、ステップ。テーブルの上からマグカップを投げた。飛び散ったホットミルクが、ひなつの視界に薄膜を張る。
 でたらめに引き金が引かれた。そんなものに当たるほど、もう弱くはない。一歩で間合いを詰めた。ひなつの手から銃をはたき落とし、その首を鷲掴みにした。壁に、その頭を打ちつける。噛み締めた奥歯が軋んだ。
「家族の話に、部外者が首突っ込んでんじゃねえよ。この、クソアマ」
「クソが」
「この」
 慶慎は言いかけて、口をつぐんだ。
「慶慎」
 文永に名を呼ばれ、慶慎は振り返った。銃口が、慶慎の胸に狙いを定めていた。
「父さん」
 文永は、首を振った。
「もう駄目だ、俺たちは。俺たちは、親子でいるべきじゃない」
「何言ってるの」
「悪いのは、全部俺だ。お前を殴り、蹴り、罵倒した。体を、心を傷つけた。お前を、壊した」
「父さん」
「もう、そうやって呼ばなくていい。慶慎。ひなつから、手を離せ」
 言われた通りにした。文永は続けた。
「俺をやるのはいい。だが、ひなつを巻き込むのは駄目だ。慶慎」
「文ちゃん」ひなつが言った。
「黙ってろ、ひなつ」文永は銃を下ろし、言った。「俺を殺したいなら、殺せ」
「どうして、そんなこと言うの」
「違うのか? 俺を殺したいんじゃないのか? 憎くて、仕方ないんだろう」
 慶慎は考え、力なく笑い、首を振った。
「分からないよ、父さん。もう、何も」
「終わりだ、慶慎」
「あなたが、そう言うなら」
 慶慎は、倒れた椅子の下敷きになっていたフライトジャケットを着た。誰も、何も言わなかった。店の中にいる者は皆、息を押し殺している。出口へ向かい、その直前で足を止め、慶慎は振り返った。
「ねえ」慶慎は言った。「その銃で、僕を撃ち殺してよ」
 文永は首を振った。
「ノー」
「そう」
 慶慎は再び、文永たちに背を向けた。
「どこへ行くんだ? 慶慎」
「分からないよ」
 慶慎は、<文永堂>を出た。強い日差しが、慶慎を刺した。まだ、昼だった。だが、どんなに太陽が激しく照りつけても、涙を乾かすには足りないように思えた。
 街はイルミネーションと装飾品に彩られていた。
 そうだ。慶慎は、思い出した。日付は、十二月二十五日だ。
 慶慎は、<文永堂>の分厚い木製のドアを振り返って、呟いた。
「メリークリスマス」

つづく




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2008年01月13日

ブログ小説 焔-HOMURA-[integral] 第141回(3版)


あたし、膣出しNGなんです。


 噴き出した汗が、背中とソファの間に、不快な感触を作っていた。暖房が、効きすぎているのだ。体が動く度に、耳障りな音がする。
 アンバーが、鈴乃の上で、腰を振っていた。セックス。今夜、何度目になるのか、もはや数える気にもならない。性器が、痺れと痛みを帯びていた。無理もなかった。ここ四、五時間。休みなく、ずっと、セックスが続いている。
 勝谷に抱かれると、<フォスター>の者たちが、我先にと、鈴乃の体に群がってきた。皆に、目をつけられていたらしい。声をかけられなかったのは、鈴乃が、近寄りがたい雰囲気をまとっていたからだと、誰かが言っていた。
 群がってきた者たちは、ひとりずつ相手にした。複数人同時に相手にして、わけも分からなくなり、弄ばれるのも癪だ。
 尻の穴の方を、使いたがる者もいた。好きにさせた。ローションを使わせることだけは、忘れなかった。
 アンバーの首から下がるネックレスが、チカチカと光を反射させていた。髑髏をモチーフにした、ペンダント・ヘッド。その両目には、赤い石がはめ込まれていた。
 アンバーとは、マリを交えての3Pもした。マリは、女同士で肌を重ねることに、慣れているようだった。抵抗する素振りも見せなかった。鈴乃とマリは、互いの体から分泌する体液を、舐め、すすり、飲み、味わいあった。そのとき感じた、小さな罪悪感は多分、シドへのものだ。彼の恋人(オンナ)を、奪ってしまった。そんな感覚に襲われた。
 鈴乃は瞼を閉じた。体が、痙攣する。オーガズムだ。ビクビクとのたうつ自分を、客観的に、離れた場所から見守る、もうひとりの自分がいる。心と体が、分離するのだ。ふたつが一緒のまま、達するのは、兄に抱かれたとき以外にない。満足気な表情で見下ろしているアンバーを、胸の内で、嘲笑った。
 アンバーが、ペニスを抜いた。絶頂に達した鈴乃を、気遣っているのだ。薄っぺらい優しさだ。アンバーは笑い、鈴乃の頬に張りついた髪の毛を、そっと剥がした。
「そろそろ、このパーティも終わりだな」アンバーが言った。
 バーの中で起きている者は、もう、鈴乃とアンバーしかいなかった。静かなものだった。皆、それぞれの体勢で、ぐったりと床に倒れ、眠りに身を投じていた。
 鈴乃は、テーブルの上にある、空のグラスを指差した。
「氷、取ってくれる?」
 かろうじて残っていた、溶けかけの氷の塊をアンバーから受け取り、口に含む。熱に侵され尽くした体に、ひと粒の清涼感。安堵の溜め息が出る。
「疲れたかい?」
「さすがに」鈴乃は言った。
 アンバーの左手が、鈴乃の胸を揉んでいた。愛撫と言うよりも、ただ、落ち着く場所を求めている感じだった。その薬指には、全く同じ造りの銀の指輪が、ふたつ重なっている。
 鈴乃は言った。
「その指輪、何なの?」
「たいした、意味はねえよ」
 アンバーは、視線を指輪に落としたまま、そう言った。自分に、そう言い聞かせようとしているようだった。
「そんなはずないでしょう? 左手の薬指よ」鈴乃は言った。「決まった相手がいるのに、こんなパーティをしてていいのかしら?」
「いいんだよ」
 ぶっきらぼうにそう言った、アンバーの表情は曇っていた。指輪には、“デリケートな部分”があるらしい。鈴乃は、目を細めた。そういうことが分かると、放っておけない性質だ。が、言葉を加える前に、アンバーのペニスに、再び体を貫かれていた。
「お喋りは、後回しにしようぜ、ベイビ。パーティの締めといこう」
 不意に再開したピストン運動に、鈴乃は舌打ちした。下降線を描いたあと、低い所で落ち着いていた、快楽のグラフが、一気に跳ね上がる。
 アンバーは、舌なめずりをした。
「俺の“決まった相手”にでも、なりたかったのかい?」
 アンバーのピストンが、激しさを増した。鈴乃は、唇を噛んだ。手のひらが勝手に、何か、掴むものを探していた。かと言って、アンバーの手は、欲しくない。鈴乃は、自分の体を抱き締めるようにして、両肩を掴んだ。
 抱えられた太腿に、アンバーの爪が食い込んだ。その口から漏れる声が、高まっていく。アンバーの腰が震えた。
「膣(なか)に、出していいんだろ」
「ノー・グッド」
 テーブルや椅子を転がし、アンバーの体が宙に舞った。蹴り飛ばしていた。快楽の共有はしても、子種を子宮で、受け止めてやるつもりはなかった。
 床で腰を強打したアンバーは、目に涙を浮かべながら、痛みにのたうち回った。絞り出すような声で、言った。
「てめぇ」
「そんなことだろうとは思っていたけど、あたし、膣出しNGなの。ごめんなさいね」
 アンバーが、飛びかかってきた。顔が、真っ赤に染まっていた。射精寸前で足蹴にされたのが、よっぽど、頭に来たらしい。気持ちは分かるが、容赦する気はなかった。右ストレートを奔らせる。鳩尾へ、一発。アンバーの体は、墜落した。それきり、床で動かなかった。気絶していた。
 鈴乃は、側に落ちていた、誰かのダッフルコートを、アンバーの体に掛けた。
「今度から、ちゃんと避妊はするのね。焦らされて悦ぶほど、Mでもないんでしょ?」
 鈴乃は言った。アンバーはもちろん、何も言わなかった。
「騒がしいな。随分激しい、ファックだ」
 カウンターの奥から、勝谷が出て来て、言った。Tシャツに、トランクスのみという格好だった。
「あら。見ないと思ったら」鈴乃は言った。
「ああ、あんたか」勝谷は、自分の禿頭を撫でた。側頭部に残る、少ない髪の毛には、寝癖がついていた。「事務所で、寝てたんだよ。パーティは、楽しめたかい?」
 鈴乃は、微笑を浮かべた。
「それなりに」
「そいつは良かった」
 勝谷は、カウンターに入り、鈴乃を見た。軽く握った拳で、カウンターをノックするように、叩く。鈴乃は頷き、スツールに腰を下ろした。
「モーニング・コーヒーを、ご馳走するよ。お嬢さん」勝谷は言った。
 鈴乃は、窓の外を見た。
 夜が明けていた。

つづく




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2008年01月03日

ブログ小説 焔-HOMURA-[integral] 第140回(2版)


なかなか、オツな暗闇だこと。


 モスコミュールを、流し込む。ここ最近飲んだ中で、一番まずい酒だった。カウンターの向こう側で、いやらしい笑みを浮かべる、このバーのマスター、勝谷の腕が悪いだけでは、決して、ない。
 鈴乃は、バー<スージー>にいた。ライブハウス<アンバランス701>の、階上にある店だ。
 マリにまた、誘われたのだ。ライブとセットになった、クリスマス・パーティがあると。日付は、十二月二十四日。クリスマス・イヴだ。
 今回も、誘いは断るつもりだった。それなのに。鈴乃は、空になったグラスを、指先で叩いた。チン。軽やかな音に、勝谷がやって来る。
「今度は、何をお作りしましょうか、お嬢さん?」勝谷は言った。
「何でもいいわよ」
「じゃあ、同じので?」
「それは嫌。おいしくなかったもの。今日、まだ飲んでないのがいいわ」
「わがままな、お客さんだ」
「わがままを言うから、客なのよ。それとも、レシピが底を突いたのかしら?」
「そんなことはないさ」
 勝谷は、棚からリキュールとスピリッツを取り、カウンターの上に並べた。カクテルに詳しいわけではないが、自分の知っているものでないことは、分かった。わざわざ、口に出して注文するつもりはないのだが、何となく、ソルティ・ドッグ・コリンズを待っていた。よく知っている、馴染みの酒を。
 グラスの割れる音に、鈴乃は振り返った。
 何のことはない。テーブルの上で、男と女が、セックスを始めただけだった。男がピストン運動をする度に、テーブルから、ものが落ちる。
「好みじゃないなら来るなって、俺は言ったよな?」勝谷が言った。
「そうね」
 勝谷は、テーブルの上で性交渉に及んでいる男女を、咎めたりしなかった。今、この<スージー>の中にいる者たちは皆、そのために集まっているのだ。束の間の、性的な快楽を貪るために。
 マリも、例外ではなかった。窓際に設置された、緑色のビニール製のソファの上で、恋人でもない男のペニスに、むしゃぶりついていた。
 クリスマスとは名ばかりの、乱交パーティだった。主催は、<フォスター>。ライブのあとで、興奮冷めやらぬ女たちを連れ込んで、好き放題やっていた。
 店内に流れるBGMをかき消すほどの、嬌声。雄と雌の、汗のにおい。酒がまずいのは、そのせいでもある。
「ヘイ」勝谷が、鈴乃の前にグラスを置いた。カクテルは、柔らかい赤色をしていた。「ドライ・ジンと、キルシュ、ベルモットをシェイクした」
「あら。この店じゃあ、カクテルは全部、ステアかビルドで作るものなんだと思ってたわ」
 鈴乃は言った。
 ドライ・ジンの入った瓶の隣に、今し方、仕事を終えたばかりの、シェイカーが並んでいた。バーでは本来、珍しくもない光景だが、この<スージー>に限って言えば、違った。勝谷は、シェイクすべきカクテルでも、シェイカーを使おうとしなかったからだ。
 勝谷は言った。
「いや、そうさ。どうも、性に合わなくてね。シェイカーってやつは。久々に今日は、本気を出した」
「名前は?」
 グラスに伸ばした手を、勝谷が掴んだ。性欲を、抑えきれなくなったのか。そう思ったが、違った。
「最後の忠告だ、ベイビ。帰るなら、今だ。ヤらずに、この場にいようって神経が、いまいち俺には理解できないが、言っとく。ヤらずに、ここにい続けるのは、無理だ。そんなんじゃあ、最後には、無理やり輪姦(まわ)されることになる。そんなのは、嫌だろうが。ええ?」
「そうね。ごめんだわ」
「俺だって、こういう場所で、バーをやってる人間だ。頭ん中は、小汚(こぎたね)ぇ願望で真っ黒さ。今、考えてることを言ってやろうか。俺は、今すぐにでも、あんたにチンポを突っ込みたい。腰が抜けるほど、ファックしたい」
「どうして、試しに交渉してみないの? それが、実現できるかもしれないのに」
「あんたが何を考えてるのか、気になるからだ。ファックするよりも、そっちを聞き出したい自分がいる。初めてなのさ、あんたみたいなのは。ここに来るのは、セックス狂いか、騙されて来た間抜けがほとんどだ」
「それは、褒め言葉なのかしら?」
「さあな。でも、あんたがこいつを飲むんなら、そんなこたぁどうでもいい。俺は、あんたを押し倒す」
「できるかしら。あたし、これでも、護身術には自信があるの」
 勝谷は首を振った。挑むような目つきで、上唇を舌で舐める。
「盛りのついた男の腕力を、馬鹿にしちゃいけねぇ」
「もし、あたしが、このカクテルに口をつけなかったら?」
「話をしようじゃないか。乱交パーティに参加しといて、ファックしないなんてのは、まったく、イカれた話だがな」勝谷は笑った。「この奥に、俺の事務所がある。コーヒーくらい、出してやるよ」
「密室で、男と女が二人きり。それで、話?」
「したく(・・・)なったら、いつでも相手してやるよ」
「結局、話はそこに行く、と」鈴乃は言った。
 勝谷は、鈴乃の手を離した。眉を寄せ、腹を掻く。
「じゃあ、どうしたいんだよ、あんたは。面倒くさい女だぜ」
 鈴乃は、カクテルを見つめた。その縁では、いくつかの微細な水泡が、窮屈そうに、肩を寄せ合っている。
 マリは、フェラチオをしていた少年と、セックスを始めていた。髪が、彼女の体の揺れに呼応して、乱れていた。彼女の感じている快感の変動を表すグラフが、マニキュアの塗られた爪で、少年の背中に描かれていた。
 マリの相手をしているのは、この前、勝谷に教えてもらった少年だった。<フォスター>のボーカルを務めている、アンバーだ。アンバーは、マリとセックスをしながら、瓶ビールを飲んでいた。まるで、浴びるように。
 シドはなぜ、マリがいいのだろう。鈴乃は思った。シドは、どのようにして、マリを抱くのか。マリの、こんな姿を目にしても、笑っていられるのだろうか。
 アンバーは、マリに口移しで、オレンジ色の錠剤を飲ませた。ドラッグだ。少し間を置いたあと、マリは体を震わせ、奇声を上げた。
 視線の先にあるものを、勝谷に気づかれた。
「マリか。あんた、あいつに連れて来られたんだったな」勝谷が言った。「<フォスター>の、こういうパーティにゃ、必ず現われる、尻軽のあばずれだ。アンバーたちにしてみりゃ、いい玩具さ」
「そう」鈴乃は言った。
 アンバーの体が、一瞬硬直し、そしてマリの上に倒れた。果てたのだ。二人は、呼吸に大きく胸を上下させながら、抱き合っていた。
「あいつが、理由(・・)なのか?」勝谷が言った。
「理由? 何のよ」
「あんたが、このパーティに来て、そして、とどまる理由だ」
 鈴乃は、顎をしゃくって、グラスを示した。
「あたしが、その話をするかどうかは、このカクテルに託したんじゃなかったの?」
 勝谷は、肩をすくめた。
「いい加減、待つのにも、飽きたさ」
「そうかもしれない。そうじゃないかもしれない」鈴乃は、カクテルを一気に飲み干した。「そんなの、どっちでもいい。くそくらえよ。そう、思わない?」
 勝谷は、口角を上げた。
「そうだな」
 カウンターの向こうから、身を乗り出した勝谷に、うなじを掴むようにして、引き寄せられた。ドライ・ジンの瓶が、シェイカーが倒れた。勝谷に、唇を奪われていた。口内に滑り込んでくる、舌。抵抗する気はなかった。唾液と舌で、応じた。
「カクテルの名前を聞いてたな」唇を離して、勝谷は言った。「キス・イン・ザ・ダークだ」
「暗闇(・・)なんて、ないじゃない」
 鈴乃は笑った。バーの中は、どこも、照明で照らされているのだ。
 ひょい、とスツールから、体を持ち上げられた。余計な脂肪はつけていないとは言え、人ひとり分の体重は有している。重たくないわけはないのだが、勝谷は、全くそんな素振りを見せなかった。カウンターと壁の間に、そっと下ろされる。
 勝谷の体が、上に覆いかぶさってきた。
 明かりが遮られ、暗闇ができた。左右は、カウンターの裏側と、壁に挟まれている。体ひとつ分しかない、狭い個室にも似たものができていた。
「こうすれば、暗闇ができる」
「なかなか、オツな暗闇だこと」
 勝谷と、唇を重ねた。欠点を挙げるとすれば、狭すぎて、服が脱ぎづらいということだった。

つづく




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