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最近、自分がフリーメールを活用できない人間だってことに気付きました。

2008年06月25日

ブログ小説 焔-HOMURA-[integral] 第186回(2版)


ありがとう、無能な指揮官。


 狩内蓮を見つけ、彼がついていた机を、両手で叩いた。蓮は、血が飛び散った机の上で、崩し将棋をやっていた。肝心の将棋の山が、机を叩いた衝撃で瓦解し、蓮は傷ついた表情を浮かべた。

「無粋なやつだな、お前。知らないのかもしれんが、こいつは崩し将棋って言う、立派な」

「暇潰しだろう」

 蓮は両手を広げて、肩をすくめた。

「知ってたのか」

 小さな古書店だった。色褪せた無数の本と、それを収める棚、空間を形作る線を曖昧なものにする埃、そしてわずかに、かびたにおい。古びた机に、レジスター。華やかなものとは、およそ縁のないものばかりが詰まった場所。そこに蓮と、その部下たちはいた。部下たちは、棚に詰まった本を片っ端から床へと散らばしていた。

「〈ミカド〉か」リヴァは言った。

「もちろん、そうだ。ここ最近の俺たちの仕事には、たいてい、その名詞が絡んでいる」

「こんな小さな、古本屋が?」

 本棚を全て除いたところで、生活に快適なスペースを確保できるかどうかさえ、疑わしいほどの規模の古書店だった。老後の時間の浪費にしか、似合わない場所。

「〈コイズミ古書店〉の店主、小泉修(こいずみおさむ)は、水滸伝が好きなじいさんでな。知ってるか? 中国の古典だ。小泉修は自身を、その水滸伝の中心人物、宋江(そうこう)に見立て、百八人の豪傑が集まる梁山泊を作り上げようとした。名前は〈水滸〉。だが、まあ。豪傑になりたかった一般人たちが、四十九名集まったところで、物語は幕引きとなった。彼らが潰したかった、やくざの手によって」

 蓮が座る椅子の後方にも、本棚があった。そこに並ぶ本の背表紙が、血で汚れていた。

「じじい一人が集めた連中に怯えて、わざわざ芽を潰しに来たってのか」

「〈DEXビル〉の件を境に、街は今や、〈ミカド〉一色だ。その大半が、英雄願望に衝き動かされた、ただ大きな波があったら乗りたいだけの、サーファーどもだが、勢いに乗せると厄介なことになる」

「街全部が、敵か」

「そうとも言える。くだらんな。どいつもこいつも、自分はいつか、ピーター・パーカーになれると思っていやがる」蓮は言った。「蜘蛛に噛まれて、スパイダーマンになれると」

「物語の中心は、誰しもが憧れる場所だ」

「誰しもが、人生という名の物語の中心にいるはずなのに」

「その物語も、たくさんの物語が集まった中心にあってほしいのさ」

「大きなものを望まなければ、表の世界にいることはできるのに」

「“裏”を迂回してでも、より中心を目指したいのさ。その願望を刺激するのが、〈ミカド〉だ」

「銃を取り、法を侵し、正義を騙った者たちが、まつられる文化。あるいは組織、集団。生死の狭間に身を置けば、視界が狭くなり、周りが見えなくなるからな。必然、世界が小さくなったように感じる。小さな世界なら、自分の居場所が、より中心に近づいたと錯覚することができるか」

「で? くそったれ(ファッキン)“正義の使者”どもは、まだまだ潜んでるのか?」

「勢いは弱くなっているものの、放っておけば、後々面倒に発展しそうな規模では」

「兵隊が必要だ」リヴァは言った。

「だめだ」

「リタ・オルパートと、アイザック・ライクンを潰すのに」

「だめだ」

「連中も、放っておけば、後々面倒に発展する可能性がある」

「風際慶慎にとって」

「〈ツガ〉にとって」

「たかが一人の子ども(ガキ)に執着する女を中心に、そうたくさんの人間が集まるとは、到底、思えないな」

「だが、その敵が〈カザギワ〉ならば、ミカド系の組織を作る可能性は、十分にある」リヴァは言った。「それに、小泉修は一人の子ども(ガキ)どころか、たかが一つの物語に執着した男だ」

「そうだな」

「兵隊が必要だ」

「答えは変わらない」

 机の上に、蓮が再び作っていた将棋の駒の山を、手のひらで払い落とした。

「兵隊が必要だ」

「誰かが、何かを成し遂げたくて。あるいは、手に入れたくて。その過程に、規模を問わず、戦闘が発生する可能性があるのならば、誰にだって必要だ」

「だから?」

 机の上には、歩の駒が、一つだけ残っていた。蓮はそれを逆さまに立ててから、指で弾いた。リヴァの腹に当たり、ぽとりと落ちる。

「俺が気に入らないのは、うちに入ったばかりのちんぴらが、自分が望めば、組の人間を自由にできるものと思っている点だ」

「俺は」

「組のやつらはもちろん、人間だ。機械じゃない。お前も含めて、そうだ。プライヴェートがある。人間として、自由に考え、行動する権利はある。だが、“ある程度”だ。お前らが構成するピラミッドの上にいるのは、俺だ。特に、〈ミカド〉という、くそったれの文化と組織が跋扈しているこの非常時では、それぞれの行動あるいは思考の、かなりのパーセンテージを、俺に委ねなければならない」

「俺には、風際慶慎が必要だ。それを手に入れるためには、今、兵隊が必要なんだ」

「俺は既に、お前にかなりの自由を与えた。他の連中が、俺の命令で動いている間、お前は自由に思考し、行動した」

「〈ツガ〉という組織に所属することで手に入る、力に利用価値があったからな」

 蓮が、眉を上下させた。

「今は」

「兵隊が必要だ。貸せないならば、俺にとって、〈ツガ〉は利用価値のない組織だ」

「暴力団が、部活やサークル活動か何かだと、勘違いしてるんじゃないか、ガキ? “ひやかしは厳禁”だ。ひとしきりだだをこねて、思い通りにならないなら、“はい、さようなら”か。そいつは、通用しない」

「二十一世紀に入っても、小指を欲しがる文化は、色褪せちゃいないのか?」

「色褪せてはいるが、ノスタルジーが、魅力を引き立ててはいるな」蓮が、懐から匕首(あいくち)を取り出し、机にとん、と突き刺した。「やり方は、知ってるか?」

 リヴァは、机に突き刺さった匕首の刃の下に、小指を置いた。

「これで、匕首を倒せばいいんだろ?」

 蓮は、背後の棚から一冊、本を取り出し、ページをめくった。

「頭を冷やして、よく考えるんだな。風際慶慎が、小指を犠牲にするに値するやつなのか。時間はやるよ」

「必要ない」

 匕首の柄に手をかけて、力を込めた。小指の上に引き倒す。が、刃は小指に至らなかった。蓮が、ページをめくっていた本を、滑り込ませて、匕首から小指を守っていた。

「まさか、本当にやるとはな」

「時間は必要ないと言ったぞ。情けも同じだ。答えは変わらない。どけ」

「そう簡単に、見捨てるな。小指がかわいそうだ」

 蓮を見た。

「なら」

「兵隊は貸さん。だが、このことで、組織の中での俺の求心力の低下を懸念してくれる甲斐性があるなら、とっとと用事を済まして、帰ってこい」

「リタ・オルパートとアイザック・ライクンは、そう簡単な相手じゃない」

「泣き言を言うな、情けない。お前は、破門だ。お前が街に出て問題を起こし、警察(サツ)と揉めても、〈ツガ〉は一切関知しない。〈ツガ〉の仕事(シノギ)の邪魔になる場合、容赦はしない。〈ミカド〉や、他の敵対組織と同様に扱われる」

〈コイズミ古書店〉の中を整理している男たちの中には、ポール・ミラーマンもいた。彼は、抱えてきた大量の書籍を、蓮がついている机の上に、荒々しく置いた。舞い上がった埃を、蓮は眉を潜めながら、手で払う。

「何だ、ポール。嫌がらせか?」

「嫌がらせだ。お前、ここ最近で、何人の人間を破門にした?」

「磐井を含め、五十前後かな?」

「五十三」ポールは言い、顎を動かして、リヴァを示した。「こいつを入れれば、五十四だ」

「いや、五十六だ」蓮は言った。「そうだろう?」

「蓮」リヴァは言った。

「違うのか?」

「いや、そうだ。バーバーとダンクも、俺と行動をともにする」

 ポールが溜め息をついた。

「頭痛がする。蓮。お前、減った戦力を、どうやってカバーするつもりだ」

「気合いだ。俺の部下の辞書の一ページ目には、必ずその言葉が記載されている」

「間違いだな。俺の辞書の一ページ目には、その言葉は載っていない」

 ポールが言った。

「ほう? なら、何て言葉が載ってるんだ?」

「無能な指揮官」

「知らないのか? 有能な人間は、常に副官にいるべきなんだ」

「頭が割れるようだ」

「あとでバファリンをやるよ」蓮が、リヴァを見た。「おい、外部の人間は邪魔だ。ここでやってることは、見世物じゃないんだ。とっとと出ていったらどうだ?」

「ありがとう、蓮」

 蓮は眉間に皺を寄せて、ポールを見た。

「おい、ポール。どうして、組の外部の人間が、俺の名前を知ってるんだ?」

「知らんよ」

 リヴァは言った。

「ありがとう、“無能な指揮官”」

「うむ。行ってよし」

 踵を返し、リヴァは古書店の出口へ向かった。背後で、ポールの溜め息が聞こえた。

つづく




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posted by 城 一 at 07:01| 長編小説 焔-HOMURA-[integral] | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月19日

ブログ小説 焔-HOMURA-[integral] 第185回(5版)


上を向いて、笑ってる方が。


 シドの病室を出たところで、彼の養父、志戸有助と会った。マリが見舞いに来ていることを告げると、志戸有助は、少し時間を潰さなくてはな、と言った。そして鈴乃に、それに付き合ってほしいとも。鈴乃は、車椅子を押してくれていた看護婦に別れを告げ、志戸有助の願いを聞き入れた。彼が引き連れていた部下が、自分がやると言ったが、志戸有助は頑として譲らず、自らの手で車椅子を押した。後ろに〈ツガ〉の玄武隊の構成員である、志戸有助の部下を二人従え、彼とともに、院内の中庭に出た。サルビアの赤い花弁が、寒風の吹く庭を彩っていた。

 志戸有助が言った。

「知ってるかい? 一度、あいつが目を覚ましたことを?」

「本当ですか」

 鈴乃は身をよじって、志戸有助を見上げた。シドの回復。頭をよぎった期待は、彼の表情と言葉によって、かき消された。

「あいつの命がこちら側に戻ってくることを、保証するものではないらしいがね。まったく。年寄りをぬか喜びさせるたぁ、趣味が悪い。医者のやつも、高敏のやつも」

「本当に」

「ネコに謝っといてくれ。そう言っていた。最初は、ペットのことでも言ってるのかと思ってたんだが、違ったんだな。あいつの弟分から、聞いた。どうやら、あいつの“ネコ”は、お前さんらしい」

「どうでしょうか」

「心当たりがないかい?」

「あたしの方が、謝らなきゃならないことばかりしていましたから」

「そうかい」志戸有助は言った。「ま、あいつの言ってた“ネコ”が、飼ってるのかも分からんペットの猫だったにせよ、殺し屋のネコだったにせよ。とりあえず、受け取っちゃくれねえか。あいつがわざわざ戻ってきて、置いていった言葉だ」

「分かりました」

「あいつのこと、許してやってくれるかい?」

「許すも、何も」

 言いながら、鈴乃は志戸有助の顔を見た。軽口を呑み込み、頷いた。

「ありがとよ」志戸有助は空を見上げて、溜め息をついた。「血、命、銃、麻薬、女。全てが溢れるほど多すぎて、右から左へと流れていって、記号になっちまう。ヤクザってのはまったく、因果な商売さ。長いこと、それで飯を食ってきた。お陰で増えたしがらみを引きずりながら歩くにゃ、俺は年を取りすぎた。あいつにあとを譲って、解放されるつもりでいたのが、神さんにばれちまったかな?」

「すいません」鈴乃は言った。「彼のことを、守るつもりだった。守るべきだったのに、守れなかった。それどころか、あたしの方が守られてた」

「腕力のことを言ってるのかい? それとも、体ん中のことか。何にせよ、謝ることじゃねえさ。女の盾になれねえ男に、価値なんかねえ」

「そんなことは」

「あんたは、〈カザギワ〉の殺し屋だ。戦闘能力じゃ、やつは敵わなかったろうさ。だが、そんなことは問題じゃないんだよ。あいつはちゃんと、あんたのことを守れたかい?」

「十二分に。だからあたしは今、ここにいるんです」

「なら、いい。女一人も満足に守れねえやつに、玄武の名を譲ろうとしてたなんてことになったら、卒倒しちまわあ」

「すいません、本当に」

「いいんだよ。それにしても、あんたみたいなのが、殺し屋なんてな。お陰で、包帯にギプス、車椅子。あんたは上を向いて、笑ってる方が似合ってると思うんだがね」志戸有助は言った。「そうなりゃ、極上のいい女だ」

「やめてください。あたしは」

 看護婦がやって来て、志戸有助に、マリが帰ったことを告げた。そして今日、面会の許されている時間が、残り少ないことを。志戸有助は頷き、鈴乃に別れを告げ、部下を従え、院内へと戻っていった。

「あたしはいい女なんかじゃ」

 車椅子のハンドルを握った看護婦に、何か言ったかと尋ねられた。何でもない。首を振り、鈴乃はそう言った。

つづく




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posted by 城 一 at 17:07| 長編小説 焔-HOMURA-[integral] | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月13日

ブログ小説 焔-HOMURA-[integral] 第184回(13版)


また、会いに来てあげてね。



喪失を 埋める道里に復路なし

女殺し屋 猫が啼く



 鈴乃は、看護婦に車椅子を押してもらい、シドの病室を訪れた。個室で、もう一台ベッドを置けそうなスペースがあった。ベッドで眠るシドの頭側、窓際にある淡いグリーンのチェストの上には、見舞いの花が置かれていた。溢れんばかりにバスケットに詰め込まれた、鮮やかなパステルイエローのバラとガーベラ。ベッドを挟んで逆側では、心電図が一定のリズムで音を発してグラフを描き、シドの心臓が動いていることを保証していた。シドが眠るベッドの脇には、先客がいた。マリ。シドの胸に突っ伏して、心電図よりも静かな調子で泣いていた。鈴乃は目で合図し、看護婦に別れを告げてから、言った。

「どうして泣いてるの?」

 声をかけられて初めて、鈴乃の存在に気づいたマリは、いったん泣くのをやめ、振り向いた。彼女の目は赤く、周囲が腫れぼったくなっていた。マリは化粧を崩さないように、指先でそっと、涙をすくった。

「ああ、あなた」マリは言った。「泣いてるのは、悲しいからよ」

「嘘」

「嘘なんかじゃない」

 シドの方に向きなおり、独り言のように、マリは言った。鈴乃は、軋む体を動かして、車椅子を操った。チェストの前に行き、日の光を浴びながら、バスケットの中の花を眺めた。

「シドから、聞いたわ。彼がソープに“沈めた”お姉さんの復讐を果たすために、彼の側にいるんだって。彼の恋人(オンナ)なのに、他の男と平気で寝たり、彼の嫌いな麻薬(ドラッグ)に手を出すのは、そのためなんだって」

「タカが、そう言ったの?」

「そうよ。磐井から聞いた部分もあるけれど」

「なら、どうして、あたしのことを捨てなかったのかな」

「“理屈通りに動かないのが、気持ちってもんだろ”だそうよ。あなたの気が済むまで待って、そして、あなたと一から関係を築きたいって」

「ばかね」

「まったくもって」

「サキお姉ちゃんは、元はすごく真面目だったの。あたしは、その正反対。悪いことばかりしてた。煙草、お酒、男。同年代の子たちの中で、覚えるのが一番早かった。お姉ちゃんには、そのことで、いつもお説教されてた。けど、悪い気はしなかった。あたしのために言ってくれてるって、分かってたから。格好とか言葉遣いとか、付き合う友だちの種類とか。まるで正反対だったけど、あたしたち、仲のいい姉妹だった」

「あたしにも昔、兄がいたわ」鈴乃は言った。「もういないけれど」

 そうなの。マリはそっと、相槌を打った。年上の兄弟を持つ感覚を共有する、仲間として。そして、その“兄”がもういないことに対して、残念だとでも言うように。その兄とは血の繋がりがなく、考えようによっては、彼に犯されたこともあるのだということは、言わなかった。マリは言った。

「そのお姉ちゃんが、変わったの。いい意味でね。好きな男の人ができたのよ。大学二年生のときだった。あたしなんか、中学校に入ってすぐにセックスを覚えたのに」

「奥手だったのね」

「かつ、地味だった。でもそれが、急に魅力的な大人の女の人になった。化粧がうまくなって、ちょっとした仕草も女らしくなって、服のセンスも良くなって。人生、楽しんでるなって思った。それまでは、こうしなくちゃならない、ああしなくちゃならないって、規則とか義務、責任に縛られてばかりの人だったから。お姉ちゃんの変化は、自分のことみたいに嬉しかった」

「そう」

「二年。お姉ちゃんが、輝いてた時間の長さよ。そして、その男の人と続いた長さでもある。その人と別れてからは、今度は悪い意味で、お姉ちゃんは変わった。何だか落ち着きがなくなって、いつも、らしくない場所にいて、らしくない種類の連中と付き合って、らしくないことをするようになった。夜が明けるまで街にいて、常に、一緒にいてくれる人を探してた。で、一緒にいてくれる人なら、誰でもいいの。体目当ての猿でも、ただ飲み食いがしたいだけの、たかり屋でも。お金の使い方も、荒くなった。それまでは、一つや二つ持ってるくらいだったブランド品で、身を固めるようになった。まるで、鎧みたいだった」

「それで、何か、あるいは誰かから、身を守ってた?」

「そんな感じがした。で、お姉ちゃんは“鎧”を買うのに借金をし始めた。お姉ちゃんは、街の不動産屋で働いてたんだけど、そこのお給料じゃ間に合わなかった。借金は高すぎたし、膨らむスピードも早すぎた。なのに、お姉ちゃんはブランド品を買うのをやめなかった。最終的には、彼女はヤクザからお金を借りた。ソープランドへ行って、男の人とセックスをして稼いだお金で、借金を返済しなくちゃならなくなった」

 鈴乃は頷いた。マリは続けた。

「お姉ちゃんは、借金で首が回らなくなった辺りから、家に寄りつかなくなってた。両親が警察に届けようとしたけど、お姉ちゃんだって大人だから、何か事情があるのかもしれないと思った。だから、あたしは少し時間をちょうだいって言って、街でお姉ちゃんを探し始めた。そこで会ったのが、タカだった。彼は言ったわ。“そういう事情なら、もしかすると、俺たちのいる世界に関わってしまってるかもしれない”って。初めて会ったときから、優しい人だった。彼のことを好きになるまで、時間はかからなかった。彼の方も、同じ気持ちだっていうのも、すぐに分かった。不謹慎だったとは思うけど、お姉ちゃんを探すのに、タカと街を歩き回ってた時間は、同時に、彼とのデートでもあったの。あたしたちは、愛し合うようになった」

「恋人同士になった」

 鈴乃の言葉に、マリは頷いた。

「少しして、タカがあたしを避けるようになった。嫌われたのかなって思った。でも、違った。タカは調べてるうちに、分かったの。自分がソープへとやった女の一人が、あたしの探してる姉だっていうことに」

 マリは少し黙った。鈴乃は待った。彼女は少し深く息を吐き、話を再開した。

「けど、タカは逃げたわけじゃなかった。あたしに本当のことを話すための、気持ちの準備をする時間が欲しかっただけ。で、それができて、あたしに話した。あたしは仕方ないと言った。悪いのはお姉ちゃんだって。嘘だった。タカのこと、最低の男だって思ってた。あたしのことだって、本当は、自分がソープにやった女の妹だってことが分かってて、わざと側に置いてたんじゃないかって。それで、まんまと彼のものになったあたしのことを、陰で笑い者にしてたんじゃないかって」

「彼は、そんなことはしないわ」

「タカの仕事が忙しくて、しばらく会えない時期があった。あたし、タカのことを愛してた。けど、お姉ちゃんのことが分かってから、彼のことを憎んでもいた。同時に、彼に会えない寂しさもあった。ごちゃまぜになった感情を、持て余してた。あたしは街に出て、飲み歩いた。飲みすぎて酔っ払って、そのうち、記憶が飛んだ。気づくと、ラブホテルのベッドで、知らない男の人と寝てた。びっくりして飛び起きて、すぐに帰ったわ」

「誰にでもときどき、そういうことがあるわ」

「仕事が一段落して帰ってきた彼に、問い詰められた。彼の部下が、あたしと似た風貌の女が、知らない男とラブホテルに入るのを見たって。あたしは、知らないの一点張りで、無理矢理、押し通した。だって、目撃したって話だけで、証拠はないんだもの。そうでしょ? 最後は、悲しい顔をしてたけど、タカの方が折れた。“そうか、疑って悪かった”って」

「そう」

「あたし、そのとき思ったの。タカは、お姉ちゃんを売春婦に仕立てた男。だから、その報いとして、もっとその“悲しい顔”を、あたしに見せてくれてもいいんじゃないかって。それを見る権利が、あたしにはあるんじゃないかって。それで、あたしは彼を悲しませるために、他の男と寝始めた。そして、そのことを彼にほのめかすの。彼とのセックスのとき、わざと、他の男と行ったラブホテルの名前が入った、コンドームを出してみたり。浮気相手から電話がきたら、わざとそわそわしながら、その場を離れて電話に出てみたり。そうしておきながら、問い詰められたら、知らぬ存ぜぬで通すの。彼が嫌いなのを知ってて、麻薬(ドラッグ)にも手を出したわ」

「そう」

「でもね、本当は分かってるの。タカが悪くないってこと。悪いのは、お姉ちゃんを助けられなかった、あたし。お姉ちゃんが買い続けてた“鎧”はきっと、助けてほしいってサインだったのに。あたし、何もしなかった。お姉ちゃんがソープランドで働いてることが分かってから、タカに、そのお店に連れていってもらったことがあるの。お姉ちゃんが休みの日にね。辛かった。あからさまにいやらしいお店の雰囲気とか、セックスで疲れた女の人の表情とか。それが、お客さんが来ると、媚びたものに早変わりするの。お姉ちゃんも、きっと同じなんだろうと思うと、あたし、いても立ってもいられなくなった。お前が助けなかったから、こうなったんだぞ≠チて、言われてるみたいだった。だから、タカのせいにしたの。タカがそれを受け入れてくれるから、寄りかかっちゃってた」

「分かるわ」

「ごめんねって、言わなくちゃならなかったのに。言おうと思ってたのに」

 マリの声が震えていた。鈴乃は言った。

「言えば、聞こえるわ。きっと」

「無理よ」

「聞こえるわ」

 うん、そうだよね。そう言ってマリは頷くと、涙を拭った。深呼吸をし、シドの頬に手のひらを添えて、彼女は言った。

「タカ、ごめんね。愛してる」

 鈴乃は、目を奪われたバラの花びらを、指先で揉んでいた。力を込めすぎて、花びらが破けた。

「あたしは、殺し屋なの」鈴乃は言った。「シドと一緒に、仕事をしていた」

「ええ」

「必ず、殺すわ。シドを、こんな風にしたやつを」

「そう」マリは言った。声はもう、震えていなかった。「そう言ってくれる気持ちは、ありがたいわ。けど、タカはあなたのことを見てると、妹を思い出すって言ってた。だから、あなたにそんなことをされても、喜ばないと思う」

「そう」

「でも、やるのね」

「ええ、やるわ」

 鈴乃は言った。シドの枕元にあるスイッチを押して、看護婦を呼んだ。鈴乃を、シドの病室まで運んでくれた看護婦が来た。彼女に車椅子を押してもらって、病室の出口へと向かった。

「また、タカに会いに来てあげてね」

 マリが言った。鈴乃は返事をしなかった。

つづく




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posted by 城 一 at 03:29| 長編小説 焔-HOMURA-[integral] | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月09日

ブログ小説 焔-HOMURA-[integral] 第183回(7版)


そう遠くないうちに、必ず。


 ログハウスを出、乗り込んだ車の中で、慶慎は目隠しと手錠をされた。しばらく車に揺られたのち、どこかの建物に入り、背もたれのある椅子に座らせられた。視界は遮られたままだったが、扉が閉まった音、そしてその響き具合で、自分のいる場所が小さな部屋だということが分かった。

 時間が経過し、ドアが開く音を聞き、目隠しを外された。目の前に、リタ・オルパートがいた。

「ごきげんよう、坊や」

 開けた視界に映ったのは、想像した通り、小ぢんまりとした部屋だった。コンクリート打ちっぱなしの壁。そして、床と天井。天井からは裸電球が一つ、ぶら下がっていた。壁にくっつけるようにして、安物で使い古されたスプリングベッドがあった。その上に、薄汚れた敷布団と掛け布団。そして、枕。部屋の隅では、膝の高さの電気ヒーターが、赤く燃えていた。どこかから聞こえる、遠い騒音が響き、部屋全体がわずかに震動しているように感じた。灰色に塗られた、鉄製の扉が一つ。その脇に、リタ・オルパートが腕を組み、寄りかかっていた。長い髪を首の後ろで束ね、チョコレート色のパンツスーツに身を包んでいた。ジャケットの下に、白い、薄手のタートルネックのセーター。スーツと同色の靴。踵には、低いヒールが付いていた。

 足下では、アイザック・ライクンが、椅子に座る慶慎の両足首に、手錠をはめていた。手首にしてあるものよりも、輪と輪を繋ぐ鎖が長い。リタに手を出したら、彼女が何と言おうと、お前を殺す。耳元にそう囁き、アイザックは部屋を出ていった。

 慶慎は言った。

「ここは、どこですか?」

「僕を殺してくれ≠ニ言った子が、自分の居場所を気にするの?」

「生きる意志があろうが、なかろうが。目隠しを外されたら、そう聞きたくなるのが、人間の心理ってものじゃないですか?」

 リタはくすりと笑った。

「それもそうね。でも、教えられないわ」

「そうですか」

「何か、欲しいものはある?」

「死」

 リタは微笑を浮かべた。

「それは、もう少しあとにしましょう。お腹は、減っていない?」

「なぜ、そんなことを聞くんですか? 僕は、あなたの客じゃない。あなたは、殺したくて、僕のことを探していたんでしょう? 招待して、もてなすためにじゃなく」

「もちろん、そうよ」

「なら、どうしてそれを、すぐに実行に移さないんですか」

「時間をかけて、じっくり愉しみたいからよ」リタはそう言うと、慶慎に歩み寄り、その頬を撫でた。「そう焦らないで、ベイビ。そう遠くないうちに、必ず殺してあげるから」

「そうしてください」

 リタは頷くと、慶慎から離れた。元いた壁際に戻り、元の姿勢で寄りかかる。

「見張り役も兼ねて、あなたに一人付けるわ。お腹が減ったり、トイレへ行きたくなったり、シャワーを浴びたくなったりしたら、何なりと言いつけてちょうだい。何か、欲しいものがあるときでも。ただし」リタは片目をつむり、ウインクをした。「死以外のものにしてね」

「これから殺す人間に対する扱いとは思えない」

「かもね。でも、いずれあなたにあげるものが、肉体及び精神的疲労や苦痛で、曖昧になったり、軽減されてしまったりしては、台無しでしょう?」

「あげるもの」慶慎は、確認するように自分で呟いた。

「さ、眠ったらどう? 疲れたでしょう」

「そう言われて、はい、分かりました≠ネんてすぐに眠れるほど、神経は図太くないですよ」

「睡眠導入剤でもあげましょうか?」

「それで殺してもいいですよ」

 リタは、また微笑を浮かべた。

「そんなことはしないわ」

「何にせよ、試してみてもいいですか?」

「もちろん」

 リタは一際大きく頷き、そう言った。

つづく




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posted by 城 一 at 05:09| 長編小説 焔-HOMURA-[integral] | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月06日

短編小説 R&B


 違うとは分かっていながらも、強烈な風は俺たちのことを咎めるために吹いているという考えを、頭から追い出すことができなかった。腹這いになっている俺たちの上で、雲に埋まり、穏やかじゃない白色に染まった空。いつ降り出してもおかしくない雨を押し止めているのは、お前たちのためなのだとでも言うように、恩着せがましく輝いている。

 携帯電話に、クラスメイトの大倉ミチヨからEメールが届いた。頼んでもいないのに彼女は、俺のために購買でメロンパンを買い、それを口実に、昼休みを俺と一緒に過ごそうとしているようだった。彼女が俺に、他の男子以上の好意を寄せていることは知っていた。その好意の分だけ、仕草や言動に上乗せされた温もりが、ふとした瞬間に、彼女の気持ちを俺に知らせたのだ。悪い気はしなかった。だからと言って、彼女の想いを汲み、自分から動こうというところまではいかなかったが、他の女子以上に彼女への好意も、俺の中にはあった。彼女を傷つけることは、できる限り避けたいとも思っていた。だが、今の俺には、彼女を気遣う余裕がなかった。俺は携帯電話を閉じた。

「誰から?」

 ブルースが言った。彼は、四分の一、中国人の血が入ってはいるものの、本当の名前は、誰が聞いても違和感がなく、縦書きの方が似合うものだ。ブルースは、事を始める前に二人で決めた暗号名(コード・ネーム)だった。俺は、リズム。深い意味はない。その名前が、俺たちが日常からかけ離れたところにいることを、教えてくれさえすればいい。それに、意味など微塵も込めなくとも、既にこの名前は、重たすぎるものになっている。俺は肩をすくめ、Eメールの送り主と、その内容をブルースに教えた。

「ミチヨ、傷つくと思うなあ。彼女が君を好いてること、知ってるんだろ?」

「ああ」

「好意の分だけ、敏感になるものさ、人って」

「分かってる」

 ブルースは、その続きを待った。俺はそれ以上、言葉を継ぐつもりはなかったが、彼の期待に答えるために、頭を働かせた。その時間を稼ぐために、母が握ったおにぎりを頬張った。口いっぱいに。具は、焼いた鮭だった。魔法瓶から、冷たい麦茶を飲む。結局、言葉の続きを思いつくことはできなかった。俺は話の矛先をブルースに向けた。

「お前にだって、いるんだろ? そういうやつが」

 強風にはためく、長すぎる前髪の下で、ブルースは目を細めた。ミチヨの話題を避けたことを、察したのだろう。彼はコッペパンを一口だけかじり、口許を緩めた。

「不特定多数」ブルースは言った。「けど、今のところ、その五文字で一括りになる枠組みから抜け出す人はいないね」

「残念なことだな」

「その方がいいさ。よそ見や寄り道は絶対にしないとは言わないけど、女の子との色恋沙汰は、その度合いが強すぎる。今は、そんな余裕ないよ」

 ブルースの言葉は、耳にしてみると、先の彼の沈黙に対して、俺が返すべき答えだったことが分かった。俺は胸の中で、舌打ちをした。答えを知っていたくせに、わざわざ沈黙で俺の思考を毛羽立たせ、問いを投げかけた。たぶん、俺が答えに窮することも分かっていたのだろう。

「嫌なやつだな、お前」

「なぜ?」

 仕返しのために、俺はわざと黙った。ブルースは小首を傾げ、昼食の続きに取りかかった。

 昼休みの屋上には、誰もいなかった。強風と微細な砂粒が舞うこの場所は、昼食にも、男女の逢引にも不向きな上に、非常時以外、使用することを禁止されている。にも関わらず、俺たちがここにいるのは、目的があるからだし、それが前述の二つには当てはまらないからだ。

 先に昼食を終えたブルースは、あぐらをかいて、ノートパソコンを開いた。少し彼の指が踊っただけで、画面は俺の理解の範疇を超えたプログラムを呼び出し、酔ってしまいそうなほどの数と難解さの数式を並べた。俺はその数々の数式が弾き出す答えを理解はしていない。だが、答えが導く場所にたどり着くことはできた。逆にブルースは、計算はできても、たどり着くことができなかった。それが、俺たちがコンビを組んでいる理由でもある。

「いつも不思議に思ってるんだけどな、ブルース」俺は言った。「それだけの数式を操れるやつが、どうしてもっと、数学でいい成績を取れないんだ?」

「学校の数学は非実用的だから」ブルースは言った。「それに、“好きこそものの上手なれ”って言うけど、憤怒と命を賭けることは、対象を好くこと以上の効果を発揮するからさ。きっとね」

 携帯電話に、またミチヨからEメールが来た。自分がメロンパンを買ったことを、好意の押しつけだったとして反省し、謝罪の言葉を連ねていた。それが誤解であることを、俺は彼女に教えたかったが、どうしてもそういう気分になれなかった。ブルースが横目で俺のことを見た。言ってもいないのに彼はメールがミチヨからのものであることを察知し、頷いた。

「彼女には悪いけど、たぶん、それが正解さ」

「さっきと言ってることが違うな」

「さっきのは単純に、意地悪をしただけさ」

「ああ」俺は頷いた。「だから、嫌なやつと言ったんだ」

 俺は大型のドラムバッグを開けた。中には、大量の衣類に守られて、黒い強化プラスチック製のアタッシェケースが入っていた。ダイアル式の錠を外し、蓋を開ける。中から分解したスナイパーライフルのパーツを全て取り出し、地面に並べ、一つ残らずあることを確認してから、組み立て作業に取りかかる。既に何度も繰り返された作業だ。本番と、リハーサル、そして練習で。五分で作業を終え、ライフルの先端に減音器(サプレッサー)を取り付けた。三脚を調整し、その上に銃身を載せる。

「時間通りだ」

 そう言ったブルースは、ノートパソコンの操作を終え、双眼鏡を覗き込んでいた。彼の空いている、もう片方の手の中で、イチゴ・オレの入ったパックがへこんで華奢になり、中身がもう残っていないことを告げている。俺は頷き、スコープを使い、ブルースと同じ方を見た。

 真っ白なスーツに、ネクタイを締めず、ボタンを三つほど開けて、青いシャツを着た男が、それぞれの機器で望遠効果が施された俺たちの視界の向こう側で、笑っていた。開いた胸元には金鎖。左手には金のロレックス。指のほとんどが、金の指輪で飾られている。ジェルで前髪を全て後ろへと追いやった頭。相手に歯を見せてはいるが、その瞳に隙はない。信頼に値しないものを前にしたときの、獣のような目をしている。

「忠村治夫(ただむらはるお)」

 俺は、男の名前を呟いた。口にすることで、相手を仕留める確率が上がるような気がした。そうしてから心配になった怒りの感情の噴出は、なかった。もしそんなことになれば、狙撃の精度が著しく低くなってしまう。俺は安堵の溜め息を吐いた。代わりに、もう長いこと、胸の奥で静かに燃え続けている感情を確認する。その存在は、狙撃の精度を低くはしない。俺の意志と行動を、より強固なものにするだけだ。慢性的な怒りというのは、そういうものだ。

 忠村治夫は、射精産業がメインコンテンツとなっている、六階建てのビルの最上階にある一室にいた。その場所だけは他とは違い、いかがわしい雰囲気はなく、磨かれた床の上に、大きな机と応接セットが並んでいる。ただし、ビルが長い年月を過ごすうちにまとった、無数の傷や古さ同様、安っぽさだけは抜けていない。忠村治夫は、ビルと同じく安っぽい服装に身を包んだ男と向かい合っており、何度目かの笑みとともに、間に挟んだ木のテーブルの上で、アルミ製のアタッシェケースを交換した。忠村治夫が受け取った方には、札束。相手の男の方には、ちょうどレンガと同じ形状をした、白いブロックが敷き詰められていた。

「あれは?」

「麻薬(ドラッグ)さ」ブルースは、双眼鏡を覗いたまま、言った。「粉を圧縮して、ブロック状にしたんだ」

「それじゃあ、家は建てられないな」

「家が建つ金額にはなる」

 ブルースが、このお膳立てをした。情報を集め、狙撃に適した場所を探し、天気図とにらめっこをして、天候を計算した。晴天時の強烈な光も、雨天時の弱々しい光も、狙撃には最適とは言えなかった。今日のような、白い空の下が一番いい。少なくとも、俺には。俺は引き金に、そっと人差し指を置いた。いずれ、そう遠くないうちに、俺はその人差し指に力を込める。だがそれは、正義なんて言う、口にした途端に酸化し、まやかしに変わる、移ろいやすい感情、あるいは思想からではない。もっと単純(シンプル)で、確かなものから。俺たちはそのために、ここにいる。

 俺の注意は、指輪でうるさいくらいに飾り立てられた、忠村治夫の指に向いていた。

「やつは、ホリーに向かって引き金を引いたと思うか?」

「間接的には、確実に」

「直接的に」

「それを確かめるには、狙撃って言う手段は不向きだよ」

「分かってる」俺は言った。「訊いただけだ」

 ホリーは死んだ。体中に銃弾を撃ち込まれて。イメージチェンジのためにショートカットにした彼女の髪はもう、俺の好みの長さまで伸びることはない。涙を流すように、その体に汗が滲むことも、愛を囁くだけで、俺の体を芯まで震えさせることはない。たまには料理をしないと腕が鈍ると言ってエプロンもせずに台所に立ち、ブルースを怯えさせることはない。もういない両親の代わりに叱責し、ブルースに愛情を教えることもない。俺たちに等しく、笑顔をくれることはない。

「何度も言うようだけど」ブルースが言った。「僕たちのしていることは、正義なんかじゃない。姉貴はいつか、そしていつでも、殺されておかしくない場所にいた」

「分かってる」

 ホリーは、俺の恋人であり、ブルースの姉だった。そして、街一帯を牛耳る暴力団、馳英会に飼われた殺し屋だった。カラスと言う暗号名(コード・ネーム)を使い、黒いコートに身を包み、敵対する組織の人間を何人も殺した。今、俺の手の中にある、オートマティックのスナイパーライフルで。ホリーの死は、殺し屋という因果な商売に身を浸していることを、他ならぬ彼女自身から告白されたときから、覚悟していたものだった。だが、味方であるはずの仲間から殺される理由はない。ブルースがかき集めた情報はそのことを示していて、俺はそれを信じた。半年。俺とブルースが、悲しみにからめ取られ、身動きができなかった時間だ。そして、悲哀と無気力感が発酵し、慢性的な怒りに変異するのに要した時間でもある。

 俺は舌で舐めて唇に水分を与え、もう一度言った。

「分かってるさ、ブルース」

 ホリーが最後に殺すはずだった相手と、忠村治夫に繋がりがあったことを、ブルースは調べ出していた。忠村治夫は、馳英会と敵対する組織と、繋がっていたのだ。金の流れもあった。この情報を馳英会の人間に流し、忠村治夫が裏切った連中に、やつを裁かせるという手もあった。だが、俺たちはその方法を選ばなかった。間接的な手段で怒りを鎮められるほど、大人ではなかった。

「そろそろ決めないと、まずいよ」ブルースが言った。

「ああ」

 返事をしたものの、引き金に添えた指が重たくて仕方がなかった。いや。思い返せば、指が軽かったことなど、一度もなかった。忠村治夫に与していた人間を、これまでに何人も葬ってきたが、指と、それが引くべきライフルの引き金は、この世に生を受けた者に、等しくある命の分だけ、重たかった。当然のことだ。ただ、俺の中にある慢性的な怒りが、その重さをわずかに上回っているだけに過ぎない。俺は目を閉じ、忠村治夫が、麻薬を売りつけた相手に見せている笑みを浮かべながら、ホリーに向かって銃を撃っている光景を想像した。短く息を吐き、目を開けた。引き金を引いた。オートマティックのスナイパーライフルは、俺が引き金を引いている間、一切の文句も言わずに、忠村治夫の体に向かって、銃弾を送り続けた。最初に当たったのは、忠村治夫の肩だった。次は、喉。撃たれた衝撃で忠村治夫の体は回転し、銃口の先に、その胴体をさらけ出した。腹、胸。銃弾を撃ち込んだという実感は、命に対して、あまりにも軽すぎるライフルの引き金と、忠村治夫の体から小さく噴き出す、血の赤色からしか、感じることができなかった。スコープの向こう側が、実はフィクションの世界だと知らされても、俺は驚かなかっただろう。忠村治夫の顔面に二発、弾が当たったことを確認したところで、俺は撃つのをやめた。

 即座に俺たちは後退し、可能な限り身を低くして、ブルースはノートパソコンと双眼鏡を、俺はスナイパーライフルを片付けた。忠村治夫が死んだ方からは、死角になる側から屋上を後にし、学校の中に戻った。閉じたノートパソコンを小脇に抱えたブルースは、ストローを口にくわえて音を立て、まだパックの中で、イチゴ・オレを探していた。

 昼休みは、まだ三分の一ほど残っていた。校内にいる者のほとんどは、最初の三分の二で昼食を終えており、その分、騒がしかった。持参した、あるいは購買で買った昼飯だけでは、口を動かし足りないとでも言うかのように。俺たちは足並みを揃えて教室へ戻り、荷物を置いた。スナイパーライフルがドラムバッグの中に入っているが、錠がかけてあるし、アタッシェケースはそう簡単には破壊できない。俺たちはトイレへ行き、手と顔を洗った。水をしこたま飲み、鏡を見つめた。

「これで終わりだ」ブルースが言った。「姉貴の死に関わった連中は、みんな、いなくなった」

「ああ」

「僕たち、元の場所に戻れると思う?」

「少なくとも、そのために最大限の努力をする」

 ブルースは頷いた。

「うん、そうだね」

 俺たちは教室に戻った。自分の机で、五分ほど静かにしていた。スコープと引き金越しとは言え、人を殺したという感覚が、血とともに全身を巡って、蝕んでいた。わずかばかりの余裕を取り戻して教室の中を見回すと、こちらを見ないようにしながらも、注意を一心に俺に向けている、大倉ミチヨがいた。彼女はいつも一緒にいる女子連中とくっつけた机で、談笑に興じていた。もしくは、そのふりを。俺は机を立ち、彼女の所に行った。メールを返さなかったことを謝り、返せなかった事情をその場で捏造し、彼女に聞かせた。彼女はそれを信じた。俺がメールを返さなかったことが、彼女を煙たがっていたからではないと知ったミチヨの表情からは、硬さが消えた。俺は、精一杯の笑顔を作り、彼女に言った。

「メロンパン、まだあるかな?」

 彼女は、首が壊れるのではないかと思うほど大きく頷き、うんと言った。その声が大きすぎて教室中に響き渡り、クラスメイトの視線とくすくす笑いを集めた。ミチヨは顔を真っ赤にし、束の間うつむいてから、両手のひらを合わせた上にメロンパンを載せて、俺にくれた。

 俺は笑った。



posted by 城 一 at 08:51| 短編小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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