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最近、自分がフリーメールを活用できない人間だってことに気付きました。

2008年10月17日

ブログ小説 焔-HOMURA-[integral] 第199回(16版)


落果。


 安希の。サニーの。海恵子の爪が、全て剥がされた。両手両足、全ての指が血にまみれた。それが乾くのも待たずに、<ナンバーズ>の29番は、ペンチから、枝を切るための剪定鋏に持ち替えた。

 やめろ。慶慎は、何度も叫んだ。僕を殺せ。何度も吼えた。ふざけるな。リタ・オルパートの返答は、決まってこうだった。

「なら、あなたにとって優先順位が最も低い人の名前を教えて」

 できなかった。そんなことのために、思考回路は働かなかった。安希の手の指が切断された。左薬指、左右の小指。長い月日の中で伸びてしまった、余計な枝を切り落とすかのように。

 サニーの指が切断された。左右の中指、左の薬指、右の小指。切り落とされた指は、元から静物であったかのように、ステージの上に転がった。

 海恵子の指が切断された。右の親指、左の中指、薬指、左右の小指。滴り落ちた血は、彼女たちの足下を赤く汚した。もうすぐ血だまりが、姿を現わしそうだった。

 慶慎を拘束する縄は、決して、椅子からその体を解放しなかった。慶慎は泣いた。それしかできなかった。安希やサニー、海恵子と同じ痛みを受けることも、血を流すこともできないのだ。思いつく限りの罵倒の言葉を、リタに向かって吐いた。彼女の感情を逆撫で、殺意を喚起することができれば、自分も安希たちと同じ痛みを受けられるかもしれない。そう思ったのだ。だが、そうはならなかった。慶慎は、自分を取り巻く世界を縁取る線が、曖昧になるのを感じた。それは視覚的でも、聴覚的でもなく、その他の感覚器官でも感じ取ることのできない曖昧さだった。心が体から剥離することで、焦点が合わなくなる感覚。現実感の消失。

 ああ、知ってる、この感覚。

 慶慎は思った。これまでにいた、二人の父親。彼らから受けた虐待の日々の中で知った感覚だ。画面やスクリーンを経ているわけでもないのに、テレビや映画でも観ているかのような気分になる感覚。五感で感じるもの全てが、フィクションの世界を形作るものへと変質していく。

「じゃあ、どうすればよかったの」

 慶慎は、足下に吐き捨てるように言った。ペットボトルから、ミネラルウォーターを一口飲んだリタが、小さく眉を上下させて、慶慎に歩み寄った。ペットボトルの底を顎にあてがい、慶慎の顔を上げさせて何か言ったが、慶慎には聞き取ることはできなかった。慶慎は繰り返した。

「僕は、どうすればよかったの?」

 リタは、慶慎のすぐ前に椅子を持ってきていた。水を飲み、椅子に腰を下ろし、脚を組み替え、目尻を指先で揉んだ。何度か彼女が口を開いたが、慶慎にはやはり、彼女の言葉を聞き取ることはできなかった。涙の膜が、視界を閉ざすのと一緒だった。目の前で繰り広げられる光景が、慶慎の聴覚を鈍くさせていた。

 リタは目を閉じて首を振り、箱からくじを引いた。中身を確認し、29番に告げる。29番は頷き、剪定鋏を操った。海恵子の右手人差し指が、彼女の体を離れ、その足下で血にまみれた。

 慶慎は目を逸らした。教えてよ。涙で濡れそぼり、裏返る寸前の声を張り上げる。

「僕は死にたくなかった。また家に帰って、父さんに殴られるのは嫌だった。蹴られるのは嫌だった。罵られるのは嫌だった。何かにむかついたとき、その感情を捨てるためのゴミ箱みたいに扱われるのは嫌だった。僕は生きてるんだ。人形じゃないんだ。それ以上、辛い思いをしたくなかった。苦しい思いをしたくなかった。そのためには、殺し屋になるしかないんだって教えられた。誰も、他の方法を教えてくれなかった。だから、殺し屋になったんだ。なのに、どうして僕はこんなところにいるの? どうすれば、こうならずに済んだの?」

 リタは、優しく微笑みながら、慶慎に口づけをした。

「素敵な顔をしてるわよ、坊や」

「こんなのおかしいよ。もうやめてよ」

「だめよ」

「どうすればやめてくれるの、彼女たちを傷つけるのを?」

「分かってるでしょう?」

「僕が、僕にとって最も優先順位の低い人の名前を、あなたに教えたら」慶慎は言った。「でも、そうしたら、その人を殺すんだろう?」

「そうよ」

「なら、できるわけないじゃないか」

「できるわよ。人の命がかかっているんだから」

「無理だ」

「一つの命を救うためよ」

「救う?」

「そう。あなたは、あの三人の中から、一人の命を救うことができるのよ」

「ふざけるなよ!」慶慎は金切り声を上げた。新たな波が、頬を伝う涙に訪れる。「それじゃ、二人は助からないってことじゃないか!」

「あなたになら、できるわよ」リタは言った。

「慶慎」

 ステージの上から名前を呼ばれ、慶慎は顔を上げた。青ざめた顔で、額やこめかみに脂汗を滲ませた海恵子が、気丈に微笑んでいた。その口からは、既にギャグボールは外されている。痛みと体力の消耗で乱れた息を整えてから、海恵子は言った。

「あたしを選びな、慶慎」

「何言ってるんだよ、海恵子さん。そんなこと、できるわけないじゃないか。そんなことをしたら、海恵子さんが死んじゃうんだよ?」

「いいさ。あたしはもう、十分生きた。それに、あたしも苦しいんだよ。あんたのそんな顔を、もうこれ以上、見たくないんだよ」

「だめだよ」

「ただ、言えばいいんだよ、慶慎」

「だめだって」

「あたしは、使えない年寄りさ。体力なんてものは、もうたいして残っちゃいない。このままこれが続けば、最初に死ぬのはあたしだ。それを少し早めるだけさ。難しく考えなくていいんだよ」

「嫌だよ」

「ずっと近くで、あんたが苦しむのを見てきた。前のやつのときは知らないけどね。文永に暴力を振るわれて、傷付けられて。心も体も、ぼろぼろになったあんたのことを、ずっと、何度も見てきた。その度に、あんたを助ける方法を模索した。けど、見つからなかった。あたしはただの老いぼれた、もぐりの医者に過ぎなかった。あたしにできるのは、いつも応急処置だけだった。今もそうさ。けど、それでも、やらないよりはましだ。あたしの命で、あんたの涙が、少しの間だけでも止まるなら。もし止まらなくても、その涙の流れを少しでも緩められるなら。あたしは、それでいいんだ」

「嫌だ!」

 慶慎は叫んだ。声は、慶慎たちのいる広い空間で、わずかに反響した。

「誰かを助けるためだよ」海恵子が言った。「あたしの名前を言いな、慶慎」

 リタが言った。

「坊や。せっかくの彼女の心遣いを、無駄にするつもり?」

「嫌だ」

「このまま拷問が続けば、彼女の心遣いを有効利用する前に、彼女の命が尽きてしまうのよ? 彼女が言った通り。そうなったら、全て手遅れ。あたしは、誰の命も助けない。よく考えてもみなさい、坊や。彼女がどういう気持ちで、ああ言っているのかを」

「嫌だ」

 慶慎は両手に力を込め、椅子の肘掛けを軋らせた。木製の椅子は、ぐらぐら揺れ、高い音で軋りはしたが、拘束されている状況に変わりはなかった。涙が流れた。誰か助けてよ。誰ともなく、慶慎はすがるように言った。誰も助けてくれないことは知っていた。これまでの人生で、痛いほど分かっていた。“誰か”などいない。どんなに泣いても、叫んでも。助けてくれる者など、どこにもいないのだ。

「他に方法はないの?」濡れた瞳で、慶慎は言った。誰も答えなかった。「みんなが助かる方法はないの?」

「ないわ」リタ・オルパートが言った。

 込み上げてきた嗚咽が、慶慎の胸を揺らした。誰か。また、どこにもいない存在を呼んだ。

「どうすればいいのか、僕に教えてよ。命令するだけでもいいんだ。それがたとえ、間違ってたっていい」

 慶慎は言った。誰も答えなかった。

「こんなことになるなら、生きようとなんて思わなかった。何も望まなかった。こうなることを知っていたなら、父さんの所で虐げられて、殴られて、蹴られて、罵られて。命の火が消える日を、ただ待ち続けたのに」

 静かな空間に、慶慎の声だけが弱々しく響く。き。唇を、その音を出すための形にして、慶慎は息を吐いた。ただ、それだけで、強烈な涙の波が押し寄せた。

「どうして」

 呟いて、慶慎は波が通り過ぎるのを待った。岸田海恵子。その名前を、最初は口の中だけで呟いた。小さく、そっと。胸が揺れ、咳が出る。

「何か言った?」

 リタが問う。慶慎は、何度も体の中の空気を入れ替え、涙の波を落ち着かせた。最後に一つ、深く呼吸をして、はっきりと口に出して言った。

「岸田美恵子」

 口に出した瞬間、慶慎ははっとした。違う。胸の内側から聞こえた、確信に満ちた声に、涙が凍る。そうだ、違う。慶慎は顔を上げた。

 リタは、ステージの上にいる、フルフェイスのヘルメットをした少年に、手で合図をしていた。海恵子を殺せと。

「違う!」

 慶慎は首を振り、叫んだ。眉をしかめ、小首を傾げるリタの向こうで、フルフェイスが音を立てずに、海恵子へと歩み寄る。慶慎はもう一度言った。

「違うんだ!」

「何が?」リタが言う。

 フルフェイスの少年が、懐から取り出した拳銃の撃鉄を上げた。海恵子のこめかみに、銃口を突きつける。

「違う、やめろフルフェイス!」

 慶慎は、自らの喉を切り裂くように叫んだ。

 その人は僕の母さんみたいな。

 海恵子が、にっこりと微笑んだ。その唇が、優しく動く。ありがとう。彼女は声には出さなかったが、慶慎には確かに、その言葉が聞こえた。

 海恵子さん。

 ぱん。

 乾いた音がして、海恵子の頭が揺れた。銃口が突きつけられたのと、反対側のこめかみが小さく爆ぜ、赤黒い、どろりとした血が飛散する。海恵子の頭ががくりと落ち、重力に敗北を認めた血が、彼女の胸元へと流れる。

「海恵子さん?」

 慶慎は呼んだ。呼べば、彼女は返事をするのだ。今までと同じように。そう信じた。海恵子さん。彼女はただ、眠っているだけだ。その眠りが、自分の呼びかけが届かないくらい、深いだけで。

「海恵子さん」

 リタが言った。

「おやすみ、岸田海恵子」

 咆哮。慶慎は、自分を取り巻く世界から、音が消えるのを感じた。だがそれでも明確に、自分が叫んでいることが分かった。

つづく




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posted by 城 一 at 13:29| 長編小説 焔-HOMURA-[integral] | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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