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最近、自分がフリーメールを活用できない人間だってことに気付きました。

2006年09月02日

Bathroom

 赤い点が走る。
 浴槽に張った、湯の上。打たれた点たちは、ゆるりと下降しながら、色を失い、霧散する。
 視界の外れで、甲高い金属音が奏でられた。ハナはそこで初めて、自分の右手から、果物ナイフが滑り落ちたことに気づいた。
 白い浴室。角のない、曲線と直線に囲まれた世界。白色は、石鹸のように滑らかで、擦れば泡立ちそうだった。
 湯には、何も入れていなかった。浴槽に切り取られた、丸みを帯びた直方体は、透明だ。光の届かない部分には、うっすらと灰色が滲んでいる。
 ハナは、視線を落とした。静寂の中、波立つことを忘れた湯船は、ゼリーのように見えた。
 湯船の中、沈むハナの肢体。白い。ただ、浴室の白色とは、異質のものだ。血の流れや骨の太さ、皮膚の薄さ、筋肉の密度。それらが、結合と分離を繰り返し、時に白≠フ範疇を外れながら、グラデーションを作る。青、黄、紫、赤。総じて、白。
 無駄な肉はついていない。角張った骨のラインを、柔らかくするために、残っているだけだ。中庸。バランスの取れた、中庸だった。その中で、二つの乳房だけはたわわに実り、弾力をたたえていた。
 天から与えられたものと、緻密な計算、そして努力が作り上げた体だった。
 バスタブの容器に、湯船のゼリー、それに包まれた自分の体。
 ハナはそれが、スーパーのデザートコーナーに、陳列された光景を想像して、笑った。
 男たちは、群がるだろう。だけど、その中に、タカシはいない。
 笑い声は、浴室に響かないほど小さく、喉の奥でかすれていた。自嘲するように、唇が歪んだのが、ハナは鏡を見なくても、分かった。
 湯に、赤い点は打たれ続けている。
 いつの間にか、点は、やんわりとした靄を作っていた。靄は、限りなく静止に近い速度で踊り、目には見えない水の流れを表現してみせる。
 赤い雨を降らせているのは、ハナの左手だった。手首から十数センチ、縦に深く、切り裂かれていた。いくつもの赤い筋が、肘の辺りまでを彩っている。
 時間は、計っていなかった。だが、左手の感覚を曖昧にする痺れと、自由を奪い始めた重力が、傷が生まれたばかりではないことを、明確に示していた。
 浴槽の外に投げ出していた、右手。ハナはそれを物憂げに動かして、携帯電話を取った。
 目的の電話番号。呼び出すのに、余計な手間はいらない。発信履歴は、その番号で埋まっていた。
 呼び出し音は、すぐに止まった。
「いい加減にしろよ」
 タカシの声。疲労が滲み、棘を含んでいた。無理もない。発信履歴は全て、同じ日付だった。しかも、一番古いものでも、三時間前だ。
 ハナの胸の奥が、震えた。嬉しかった。たとえ不機嫌な声でも、ハナの中で、豆電球に光を灯したような、淡い幸せを生んだ。タカシは、電話に出ないだろうと、思っていたのだ。
 それでも電話をかけ続けたのは、自分の存在を、忘れてほしくなかったからだ。電話に出なくても、呼べば、メロディが鳴る。マナーモードでも、本体が振動する。着信履歴のページが、自分の電話番号で、埋め尽くされる。
 だが、豆電球はすぐに消えた。時刻は、日付が変わる二十分前。それが意味することに、気付いたのだ。
「彼女とのセックスは、良かった?」
 ハナの頭の中で、まるで実際に見たかのように、タカシの一日が映像化された。浮気相手と街を歩き、買い物をし、映画を見る。予約していたレストランで夕食を取ったあと、女の部屋へ。その日のデートを、会話を通して反芻しつつ、ベッドへ移動する。言葉にするまでもない戯れが終わるのは、ちょうど今頃だと思った。
「わけ分かんないこと言うな。彼女は、お前だろ」
「そうだね」
 タカシは、微塵も動揺しない。ハナは、それが悲しかった。
 人間のできた、理想の彼氏。疑い深い性格の、彼女の話にも、根気よく付き合う。
 設定に沿ったセリフが、吐き出されるほどに、ハナは、タカシとの距離を痛感する。
 いっそ怒りに任せて、思いきり罵ってくれればいいのに。ハナは思った。そうすれば、恋人ではなくても、せめて、一人の人間として扱われていると、感じることができる。
「どうすれば、信じてくれるんだよ」
「帰ってきて。今、すぐに」
 溜め息。さすがにもう、タカシはこらえなかった。微細なノイズが入る、携帯電話越しの会話で、なぜかそれだけが、耳元で吐かれたかのように、ハナには鮮明に聞こえた。うんざりしたタカシの表情が、見えるようだった。
「無茶言うなよ。ここからじゃ、どんなに飛ばしても、三時間はかかる。疲れてるし、そっちに着く前に、事故っちまうよ」
「そうだよね。ごめんね」
 鈍痛が、左手で、はっきりとした形を取り始めていた。鼓動にも似たリズムを刻む。急に、重力に逆らうのが億劫になった。左手を落とす。ぱしゃり。湯船をゼリーにしていた凪が、弾け飛んだ。
「魚、釣れた?」
「いや」
「一匹も?」
「そういうときもあるさ。いいんだよ、釣れなくても。海の近くで、潮風に吹かれてるだけでも、十分楽しいんだよ。ま、釣れるのに越したことはないけど。気持ちいいよ、ここ。お前も、来ればよかったのに」
「あたしも行きたいって、言ったよ」
「そうだっけ?」
「どこなの、そこ?」
「言っても分かんないって。ハナ、地図読めないし」
 湯船は、手首に開いた口から、見る間に血を吸い込み、自らを赤く染めていく。痺れは、指先まで侵していた。皮膚と湯の境界線が、曖昧になっている。未知の感覚に、ハナは、腹の奥底に、一握の恍惚が生じるのを、感じた。
 親指の腹を、傷口に潜り込ませて、揉むように動かす。痛み。小さな電流は、左手の存在を、内側から照らす光のように、走る。ハナは思わず、喉で高く鳴いた。タカシの指が、自分の中を弄ぶときのことを、思い出した。
 なんだって?電話の向こうで、タカシが言った。なんでもない、とハナは答えた。会話が途切れる。自分の返事が、タカシに聞こえたのか、ハナには分からなかった。構わなかった。取り憑かれたように、傷口を弄ぶ。それでは足りなくなり、思いきり、爪を立てた。
 声が一オクターブ、上がる。
 死のうと思ったわけではない。かと言って、タカシに見せつけるために、手首を切ったのでもなかった。
 確かめようと思った。自分の存在を。
 理想の男を演じるタカシに、触発されたのかもしれない。いつしかハナも、理想の女を、演じるようになっていた。
 控えめな態度、媚びた上目使い、人なつこい笑顔。時々、尖らせた口と、下唇を噛む仕草で、アクセントを打つ。
 半音高い相槌、瞳の大きさを強調するための、驚いた表情。さりげなく、話し相手の体を触ることも、忘れない。
 タカシの腕に、自分の腕を絡ませながら、培ったものたち。それらは、不可視の皮膚となり、ハナを包んだ。
 第二の皮膚を獲得してからは、ハナに目を止める男の数が、倍加した。一時は、スポットライトの当たる、ステージ上にいるような気がしたくらいだった。
 ある種、アイドルのような感覚は、ハナの自尊心を満たした。色とりどりの宝石を、体の中に詰め込んでいるようだった。
 完璧だと、思っていた。
 隙間なく宝石に埋められた、体。オブラートにも似た、第二の皮膚。
 だが、あるとき、気付いた。
 男たちの注目の的である、完璧な女、津間村華の中、どこにも、ハナが一片も含まれていないことに。
 まるで、道化だ。ハナは思った。いや、道化ならば、まだいい。生きているのだから。
 ハナは、もっと自分に、ぴったりと来る言葉を思い浮かべて、恐ろしくなった。
 マネキン。無機質なその存在に、命はない。
 だから、手首を切った。熱を孕んだ命の赤が、自分の中を流れていることを、確かめるために。
 湯船の赤は、本物の血液に、近づいていた。黒ずみ、透度を失っている。浸かっている、ハナの胸から下が、見えなくなり始めていた。
 その光景を前に、ハナは安堵した。
 自分はやはり、生きている。
 ハナは、電話の向こうから、タカシが呼んでいることに、気づいた。なに?慌てて、返事をする。
「明日……正確に言えば、今日?とにかく昼過ぎには、帰るから」
「うん」
 抗し難い倦怠感が、小川のせせらぎのように流れ、全身をゆっくりと巡っていた。体を支えているのも面倒になり、浴室の壁へもたれた。
 拒絶するような冷たさが、肌を刺した。驚いて逃げようとする体を、押さえつける。一瞬。それだけ我慢すれば、壁は黙って、体を支えてくれる。肌は、その冷たさに、慣れる。
「タカシ?」
「うん?」
 ハナは、目を閉じた。
「愛してる」
 ふと、電話口から流れてくるノイズが、音量を上げた。にも関わらず、なぜかハナの耳には、タカシの声が明瞭に聞こえた。
「うん」
 雑音の向こう側で、車の通り過ぎる音がした。互いに、短い別れの言葉を口にして、電話を切った。
 前髪から頬に、滴が落ちる。冷たい。それは滑るように頬を伝い、顎に達すると、見限るようにして、ハナを離れる。
 水面にふわりと、小さな波紋が広がった。
 浴槽の中は、グレープジュースのようだった。すぼめた左手ですくい、口に運ぶ。味は、色を裏切り、ほとんど無味だった。白湯のようなものだ。ただ、鼻先をかすめるようにして、血の臭いが香る。
 空気に触れた、手首の傷は、思い出したかのように、また鮮血を溢れさせる。
 血は何度も、湯を打った。しかし、もう赤い点にはならない。ルーティンワークのごとく、控えめに波紋を作るだけだ。
 うやうやしく右手を眼前に構え、開く。携帯電話が落ちる。当たり前のように、重力に抵抗せず、電話は落下を受け入れる。たとえその先に、致命的なものがあろうとも。
 飛沫もなかった。鈍い水音と共に、赤色の中に姿を消す。
 底に近い所で、太腿にぶつかった。
「痛い」
 ハナは呟いた。
 なぜ、今になって、涙が溢れるのか、ハナには分からなかった。


(了)
posted by 城 一 at 09:00| 短編小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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