慶慎の頭は、松戸の流した鮮血の赤で、満ち満ちていた。凶暴なほど赤い、血の色で。
頭が、正常に働かなかった。自分が今、どこを歩いているのかも分からない。足の下にあるのが、アスファルトでできた道路だということが、とても信じられなかった。スポンジの上でも歩いているかのようだった。
慶慎は、よろけた。すぐそこにあった、どこかの建物の壁に手をつく。ボストンバッグから吸入器を取り出して、使った。それで、スイッチを切ったかのように、喘息の発作が収まるわけではなかった。慶慎は深呼吸した。いくらかましになった。また、歩き出した。
人を、殺した。しかし、失敗した。肝心のリタ・オルパートを、逃がした。慶慎は、何度も悪態をついた。胃酸の味がする唾を、地面に吐き捨てた。遠くでパトカーのサイレンが聞こえた。自分がどこにいるのかは分からないが、とりあえず、サイレンの音が近づいて来るようなことはなかった。
呻き声を漏らし、慶慎はその場にしゃがみ込んだ。体が震えていた。寒さのせいもあったが、それだけではなかった。ひどい震えで、歯が噛み合わなかった。
松戸の喉にできた赤い線。そしてそこから、血が噴泉のように吹き出す。その映像が、繰り返し慶慎の頭の中で再生された。二度と見たくない映像だったが、慶慎の頭は、それにはお構いなしに、再生を続けた。吐き気を感じ、慶慎は顔を下に向けた。もはや、胃の中に吐くものは残っていないようだった。唾だけが、慶慎の唇からのったりと糸を引いた。目に、涙が滲んだ。
歩いては、休むことを繰り返した。パトカーのサイレンから、逃げる。ただ、それだけを考えて、歩き続けた。どれだけ時間が経っても、スポンジの上にいるような感覚は消えなかった。
もう何度目か分からない休息のために、その場に腰を落としたとき、自分の名を呼ぶ声がした。慶慎は最初、それが空耳だと思った。が、違った。確かに聞こえた。
「ケイちゃん?」
その呼び方をする者は、そう多くはいない。慶慎は顔を上げた。市間安希(いちま あき)が、そこにいた。数少ない、慶慎の友達だった。少なくとも、慶慎はそう思っていた。初めて出会ったとき、慶慎はひどい喘息の発作に苦しんでいた。そのとき、背中をさすってくれた、彼女の手のひらの感触と温度は、今も忘れてはいない。
安希は、素早く慶慎に駆け寄った。彼女の手のひらが、また背中に当てられる。柔らかく、温かい。慶慎は、今まで張り詰めていた緊張の糸がほぐれるのを感じた。それは一度始まると、止められなかった。
「何かあったの? ひどい顔してるよ」
安希が言った。慶慎は答えようとしたが、開いた唇からは、なんの言葉も出なかった。
「ケイちゃん? ちょっと」
体から力が抜けていく。もはや、全てが慶慎のコントロール下から離れていた。安希に何か言わなければならなかったが、できなかった。
慶慎は気を失った。
つづく
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