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最近、自分がフリーメールを活用できない人間だってことに気付きました。

2007年02月20日

短編小説 Blank

 私はどうやら、眠っていたようだった。

 体を起こすと、読みかけだった新聞が、床へ落ちた。

 とんとんとん。キッチンで、包丁を振るう夏美の後姿が見える。とんとん、ざくざく。包丁とまな板で、心地よい調べを奏でる女。小さな体を、黄色い無地のエプロンで包んでいる女。

 かわいらしい。後ろから、抱き締めたくなる。

 が、その欲求を、私は我慢する。

 彼女が、心血を注いでいると言ってもいい、料理。邪魔をすると、彼女の鋭い視線で突き刺されて、どきりとしなければならない。

 私は、眠気から逃れるように、低い唸り声を上げながら、新聞を拾った。我ながら、のっそりとした動きだった。夏美が、肩越しに、こちらを見る。

「眠っていたの?」

「どうやら、そうみたいだ」

 白いソファの上、私は座り直す。改めて、がしゃがしゃと音を立てて、新聞をめくる。

 活字に目を落とす前に、夏美と視線をぶつけ合った。気づかないうちに、口許がほころんでいた。互いに。

「君が、料理をするときに立てる音は、どうも心地よくて困るよ」

「まるで、子守唄みたい?」

「まったくだね」

 夏美が、なにを作っているのかは、尋ねなくても分かった。カレーライスだった。

 立っていって、鍋の中をのぞかなくても、飴色になった玉ねぎを、思い浮かべることができた。夏美の振るう包丁の下で、切られると言うよりも、ほどかれていく野菜たち。肉たち。形はいびつで不均等だが、私は気にしない。夏美が、野菜や肉と対話しながら、決めた大きさ、形だ。

 新聞を読み終えたあと、テレビをつけた。自由を与えられている、チャンネル権。私は好きに、ばちばちと次から次へ、チャンネルを変える。見たい番組など、ないくせに。なにか目的があって、テレビを見ているわけでも、ないくせに。

 私の左手、薬指は、ない。

 それもまた、夏美にほどくようにして、切られたもののうちの、一つだった。あるいは、切られるように、ほどかれた。

 そのことに関して、恨みはない。あるわけもない。ただ、ひたすらに、感謝するだけだ。

 五年前、妻が死んだ。がんだった。

 生前、活発だった妻の心意気を受け継いだのか、がん細胞も、止めようがないほど、活発で、強かった。

 妻の死は、どうしようもなかったことだ。

 誰もが、そう言う。

 私も実際、そう思っていた。医者も、そう言っていた。

 夏美と出会ったのは、二年前。

 恋。二度とすることはない。そう思っていたものは、あまりにもあっけなく、私に訪れた。そして、私を虜にした。

 夏美とつき合い始めてから、数ヶ月経った頃。私は、悪夢に悩まされるようになった。

 妻が、夢に出てくるのだ。背筋が凍るほど、冷たい怒りに狂った表情で。

 それは私を狂わせ、私と夏美の関係も、狂わせた。

 もう少しで、私たちの関係が破綻しそうな、そんなときのことだった。

 夏美が、私の薬指を切り落としたのは。使ったのは、いつも使っている、包丁。

 そして、夏美は、妻の死後も、夏美との交際が始まってからも、つけ続けていた結婚指輪を、私の薬指から、外した。

 それからはもう、妻の悪夢は見ない。

 たとえ夢に出てきても、妻は穏やかな表情をしている。微笑んでいる。

 テレビを見ながら、私はまた、まどろんでいたようだった。

 気づくともう、カレーライスが、テーブルの上に並んでいた。私と夏美の分、そして一枚だけ、空の皿。

 これは? 私は、夏美に尋ねた。なんのための、皿だい?

 夏美は微笑を浮かべたまま、首を振った。説明する必要は、ないはずよ。そう言った。
 私は、空っぽの皿を、見つめていた。

 そして、やがて私も頷いた。スプーンを取って、自分のカレーライスを一口、すくう。夏見の味つけはもう、私の舌に馴染んでいる。おいしかった。

「そうだな」私は言った。頷いた。「説明する必要は、ないな」

 空の皿は、輝きを放ち続けた。



(了)
posted by 城 一 at 06:09| 短編小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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