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最近、自分がフリーメールを活用できない人間だってことに気付きました。

2008年02月15日

短編小説 ちゃんと、覗いてますから。(2版)



 彼女の瞳に映っているのは、僕ではなく、絶望だった。その色と深さに、こめかみがズキズキとした。

 父親に買ってもらった、天体望遠鏡で覗きをしていた。向かいにあるマンションの一室。カーテンを閉める習慣を持たず、無防備に日々を過ごす彼女を。

 彼女の着替えを、風呂上りのバスタオル一枚の姿を、そしてセックスする姿を見ながら、オナニーに励むことが、いつしか僕の生活の一部になっていた。

 その彼女が、いつまで経っても、レンズの向こうに現われなかった。

 彼女がいなければ、僕の夜は空虚なものになる。持て余した時間に、別の人間を探した。好奇心か、性欲を満たしてくれそうな、マンションの住人を。

 望遠鏡を、屋上に向けたのは、偶然だ。彼女を見つけたのも。

 いつも夜を満たしてくれる彼女は、十数階もあるマンションの屋上の、フェンスの外側で、風に吹かれていた。

 止めなければ。そう思った。部屋から飛び出て、僕は久しぶりに全力疾走をした。何年かぶりに吸う外の空気は、乱暴なほど新鮮だった。肺が悲鳴を上げるように激しく動いているのが、何だか心地よかった。

 そのかいもあってか、間に合った。彼女はまだ、フェンスの外側で髪をなびかせていた。

「あなた、誰?」彼女は言った。

「ケン。小宮ケン。あなたの名前は?」

「倉橋トモヨ」そう言って、彼女はふふ、と笑った。「どうして、ここに?」

「覗いてました」

 僕は言った。自分で、自分が信じられなかった。

 覗き。責められこそすれ、胸を張ることなど、できない行為だ。犯罪だ。なのに、自分が彼女に対してしていたことを告白した。僕の声は、清々しいほどに透き通っていた。後ろめたさなど、微塵もなかった。

「そうなの。あたし、覗かれてたんだ」

「ごめんなさい。でも、あなたは、とても素敵で」

「ありがとう」

 倉橋トモヨは、なびく髪を手で押さえた。少し茶色く染め、パーマのかかった、長い髪だ。

 前は、黒のストレートだった。そちらの方が好きだったけれど、今の髪型も好きだ。彼女に似合っている。

「あたしね」倉橋トモヨは言った。「これから、死ぬのよ」

「どうして」

「何だ。あたしのこと、覗いてくれてたんじゃなかったの」

 彼女は、寂しそうに笑った。

「いえ、ちゃんと覗いてました!」

 自分でも笑ってしまいそうなセリフを、大声で叫んでいた。そうでなければ、屋上で吹き荒れる風を、突き抜けられない気がした。

 倉橋トモヨが死ぬ理由。心当たりなら、あった。一週間前の、恋人らしき男との喧嘩だ。

 それからと言うもの、彼女はひとりで部屋にいるときは、携帯電話を見つめてばかりだった。悲しそうに。

「彼氏と、別れたからですか」

「そうだよ」

「喧嘩の原因は、何だったんですか?」

「何てことないの。街でデートをしてたら、彼ね、すれ違ったかわいい女の子のことを見ててね。だから、ちょっと言ってやったの。“他の女の子のことばかり見て、やらしい人ね”って。意地悪を言ってやっただけのつもりだったんだけどね。彼、もうキレちゃって。“お前にはうんざりだ!”って」

「そんな」

「結婚の約束だって、してたのにね。あたしったら、馬鹿みたい」

「そんなことありません」僕は言った。「あなたは綺麗で、優しい目をしてて」

 中学一年生の頃だった。小学校からの付き合いだった親友と、些細なことから口論になった。

 もう、三年以上も前のことだ。理由は覚えていない。記憶するほどの価値もなかった理由だ。それだけは、覚えている。

 僕は、親友のことを無視するようになった。それが、始まりだった。

 クラスの中で、僕と言葉を交わしてくれる人間が、一人、また一人と減っていった。一学期が終わる頃には、クラスメイト全員が、僕を無視するようになった。

 首謀者は、親友だった。

 二学期が始まり、三学期が始まっても、それは終わらなかった。

 僕は音を上げた。学校へ行き、クラスメイトたちと、友情を育むことを、諦めた。

 家で、ただひたすらに、部屋に引きこもり続ける生活に、変化を与えてくれたのが、望遠鏡と、倉橋トモヨだった。倉橋トモヨがいなければ、僕はここにはいなかったかもしれない。

「あなたのことが、好きなんです。倉橋トモヨ」

「ありがとう、ケン君。嘘でも」

「嘘じゃありません。冗談でもない。僕は、あなたが好きです」

「じゃあ、一緒に死んでくれる?」

 耳を疑った。

 倉橋トモヨは、顔をほころばせた。

「ごめん。意地悪言っちゃったね。嘘だよ。冗談。でもね、お願いがあるの。邪魔だけはしないで。あたしがここから飛び下りるのを」

「いいですよ」僕は言った。

「え?」

 倉橋トモヨは花だ。殺伐とした僕の日常に咲いた、一輪の花。

 今それが、自ら散ろうとしている。一緒に散るのも、悪くはない。そう思った。

 僕はフェンスに手をかけた。弾みをつけて、登る。身長よりも、三十センチほど高いフェンスは、登るのに少し、時間がかかった。

「馬鹿だね」

「ええ、馬鹿ですよ」

 フェンスを越えた。倉橋トモヨに助けを借りて、向こう側へと下りる。

 景色は、ガラリと変わっていた。暗さを増したように感じる夜がどこまでも広がっていて、足下、はるか下を行き交う車の明かりに、眩暈がした。

「大丈夫?」倉橋トモヨが、僕の手を握った。

「大丈夫ですよ」

 僕は言った。嘘でも、強がりでもなかった。

 彼女の手のぬくもりがあれば、どこへでも行ける。そう思った。たとえ、死の世界でも。

 倉橋トモヨが言った。

「キス、したことある?」

 なかった。女の子と、付き合ったこともない。僕は、思いきり首を振った。

「初めて、もらってもいい?」

「いいですよ」

「じゃあ、目を閉じて」

 倉橋トモヨが言った。僕は、言われた通りにした。着ていたダッフルコートの袖で、自分の唇を、ごしごしとこする。

 だが、彼女の唇は、いつまで待ってもやって来なかった。何か、彼女の気に障ることでもあったのだろうか。僕は思った。

 いくら考えても、キスが訪れない理由は分からなかった。

「すいません、ちょっと、目を開けてもいいですか?」

 僕は言った。倉橋トモヨは、何も言わなかった。

 もう一度、同じ言葉を繰り返してから、僕は目を開けた。

 倉橋トモヨはいなかった。

 足下を見た。車の明かりが、乱れているのが分かった。人だかりができ始めていることも。その中心に、倉橋トモヨがいることも。

 手のひらをこすって、彼女のぬくもりを探した。強い風に吹かれて冷たくなっており、見つけることはできなかった。

 置いていかれた。そう思った。

 勇気のある者ならば、彼女を追って、ここからジャンプするのだろう。足下を見つめながら、そう思った。

 僕には、無理だった。

「ずるいや」

 そう、小さく呟くことしかできなかった。



posted by 城 一 at 01:53| 短編小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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