Gusuku LABELへようこそ!
最近、自分がフリーメールを活用できない人間だってことに気付きました。

2007年02月14日

ブログ小説 焔-HOMURA-[integral] 第40回

 唇、頬の内側、歯、舌。
 口の中、どこを探っても、不快な味がした。煙草を、吸い過ぎていた。
 アルミ製の灰皿。二つに割った、オレンジの果実の断面に似た形をした、代物だ。その外観に惹かれて買った。
 今は、その外観を楽しむことはできない。煙草の吸い殻に、埋め尽くされてしまっていた。煙草の墓場と言った方が、ぴたりとくるような気が、鈴乃はした。もっとも、元々、灰皿は皆、煙草の墓場なのかもしれないが。
 わずかな隙間。鈴乃はそこに、ねじ込むようにして、煙草の吸い殻を一本、新しく押し込んだ。
 酒を飲もうと思ったが、やめた。アルコールで気を紛らわせなければならないようなことならば、最初からやらなければいいのだ。そう、思った。
 灰皿の置いてある、白い円テーブルの周りは、散らかったまま、片づけられたためしがない。破りっ放しのセロハン、握り潰したビールの空き缶、煙草の空箱。カーペットの上に、死体のように転がっている。マルボロ・メンソールのものに混じって、時折、クールの箱が混ざっている。その銘柄を、ごくたまに、無性に吸いたくなるときがあった。理由は、分からない。
 墓標のように立つフィルター群は、口紅で鮮やかに色づけされていた。鈴乃はコンパクトミラーで、自分の唇を確認した。何とも、味気ないものになってしまっていた。食べ頃を過ぎた果実のようだった。
 珊瑚色の口紅を塗り直した。化粧ポーチに戻すのが面倒だった。鈴乃は、口紅を、煙草の箱の中に入れた。
 部屋の壁にかかった時計を見た。行かなければならない時間だった。
 鈴乃は、床に散らばる煙草の箱を踏みつけながら、ソファから立ち上がり、部屋を出た。
 黒に近い、紫色のクーペ。シボレー・コルベット、七十七年型。
 車体を愛撫するように手のひらで撫で、ドアを開けて乗り込む。
 アクセルを目一杯踏みつけ、マンションの駐車場を飛び出した。暴れるように加速する車。コントロールを失う寸前でブレーキを踏み、ギアをチェンジし、乗りこなす。手なずけたのはもう、ずっと昔の話だ。
 夜の街を疾走する。
 暗闇を彩る、数えきれないほどの車のヘッドライト、街灯、ネオンサイン、電光掲示板。鈴乃は、夜が好きだ。昼間の世界を支配する太陽の光は、強過ぎる。
 十分もかからずに、ホテル・ジパングに到着した。
 ひび割れた青い壁。シンプルな、縦に長い直方体の建物だった。黄色い豆電球に囲まれた、縦型の看板。「ク」についている濁点が、消えかかっていた。鈴乃は、汚れたガラス戸を押して、中に入った。
 場所と時間。それしか伝えられていなかった。鶴見がどの部屋で待っているのかも、知らない。鶴見と連絡を取る手段もない。が、鈴乃は気にしなかった。相手は、この方法を何度も使っているのだ。そう、シドが言っていた。こちらと会う方法は、向こうが考えている。
 シド。やくざの、優男の顔が、脳裏をよぎった。馬鹿な。鈴乃は思った。あの男のことが、気になるとでも言うのだろうか。
 鈴乃は頭を振り、ロビーを進んだ。どこにでもいる男だ。自分と価値観の違う人間を、矯正しなければ気が済まない。苦手な種類の人間だった。
 受付の男と目が合った。何となく、予感がした。鈴乃は、受付のカウンターに行き、肘を乗せた。
 何も言う必要はなかった。男が頷いた。
「二〇三号室で、鶴見様がお待ちです」
 鈴乃は礼を言った。受付のすぐ横に、エレベーターがあった。乗り込み、二階のボタンを押した。
 二〇三号室。見つけて、ノックする前に、ドアが開いた。鶴見が、そこにいた。
「時間通りだな、入ってくれ」
 鶴見は言った。グレーのスラックスに、白いワイシャツのボタンを三つ開けて、着ていた。胸元で金鎖が輝いていた。
「まだ、ノックもしてないわ」鈴乃は言った。
 鶴見は、鈴乃の足下に目を落とした。バックルがついた、膝下まであるブーツ。踵には、十センチのピンヒールがついている。鶴見は、そのヒールの部分を指差した。
「それが、床をノックしてた。コツコツ、とね。それで分かる」
「耳がいいのね」
「これくらいで驚かれちゃ困る。俺は、刑事なんだから」
 鈴乃は部屋の中に入った。クイーンサイズのベッド、テーブル、二脚の椅子、壁際に机が備えつけられていた。その上に、ハンドバッグを置いた。後ろで、鶴見がドアを閉め、鍵をかける音が聞こえた。鶴見が言った。
「シャワー、浴びなよ」
「あなたは?」
「もう、浴びた」
 鶴見はベッドに腰かけ、鈴乃を見上げた。
「あたしも、浴びたわ」
「準備万端、と言うわけだ」鶴見はにやりとしながら、言った。「コート、脱いだらどうなんだい?」
 鶴見の言葉を聞きながら、既に鈴乃は、コートを脱ぎ始めていた。ボタンを外し終わると、するりと、コートを床に落とした。
 鶴見が軽く、目を丸くしながら、鈴乃の体を、上から下まで、舐めるように見た。半開きになった口から、言葉は出て来なかった。
「黙ってちゃ、分からないわ。どうなの?」
「素晴らしい」
 淡いブルーのレースでできたシュミーズと、同色のGストリング。鈴乃は、それ以外に、何も身につけていなかった。シュミーズは透けていて、両の乳房が露わになっている。
 鶴見が、唇の内側を舐めた。
「俺が踏んだげろを吐いた女と、同一人物とは思えないな」
「ヘイ」鈴乃は言った。「こういう場では、あまり、そういうことを言うべきではないわ」
「すまない。俺の口は、マナーがなってないんだ。塞いでくれないか?」
「いいわ」
 鈴乃はそう言って、鶴見をベッドに押し倒し、唇を唇で塞いだ。



つづく




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ブログ小説 焔-HOMURA-[integral] 第1回から読む

ブログ小説 焔-HOMURA- scene1から読む
posted by 城 一 at 00:28| 長編小説 焔-HOMURA-[integral] | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月16日

ブログ小説 焔-HOMURA-[integral] 第41回

 鶴見は、鈴乃の体に溺れた。微笑をたたえていたその顔から、余裕はすぐに消えた。その光景を楽しみながら、鈴乃は鶴見に、好きなようにさせた。小一時間後、鶴見は果てた。
 鶴見の反応は、予想通りのものだった。一度で満足せず、さらに執拗に迫ってきた。鈴乃は頑なにそれを拒んだ。情報を手に入れるためにやったことだ。それ以上の性交は、目的から外れる。
 そしてもし、鶴見が嘘をついているのならば、何度、体を預けようが、結果は変わらない。鈴乃はそう思った。逆もまた、しかり。
 鶴見は業を煮やし、力任せに鈴乃を押し倒そうとした。できるわけがなかった。普通の男に力負けする程度で、カザギワの殺し屋にはなれない。
 刹那の無意味な攻防の後、鈴乃はベッドの上、鶴見の左手首を極め、うつ伏せになったその背中に乗っていた。
「折るわよ。いい加減にしないと」鈴乃は言った。
「くそっ。一回やったんだ。二度や三度やったって、変わらないだろう」
「同じ台詞をそのまま、返すわ」
「尻軽なんだか、そうじゃないんだか、分からない女だな、君は」
「尻軽ではないわ」
「じゃあ、あばずれ」
「合理的に判断した上で、あなたと寝たのよ」
「そう簡単に、合理的な判断ができるものじゃないよ」
「あたしにはできる」
「あばずれだから」
 鈴乃は、手首を決める手に、力を込めた。鶴見が呻いた。
「分かった。訂正する」鶴見は言った。
 鈴乃は突き飛ばすようにして、鶴見の体から離れた。冷蔵庫へ行って、ミネラルウォーターの入ったペットボトルを取り出した。大型の、二リットル入りだ。一口、飲む。鶴見とセックスした後の体が、内側から洗われるような気がした。
 一糸まとわぬ姿のままの鈴乃。それを見て、鶴見は唾を飲んだ。鈴乃は釘を刺すようにして、鋭い視線を返した。鶴見は卑屈な笑みを浮かべながら、肩をすくめた。
 部屋は暖房が効いていて、温かい。適温だった。全裸のままでも、何ら問題はない。
「それで?」鈴乃は言った。
「それで、とは?」
 鶴見は、ベッドの上に座り直した。
「でかいネタの話よ」
「ああ」
 鶴見は、視線を逸らした。
「約束したはずよ」
「俺は、今夜十時、このホテルで、と言っただけだ。その代わりに、でかいネタ≠君にやる、とは一言も言っていない」
 鈴乃は記憶を探って、頷いた。
「今、はやりのザ・“玉虫色の解釈”というやつね」
「約束は、成立していない」鶴見は、にやりと笑った。「楽しかったよ、君とのセックスは」
「お褒めの言葉を頂いて、あたしはそれで満足するしかないわけね」
「その方が懸命だな」
 音を立てず、床を蹴った。鶴見。その体の上に着地すると同時に、組み敷いていた。両手の自由を奪う。鼻をつまみ、その口にミネラルウォーターのペットボトルを押し込んだ。ごぼごぼ、という音と共に、入りきらなかった水が、鶴見の口から溢れる。鶴見はしきりに首を振った。鈴乃はやめなかった。
「溺れてみる?」水を注ぎ続けた。鶴見の顔が紅潮し、目が、今にも飛び出しそうになっている。「しゃぶり方、分かるでしょ? あたしが散々、やってあげたんだから」
 ペットボトルの水が、半分ほどなくなったところで、鶴見の口を解放した。水を吐き出し、急いで空気を吸い込み、鶴見は鈴乃を睨んだ。
「頭、おかしいんじゃないのか?」
「あたしはあなたに水分補給してあげただけなのに。ひどい言い草だわ」
「この、くそあま」鈴乃が、再びペットボトルを掲げようとした。鶴見が叫んだ。「ストップ! 後悔するぞ」
 鈴乃は首を傾げた。
「なぜ?」
 鶴見はしばらく深呼吸を繰り返した後で、鈴乃に、どけ、と言った。鈴乃は、言われた通りに、鶴見を解放してやった。捕まえようと思えば、いつでも捕まえられる。
 鶴見は水滴を垂らしながら、ベッドの上を這い、テレビの横にあるリモコンを取った。鈴乃は、もう一度、なぜ、と言った。鶴見は答えずに、リモコンを操作して、テレビをつけた。
 数秒、黒い画面が続いた後、男女がセックスしている様子が、テレビに映し出された。鈴乃は目を細めた。
 テレビの画面でセックスをしているのは、鈴乃と鶴見だった。
「後でモザイクを入れれば、正体不明の男とやってる、君の映像ってことになる。あまり、こういうことはしたくないんだが、君が暴力的な手段に訴えるとなると、こいつの出番になる」
 鈴乃は少しの間、画面に見入った後で、言った。
「あら、まあ」



つづく




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ブログ小説 焔-HOMURA-[integral] 第1回から読む

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posted by 城 一 at 04:51| 長編小説 焔-HOMURA-[integral] | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月18日

ブログ小説 焔-HOMURA-[integral] 第42回

 安物のベッドが軋む音、激しい二人の息遣い、汗で光る二色の肌。
 鈴乃は全裸のまま、腕組みをした。自分と鶴見のセックスが、モザイクもなく映し出されるテレビの画面に、見入っていた。
 少しして、鈴乃は呟いた。
「ふむ」
「ふむ?」
 性行為に乱れる、自分自身の姿。本来ならば、そんなものを見せられれば、取り乱し、冷静でいられるはずがないのだ。それが、鈴乃は平然と、しかも目を逸らすどころか、その姿を目に焼きつけるかのように見ている。鶴見は、唖然としていた。
「自分の技術に見とれていたの」鈴乃は頷いた。「プロ級ね」
「自画自賛っていうのは、少々いただけないが、まあ、確かにそうだな。君のテクニックはプロ級だったよ」
「どういたしまして」
「嫌がるものと思っていたよ、俺はてっきり」
「こういう風に、自分のセックスを客観的に見る機会なんて、そうそうないもの」
「まるで、今までに何度か、自分のセックスを客観的に見る機会があったような言い方だな」
「そうね」鈴乃は言った。「少なくとも、今回が初めてじゃないことだけは確かだわ」
「君には色々と、驚かされるな」
 鶴見は、ミネラルウォーターで濡れた自分の顔を、手のひらで拭った。
「システマティックな感じのする、やり口だわ。こういうこと、何度もやってるの?」
「どうかな」鶴見は鈴乃が見ていないのも気にせず、肩をすくめた。「君に、関係あるのかい、それが?」
「ないわね」
「それで?」鶴見の表情には、余裕が戻ってきていた。「さっきの俺の要求は、どうするんだ?」
 鈴乃は、鶴見を振り返らずに言った。
「要求?」
「第二ラウンドの件のことだ」
「ああ、あれね」
 鈴乃はくるりと体の向きを変えた。壁の方。ビデオは一つの視点から撮影されている。想像力を働かせれば、自ずとカメラの位置は見えてくる。
 鈴乃は、壁にかけられている、額に入った油絵に目を止めた。
 夜闇に沈む、カナジョウ市とヤマツ市を描いたものだった。黒色の濃淡で表現された、建物たち。それを彩る、多色の人工的な光。色の種類は、虹のそれをはるかに上回っている。
 鈴乃は、指先でその絵を撫でた。不自然な場所があった。
「話、聞いてるのか?」
「聞いてないわ」
 鈴乃は、油絵を壁から取り払った。
 小型のCCDカメラ。絵の跡が白く、四角く残る壁に、半ば埋め込まれた状態で設置されていた。油絵の方にはもちろん、カメラに合わせて、穴が開けられていた。
「なるほどね」鈴乃は言った。
 掌底を打つようにして、指先で壁を穿った。カメラを掴み、力任せに、引く。カメラは簡単に壁から出てきた。見た目はあっさりとしたものだった。無線方式のカメラだ。鈴乃は、壁に開いた穴を覗き込んだ。カメラ以外には、何もない。
「乱暴な女だな。高くつくぜ」
 鈴乃は、テレビを見た。鶴見とのセックスの映像は、まだ流れ続けている。どこかで、映像を受け取り、操作している。鶴見を見た。
「何だ?」
 鈴乃は軽く、首を振った。怪訝な表情をする鶴見。その顔目がけて、手中にあったカメラを投げつけた。見事、顔面の中央で、カメラは鼻を捉えた。
「てめえっ!」
 鶴見の怒声。鈴乃は背中で聞いた。ドアを開け、廊下に飛び出していた。
 一組のカップルがいた。二人とも、目を丸くしていた。当たり前だ。鈴乃は、未だ服を、一枚もまとっていない。男の方が、何か言った。気にしなかった。走り、ドアで隔てられた階段室に入った。
 コンクリート製の折れ階段。鈴乃は、飛ぶように降りた。階段にはろくに足をつけず、壁を走り、手すりでステップを踏む。壁で、白色蛍光灯が不機嫌に点滅していた。
 一呼吸。かかったのは、それだけだった。鈴乃は、一階ロビーに転がり出た。
 受付のカウンターを見る。いるのは、先ほど鈴乃を案内した男とは、別の人間だった。他に、数人の客。全ての人間の視線が、鈴乃に集中していた。
 駆け、飛んだ。背面飛び。一瞬後には、カウンターの向こう側にいた。受付の男が、鈴乃の肩に手をかけようとした。かわし、股間を蹴り上げた。
 奥のスタッフルームに続くドアを開けた。
 六畳ほどの小さな部屋。ロッカーが数個に、白い長方形のテーブルが一つ。スチール製の机が、壁際に設置されていた。その上には、デスクトップ型のパソコンが置かれていた。机と対になった椅子に、男が座っていた。鶴見の部屋に鈴乃を案内した、受付の男だった。鈴乃の姿を見て、硬直していた。その理由が、鈴乃が一糸まとわぬ姿だったからなのか、鶴見と一緒にいるはずの人間が自分の目の前にいるからなのかは、分からなかった。男の手の中で、ディスクが、さも意味ありげに輝いていた。パソコンの画面では、鈴乃と鶴見のセックスの映像が流れている。鈴乃が二〇三号室のテレビで見ていたのと、同じものだ。
「あんた」
「ちょうだい」鈴乃は、男に向かって手を差し出した。「そのディスク、あたしに」
「こいつは」
「焼いたんでしょ? 今、パソコンに流れてるやつ」
 男はぽかんと口を開けたまま、言われた通り、鈴乃にディスクを差し出そうとした。鈴乃は言った。
「馬鹿ね。裸で嬉しいのは、女だけでしょ?」
 あ、そっか。男は間抜けにも呟き、ディスクをCDケースに入れて、鈴乃に渡した。ありがとう。鈴乃は言った。瞬間、回し蹴りで男のこめかみを打った。男はパソコンの画面に頭をぶつけてから、床に昏倒した。
 一足遅れて、ドアが開いた。スラックスにワイシャツを着た、鶴見がいた。鈴乃が、ディスクの入ったCDケースを持っていることに気がつく。
「どうするつもりだ、そいつを」
「持ってるだけよ」鈴乃はケースを、ひらひらと揺らしながら、言った。「でも、まあ。あなたがあんまり面倒なことを言うと、コピーして適当な人間に流すけどね」
「自分のやってる姿が、人に見られるんだぞ」
「あたしも」鈴乃は意地悪そうな笑みを浮かべ、鶴見を見た。「そして、あなたもね」
「本気じゃ、ないんだろ」
「本気じゃない言葉が、意味を成す場面なの? 今?」
「平気なのか。君は」
「さっき、言ったわよ。自分のセックスを客観的に見るのは、初めてじゃないって」鈴乃はそう言って、微笑んだ。「カナジョウ市在住、スズノちゃん、十九歳、だったかな?」
「馬鹿な」
「嘘。AVに出たことのある女を見るのなんて、初めてじゃないでしょう? 驚き過ぎよ」
「しかし」
「さ、どうするの? あたしはさほど、気にならない。あたしのセックスをネタに、どこかで見知らぬ男が、ティッシュと自分の“モノ”を弄んでいようと。ただし、他の意味でもこのディスクはネタになるけどね。困ったわね、刑事さん。自分のセックスする姿が街に出回ってしまったら、威厳もくそもないわね。そんな状態で、できる? 刑事のお仕事が」
 スラックスの片側のポケットが、銃で膨らんでいるのは、最初から気づいていた。鶴見がそこに手を突っ込んだ。
 鶴見が銃を構えたときにはもう、鈴乃はその懐に飛び込んでいた。手のひらで、銃身を包み込む。鶴見には、鈴乃の動きが目視できなかったようだ。こめかみから、汗が伝った。
「対応が安易だわ。底が知れるわよ、ミスタ・悪徳刑事」
 鶴見は、諦めた。鈴乃が銃を取り上げることに、全く抵抗しなかった。だらりと両手を脇に下げ、溜め息をつく。
「何が望みだ」
「“でかいネタ”は、本当にないのね?」
「ああ」
「でも、探すことはできるわね?」
「俺のセックスする映像が街に出回って、俺の権威が失墜しなければ」
「ベニヤ板でできた、はりぼての権威でも」
「ベニヤ板でできた、はりぼての権威でも」鶴見は鈴乃の言葉を繰り返した。「失墜しないよりは、ましだ」
「では、そのように」
「どのように?」
「あなたは、あたしのために、羽継正智の死に関するネタを集める。大小関係なく」
「ああ、分かった」
「いい子ね」鈴乃は、鶴見の耳に息を吹きかけた。
「ディスク、返してくれ」
「駄目よ」
鈴乃は言って、ドアへ向かった。が、一歩進んだ所でもう一度、鶴見に向き直った。
「気が変わったかい?」
「ええ」
 鈴乃は、手にした銃の底で、鶴見の股間を殴り上げた。
 鶴見は息を呑み、股間を押さえながら、その場に膝を突いた。食いしばった歯の隙間から、呻き声を漏らす。
「言い忘れてたわ」鈴乃は言った。「これからは、火遊びする相手は慎重に選ぶことね」
 額を脂汗で光らせながら、鶴見はかすれた声で言った。
「金輪際、やめろ、とは言わないんだな」
「言葉で変われば、苦労しないわよ。人の性は」
 鈴乃はそう言って、部屋を出た。ドアの閉まる音と、鶴見が床に倒れる音が、重なった。



つづく




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ブログ小説 焔-HOMURA-[integral] 第1回から読む

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posted by 城 一 at 01:20| 長編小説 焔-HOMURA-[integral] | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月19日

ブログ小説 焔-HOMURA-[integral] 第43回

 二〇三号室に戻った。
 ロビーに行ったときと同様、すれ違う者たちの視線が刺さってきたが、気にしなかった。ゆっくりと歩いて戻った。
 鈴乃は、ハンドバッグから煙草の箱を出し、ベッドに倒れ込んだ。箱を開け、煙草を取り出そうとして、やめた。代わりに、口紅を手に取った。そして、備えつけの電話を手に取った。
 冷蔵庫に入っていた缶ビールを、あるだけ、全て空けた。さすがに、酔った。
 うっすらと睡魔が訪れかけた頃、部屋のドアがノックされた。鈴乃は、ベッドに寝そべったまま、鍵は開いてる、と言った。
 シドだった。電話で、迎えに呼んだのだ。自分の車でホテルに来てはいたが、酔いを理由に。
 シドはキルティング加工の施された、鮮やかなブルーのダウンジャケットを着ていた。前を開いていて、中にはTシャツしか着ていないのが分かる。黒いジーパン。サイドゴアブーツ。
 シドは、部屋に入って来るなり、鈴乃の姿をベッドに認め、呆れたように目を細めた。ジャケットのポケットに両手を突っ込んだまま、壁に背を寄せ、視線を外す。
「何のつもりだ」シドが言った。
「何が?」
「それだ」
「それ、じゃ分からないわ」
 視線を逸らしたまま、シドは鈴乃の方を指差した。
「そのふざけた格好だ。服を着ろ」
 鈴乃は、全裸のままで、ベッドに寝そべっていた。そしてその体に、口紅で線を描いていた。珊瑚色の蛇が、鈴乃の体を愛撫するかの如く、這い回っているような。そんな姿をイメージした、線だ。
「こういうの、嫌いなの?」
「そういう問題じゃねえ」
「じゃあ」
「いいから、服を着ろ。くそったれ」
 シドが、平静を装うと、懸命になっているのが、鈴乃には手に取るように分かった。それが、おかしくてたまらない。
「コート、取ってくれる?」
 鈴乃が着てきた黒いコートは、シドの足下にあった。シドはそれを拾い、部屋の中を見回した。
「これだけか?」
「服? まあ、下着とかがあるけど、つけようがつけまいが、大差ない気がするわ」
 シドは、そっと歩み寄ってきて、鈴乃の体に、コートをかけた。
 鈴乃はコートを一瞥した。そして、シドを見る。ベッドから立ち上がり、コートには目もくれず、シドとの距離を詰めた。シドが、舌打ちした。
「何なんだ、くそが」
「着せて」
「何を」
「コート、よ」
「馬鹿言え」
 鈴乃は黙って、シドを見つめ続けた。シドはもう、その場から一歩も動けないはずなのに、そこからさらに後退しているような気が、鈴乃はした。
 シドが悪態をついた。早足でベッドへ行き、コートを拾ってくる。
「後ろを向け」
 鈴乃は言われた通りにした。笑いをこらえるのが、難しい。いくら押さえようとしても、口許が緩む。
 シドがコートを着せてくれるのに、鈴乃は全く協力しなかった。脱力し、自らは全く動かないようにした。
「でかいネタの話は、どうだったんだ?」
 気まずい沈黙が続きそうなのを、シドが防いだ。
「空振りだったわ」
「気安く言うな」
「言い直した方がいかしら。もっと、シリアスな言葉に?」
「結構だ」
 シドはさらに、ぶつぶつと文句を言いながらも、何とか、鈴乃の両腕を、コートの袖に通した。
「気になるなら、そこの机に乗ってるもの、見たら?」鈴乃は言った。机の上には、鶴見とのセックスが録画された、ディスクが置いてある。「CDかDVDかは、分からないけど」
「何だ?」
「カナジョウ市在住、二十四歳、カザギワの女殺し屋、飛猫の、無修正ポルノ・ムービー」
「撮られたのか。奴に」シドの語気が荒くなった。
「アー・ハ」
 サイドゴアブーツが、不機嫌に床で音を立てた。鈴乃が振り返ると、シドが半ば駆けるようにして、部屋のドアへ向かっていた。
「ちょっと、どこ行くの」
「決まってる。鶴見を探しに」
「馬鹿ね。その問題はもう、解決したわよ」
 シドが足を止め、鈴乃を見た。
「殺したのか?」
「まさか。もっと、波風の立たない、平和的な解決方法を取ったのよ」
「そうか」シドは、安堵の溜め息を漏らした。
 鈴乃はシドに歩み寄った。コートの前側は、まだ閉まっていない。両乳房の内側、へそ、局部は未だ、露わになったままだ。
「前を閉めろ」
「やって」
「いい加減に」
 シドは言いかけて、諦めた。鈴乃が、徹底的にシドをからかうつもりなのを、悟ったのだろう。対抗策として、平然と全てをこなすつもりに、違いなかった。
 鈴乃は両手で、シドのジーパンを撫でた。膝、太腿。ジャケットの下に潜って、腹。
「さっきから、何をしたいんだ、あんた」
「脂っこいものを食べた後は、さっぱりしたものが食べたくなるでしょう?」
 シドは鼻を鳴らした。
「デザートか、俺は」
「どんな味がするのかしら」
「あいにく、俺は見た目ほど、さっぱりしてないんだ」
「それは、どういう意味なの?」
「デザートにも、食べられる人間を選ぶ権利があるって意味だ」
 鈴乃は、手のひらを腹の辺りから、下げた。
「道化ね。体は違う反応を示していること、分かっているくせに、嘘をやめない」
「ああ。俺はやめない」
「あたしのこと、抱きたくないの」
「抱きたいさ。いい女は、皆、抱きたい」
「一般論にすり替えようとしてるわね。鶴見の後だというのが、気になるの?」
「馬鹿言え」
「じゃあ、どうしてかしら」
「俺は、ロマンティストなのさ」
 鈴乃は笑った。
「我慢は、体に悪いわよ」
「ロマンティストはときに、健康よりも、意地を優先させるのさ」
「馬鹿ね」
「馬鹿で結構」シドは言った。「これ以上ごねるなら、置いていくぞ。運転手が欲しいから、俺を呼んだんだろう?」
「自動車限定の運転手を呼んだつもりじゃなかったんだけど」
 シドは口端を上げた。
「見込み違いだったな。ミス・ふしだら」
「本当にね。ミスタ・ロマンティスト」



つづく




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2007年02月21日

ブログ小説 焔-HOMURA-[integral] 第44回

 コルベットの助手席に乗り込む頃、酔いはさらに深みを増していた。
 シートに体を預け、脱力する。いや、今はむしろ、神経を集中させなければ、体のどこにも力を入れることができなかった。
 愛車の助手席。自分で乗ったのは、初めてかもしれない。鈴乃は思った。誰かに、運転させるのも。
 しかし、だから? 鈴乃は、シドの横顔を見ながら、そのことに意味を見つけようとする自分に、ブレーキをかけた。
 シドは、コルベットを発進させた。凶暴なほどのエンジンの咆哮と、加速。
 それは、何でもないカーブだった。シドがハンドルを握ってから、初めてのカーブ。
 他の車を尻目に進入したとき、シドが、ハンドルを握る手に、力を込めたのが分かった。
 後輪が、滑った。ドリフト。意図したものではない。鈴乃には、分かった。シドの顔に緊張が走る。目まぐるしく動く視線。獲物を狙う肉食獣のように、シフトレバーとハンドルの上で、一瞬の機をうかがい、息を潜める両の手。
 カーブの中腹を過ぎた辺りで、全てが閃くように動いた。鈴乃は内心、呻いた。ブレーキ、アクセル、ギアチェンジ、ハンドリング。カーブを脱出するときのそれらは、全てが、最良のタイミングで絡み合っていた。
 コルベットは、一度真横になった車体を、かろうじてだが、進行方向へ向かって真っ直ぐに修正した。
 シドが、安堵の溜め息をついた。
「怖い車だな、こいつは。馬力は?」
「四百オーバー」聞いて、シドが口笛を吹く。「所詮、機械よ。パターンを掴めば、楽勝でしょ」
「パターン、ね。あんたのは、分からんな」
「大した馬力じゃないんだけれどね。人間だもの」
「人間にだって、パターンはあるさ」
「たとえば?」
「心臓の鼓動、無意識のうちにやっちまう癖、好きな食い物、飲み物。煙草」
 鈴乃は、ひんやりとした窓に頭を寄せながら、シドを見た。
「実際に、触れてみないからよ」
「臆病な性質でね。ある程度、パターンが読めないと、触れる気にゃならないのさ」
「それじゃ、平行線のままだわ」
「残念なことだな」
 シドが、鈴乃の自宅のある場所を尋ねてきた。鈴乃は少しの間、考えた。そして、シドの知りたがっていることとは、別のことを教えた。今は、家よりも行きたい場所があった。
 鈴乃は、窓の外で、自由に思考を転がし、弄んでいた。シドが、何か言った。聞き逃した。鈴乃は聞き返した。
「空の具合だ。どうだ?」
「あたしの頭の具合と、同じよ」
「それじゃ分からねえよ」
「曇ってるわ」
「曇ってるのか?」
「どんよりした、グレイの雲でね。空が見える所もあるけど」
「あんたの頭だ」
「あたしの頭は、缶ビール六本分の、酔いで」
 シドが、鼻で嘲笑した。
「酔わなきゃやれないことなんか、最初からやらなきゃいいんだ」
 水滴で曇った窓ガラス。鈴乃は思いのままに、指を走らせた。
「鶴見のことね」
「それ以外に、何があるのか聞きたいな」
「全く持って、しつこい男ね、あんたって。飲んだのは、鶴見とやった後よ」
「だから」シドは言った。少しだけ、苛立たしげだった。ほんの少しだけ。「飲まなきゃやってられなかったんだろ」
「あんたとね」
 シドが顔をしかめて、鈴乃を見た。鈴乃は前を見て、赤信号を告げた。シドは慌ててブレーキを踏んだ。
 シドは視線を前方に向け直して、言った。
「俺といるのに、アルコールが必要なのか?」
「ええ」
「なぜ?」
「知らない」
「だったら、俺のことなんか、呼ばなきゃよかったんだ。あんたが何となく、俺のことを疎ましく思ってんのは、分かってんだ」
「アルコールを必要とすることが、常にネガティブな意味を持つとは限らないわよ」
「そいつは、嬉しい知らせだな」
「少し、仮定を重ねる話になるけど」鈴乃は言った。「どうして、あたしがあんたのことを疎ましく思ってると思うんなら、こうやってのこのこお迎えに上がるのかしら?」
 シドは、ダウンジャケットのポケットから、煙草のパッケージを取り出した。指先で軽く叩いて、煙草を一本だけ取り出す。火をつける。
「星、見えないんだな」
「あまり、好ましくない話題らしいわね」
 信号が青に変わる。シドは再び、コルベットを走らせ始めた。
「おおぐま座、知ってるか?」
「いいえ」
「北斗七星の尻尾生やした、でかい星座だ。ゼウスって神様がな、ヘラってかみさんがいるのに、カストロって女と浮気しちまったんだと」
 鈴乃は首を傾げた。
「ギリシャ神話はちょっと知ってる。でも、あたしが知ってる名前の中には、カリストって名前しかないけど」
「ああ」煙草の煙を吹かしながら、シドは言った。「そうだ。カリストだ」
「格好つかないわね」
「かみさんのヘラって奴は怒って、そのカリストっていい女を、熊にしちまった。カリストは、熊になる前に子供を産んでて、アルカスって名前をつけられた息子は、月日が経つうちに、まあ立派な青年に成長した。で、アルカスが狩りをしてるときに、熊になったおふくろのカリストに会った。言葉は通じないから、アルカスは、目の前の熊が実のおふくろってことは分からねえ。アルカスは、カリストを弓矢で射殺そうとした。ゼウスのおっさんが、気をきかせて、二人をお空に上げて、殺し合わないようにした」
 鈴乃は、自分でも気づかないうちに、窓ガラスに北斗七星を描いていた。
「それで?」
「ま、本編自体にも色々説があるみたいだが、後日談も種類がある。おふくろのカリストはおおぐま座、そのがきのアルカスはこぐま座で、おふくろは息子を見守るように、その周りをくるくる回ってるってのが一つ。別のは、ヘラってゼウスのかみさんは、二人がお空に上ってもまだ怒ってて、そのために、二つの星座がずっと沈むことがないようにした、ってのがもう一つ」
「どっちでも、一応理屈は合ってるわね」
「俺の妹、後日談の後の方のエピソードが大嫌いでな。大きくなったら、絶対に最初の方の話が正しいってこと、証明してやるって言ってた」
「妹」
「この話が、どこに落ち着くか」シドは言った。「あんたが、妹に似てる気がするってところに落ち着くのさ。発酵するほど、予定調和な落ち着き方で悪いが」
「いくつくらい、年、離れてたの」
「十、かな」
「そう。あたし、よく童顔って言われるの」
「そういうこと言ってるんじゃねえよ」
「体に口紅塗ったくって、情報のためなら男と寝るのもいとわないような女だった?」
 シドは小さく溜め息をついた。
「この話をした、俺が馬鹿だったよ」
「そんなことないわよ、お兄ちゃん」
 シドは鈴乃を一瞥して、舌打ちをした。緩いカーブ。コルベットのタイヤがわずかに、高く鳴いた。



つづく




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2007年02月22日

ブログ小説 焔-HOMURA-[integral] 第45回

「止めて」
 鈴乃の言葉に、シドはコルベットを止めた。
 黒く塗られたタイル張りの建物。その前だった。街灯の明かりを受けて、その建物は無機質な輝きを放っている。入口は、人一人分の人生を超えていたであろうことが容易に推測できる、古めかしく、重々しい木製の自在戸。その鈍重な雰囲気を抑制するどころか、助長させている、錆びた鉄製の取っ手。名称どころか、その建物がどういう意図でそこに建てられたのか推測するためのヒントを示すものさえ、なかった。
 強迫観念に駆られているのではないかと思うほど、ネオンサインや多種多様の電球で自らを飾る、周囲の建物に比べ、そこは不気味でさえあった。
 鈴乃はこうして、ときおり、知り合いの男をここに連れてくる。ゴキブリ。鈴乃が案内したこの建物を、そう称した男もいた。さすがにその呼称をそのまま、甘受することはできないが、かと言って、頑として否定することもできない。そんな建物だった。
「ここが、あんたの家なのか?」
 建物を見上げながら、シドが言った。
 そうであるはずがなかった。窓もない、平屋。生活空間として利用するには、あまりにも重苦しい雰囲気を放っている。もし、鈴乃が何も知らずに、この建物を見たなら、囚人を収容する施設。そう推測するだろう。
 鈴乃は何も言わずに、ドアを押した。
 焦げ茶と黒色の、市松模様にタイルが敷かれた床。同系統の茶色で塗られた天井。短めのカウンター、黒いスツール。奥に、テーブル席が三つ。
 カウンターの向こう側には、所狭しと酒の並ぶ棚があった。そして、バーテンダー。
 店の名前は、<テレサ>と言った。しかし、店の名前を示すものは、店内にも全く存在しない。常連にならなければ、名前を知ることもできないバーだった。
 鈴乃はカウンターについた。客は誰もいなかった。隣のスツールを、ぽん、と叩く。
「座って」
「どういうことなんだ、こいつは?」
 ようやく建物がバーであることを把握したシドが、店の入口で、腰に手を当てながら、言った。
「そういうことよ」
「アルコールで脳細胞を殺し過ぎて、自分の家のある場所も忘れちまうような状態だ、と」
「飲みたい気分だってことよ」鈴乃は言った。「いいから、座って」
 バーテンダーが言った。
「注文は?」
 中年の女バーテンダー。名前は、大貫志津子(おおぬき しづこ)。白いシャツに、黒いパンツ。柔和な目つきをしていた。薄い唇。ほとんど化粧を施していない。灰色がかった金髪を、クルーカットにしていた。胸のふくらみがなければ、男と言っても通じるだろう。黒縁の眼鏡をかけていた。伊達だ。
「いつもの」鈴乃は言った。「ソルティ・ドッグ・コリンズ」
 志津子は、シドを見た。
 シドは、スツールに座った後も、落ち着きなく、店内を見回していた。
「気取った店は、苦手だ」
「バーって呼ばれる他の店と比べれば、そう気取ってもいないんだけどね」
 志津子は言った。鈴乃は頬杖を突きながら、シドの様子を楽しんでいた。
「星の話はできるくせにね」鈴乃は言った。「ねえ、注文は?」
 シドは志津子を見ながら、鈴乃の方に向けて、首を傾げた。
「こいつと同じもの」言いかけて、シドは自分で眉をしかめた。「いや。やっぱり、アルコールの入ってないやつを」
「ウーロン、コーラ、ソーダ、各種フルーツジュース?」志津子が言う。
「ウーロン茶」
 志津子は頷き、仕事を始めた。
「つき合い、悪いわね」
「車を運転させてるのは、あんただぜ」
「ここから歩いて十五分もかからないわよ。あたしの家。車も、この人が預かってくれるし」
 鈴乃は、志津子を見ながら言った。
「バーテン」シドは言った。「やっぱり、こいつと同じものを」
「オーケイ」
志津子は、グラスの半ばまで注いだウーロン茶を、シンクに捨てて微笑んだ。少し、皮肉がこもっていた。
シェーカーを振り始める。ソルティ・ドッグ・コリンズ。ソルティ・ドッグの元となったカクテルだ。ジンに、ライムジュース、塩一つまみを入れる。グラスに注ぐだけで作るソルティ・ドッグに対して、コリンズはシェークしなければならない。
集中し始めたことを示す、無表情な顔で、志津子は言った。
「で? 隣の彼女とはもう、やったの?」
 その心情を示すように、カウンターをひっきりなしに指でこつこつと叩いていたシドが、リズムを刻むのをやめ、志津子を見た。
「そんな質問は、頼んでないな」
「サービスよ」
 鈴乃は、シェーカーを振る志津子の手元を眺めながら、言った。
「愛情の裏返しよ」
「誰の、誰への」訝しげな表情で、シドが言う。
「バーテンダーのこの人の、あたしへの」鈴乃は言った。「レズビアンなのよ、彼女」
 志津子の表情は動かない。シェーカーだけが、音を立て続ける。
「カミングアウトの代行を頼んだ覚えはないけど?」
「サービスよ」
 鈴乃は口許に笑みを浮かべながら、言った。
「それで? あたしのサービスが、宙に浮いたままだけど?」志津子が言った。
 シドは、カウンターを照らす、乳白色のプラスチック製の傘のコード・ペンダントを見た。とぼけた口調で言う。
「どの辺だ?」
 鈴乃が代わりに答えた。
「まだよ。残念ながら」
「珍しいこともあるもんだ」志津子は言った。シドを見る。「あんた、ゲイなのかい?」
「短絡的な発想だな」
「じゃあ、何なんだい?」
「ロマンティスト」
 志津子は鼻を鳴らした。鈴乃は肩をすくめた。
「デザートにも、食べられる相手を選ぶ権利があるそうよ」
 志津子は、完成したソルティ・ドッグ・コリンズをグラスに注ぎ、鈴乃とシドの前に並べた。
「安心して。うちのカクテルには、飲まれる相手を選ぶ権利は、与えてないから」
「よかった。同じ夜に、二度も振られるなんて、とても耐えられないもの」鈴乃は言って、シドに向かってグラスを掲げた。「チアーズ!」
 シドは訝しげな表情を変えないまま、それに応じた。
「チアーズ」



つづく




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posted by 城 一 at 00:27| 長編小説 焔-HOMURA-[integral] | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月24日

ブログ小説 焔-HOMURA-[integral] 第46回

 鈴乃は、スクリュードライバーを一気に飲み干した。
 どれくらい飲んだか、もう覚えてはいない。ただ、確実に、酔いは深く、口は軽くなっていた。
「で? 話を巻き戻すけど」鈴乃は言った。「あたしのどこが、あんたの妹に似てるって?」
「何の話だい?」
 自然と、志津子も話に加わってくる。彼女の顔も、アルコールで赤みを帯びていた。途中で志津子も、飲み始めたのだ。カウンターの上、バーテンダーの立つ側には、ビールの缶が置いてあった。
 鈴乃は、シドの肩を小突いた。
「この男が、シスコンだって話よ。年、いくつ離れてるんだっけ?」
 シドは、鈴乃とは反対に、飲むほどに無口になっていた。彼の前には今、ウイスキーの水割りが置かれている。シドは自分のグラスを見つめたまま、言った。
「十。もしかすると、もう少し離れてるかもしれない。ちょっと、記憶が曖昧だな」
「そう。じゃあ、ロリコンも当てはまるわね」
 鈴乃は言って、志津子と笑い合った。シドがスツールを立った。鈴乃は言った。
「何、怒ったの?」
「便所だ」
 シドはそう言って、店の奥にあるトイレへと向かっていった。
「あんまり、好ましくない話題みたいだね」志津子が言った。
「アルコールだけじゃ、駄目みたいね。ねえ、志津子。もっと口の軽くなるクスリ、ちょうだいよ」
<テレサ>では、微量だがドラッグも置いていた。
 志津子は頷いて、カウンターの下から、ピルケースを出した。中から、オレンジ色の錠剤を取り出す。“プレシャス”と呼ばれる麻薬だった。いくつかの種類の麻薬を合成して作られたものだ。他のドラッグに比べて、効果は弱かった。この麻薬の摂取が理由で死に至った人間を、まだ鈴乃は知らない。もちろん、鈴乃が知らないだけかもしれないが。
 鈴乃はその錠剤を、志津子が新しく自分に作ったソルティ・ドッグ・コリンズと、シドの水割りの中に落とした。マドラーでかき混ぜる。錠剤はすぐに溶けてなくなった。
 シドが、トイレから帰ってきた。
 鈴乃と志津子は含み笑いを浮かべながら、シドがスツールにつき、水割りの入ったグラスを取るのを眺めていた。
「何だ?」
「別に」鈴乃は言った。「何でもないわ」
 シドは水割りを一口飲み、グラスを置いた。舌打ちをする。
「何か、入れたな」シドは志津子を一瞥した後、鈴乃を見た。「あんただな」
 鈴乃はくっくっと笑いながら、手のひらの中にあった、プレシャスをシドに見せた。
「そんなに鼻がいいとは、知らなかったわ」
「ヤクだな」
「まあ、ドラッグと言えばドラッグだけど。でも、最近の若い奴らには見向きもされないのよ、これ。プレシャスって言うんだけど。効きが弱過ぎて。で、そのくせ値段は高いからね。でも、安心して。その分、安全だから。グラスいっぱいくらいの量を飲まないと、ぶっ飛ばないわ」
「何が安心だ。くそが」
 シドはまた、スツールから立った。
「どこ行くの。飲みなさいよ、それ。そして、妹ののろけ話、聞かせてよ」
 少しの間、シドは黙って立っていた。スツールを立ったものの、そこから離れることはせず、カウンターの上を、指でせわしなく叩いていた。
 指で刻むリズムが止まった。シドは、首を左右に倒した。ばきばき、と骨が鳴る音がした。グラスを掴む。そして、壁に投げつけた。派手な音がして、破片が散る。ウイスキーが壁を濡らす。
「俺に、命令するな」
 シドはスツールを離れ、出口へと向かっていった。
鈴乃はシドを追った。出口付近には、煙草の自動販売機があった。その光が、シドの横半分を白く照らす。
 鈴乃はシドの肩に手をかけた。振り払われる。もう一度、かけ、払われた。腕。掴み、爪を立てた。シドがこちらを向いた。鈴乃は口を開こうとしたが、できなかった。コートの襟を掴み上げられた。シドの目に火がともっていた。鈴乃は、背筋に悪寒が走るのを感じた。足下のバランスが崩れた。シドが、襟を掴む手に力を込めたのだ。アルコールで、鈴乃の体のコントロールが怪しくなっているせいもあった。
 鈴乃は、自動販売機に叩きつけられた。
「ヤクのせいで、うちのおふくろと妹は死んだ」
 食いしばった歯の間から、漏らすようにして、シドが言った。
「どうして」
「どうして? 言ったところで、そのドラッグと酒でぼやけた頭で、覚えてられるのか? 俺の話を?」
「覚えていられるわ」鈴乃は言った。「どうして?」
 シドは鼻を鳴らした。鈴乃を自動販売機に押しつけるようにして、襟から手を離す。
「悪いが、あんたみたいな奴には聞かせたくないね。俺の家族が、汚れちまう気がする」
 シドは出口のドアに手をかけた。重い木製のドアが、外の世界へ通じる隙間を作る。
「待って」
 シドが鈴乃に背を向けたまま、言った。
「あんたが、妹に似てる気がする。俺はそう言ったな」
「言ったわ」
「どこが似てるのか。目だ。妹はもちろん、あんたみたいに殺し屋でもなけりゃ、誰とでも寝えるような娘でもなかった。だいたいからして、そういう年じゃなかったしな。だが、目だけはそっくりだった。あんたの目を見てると、妹を前にしてるような。そんな気がしてた」シドが自嘲するように笑う声が聞こえた。「だが、どうやら気のせいだったみたいだな。俺の妹の目は、ヤクで濁っちゃいなかったからな」
「気づかなかっただけかもしれないわよ」鈴乃は、自分でも無意識のうちに憎まれ口を叩いていた。「ヤクが見た目に表れるなんて」
「言うな」シドが言った。「それ以上、言うな」
 シドは、ドアを開けて店を出て行った。
 沈黙が生まれそうになる寸前で、志津子がわざとらしく大きな声で言った。
「あーあ、店の中が滅茶苦茶だよ。全く」
 カウンターの向こうから出て、志津子は掃除を始めようとした。鈴乃はそれを止め、元の場所に戻らせた。プレシャスの溶けた、自分のソルティ・ドッグ・コリンズを、少しの間、見つめていた。プレシャスが溶けたためなのか、グラスの底から小さな泡が上ってきた。鈴乃はそれを飲み干し、志津子におかわりを告げた。志津子は何か言いたそうな表情をしていた。鈴乃は語気を強くして、おかわり、と言った。志津子は肩をすくめ、鈴乃の言葉に従った。
 そこから飲んだ酒の数も、鈴乃は数えていない。ただ、プレシャスを溶かしたのは、一度だけで、それからはそのままのカクテルを飲み続けた。そのうちに、志津子は酒を出すのを渋り始めた。鈴乃は強引に志津子に出させ続けた。志津子が出さなければ、自分で行って、棚から出して飲むだけだ。そう言った。
 そのうちにまた、志津子が酒を止めた。鈴乃はそのとき、グラスを一つ割ったのを覚えている。シドがやったのと同じように、壁に叩きつけて。気分は晴れなかった。志津子も、陰鬱な表情を浮かべていた。無理やりに、カウンターの向こう側に押し入って、酒を飲もうとした。できなかった。志津子に力負けするほど、鈴乃は酔っていた。
 志津子は、自分の家で鈴乃を介抱しようとした。鈴乃は、そんなことを言って、本当は自分とセックスがしたいだけなのだろう、と言った。志津子は傷ついた表情を浮かべていた。それ以上、志津子は鈴乃に関わろうとしなかった。
 飲み足りなかった。
 街を歩き、何軒か、酒を出す店をはしごした。客の状態に構わず、酒を出す店など、山ほど知っていた。店のはしごを始めた辺りから、記憶は怪しくなっている。何人か、男に声をかけられた。珍しいことではなかった。男であれば放っておけないほど、鈴乃は容姿に恵まれていた。声をかけてきた男のうちの一人を、血祭りに上げた。相手の男も泥酔していたのでできたことだった。
 それから?
 鈴乃はもう、それ以上、思い出せない。自分が何をしていたのか。
 目を覚ますと、すっかり夜が明けていた。太陽の強い光が、窓から差していた。
 鈴乃は知らない場所にいた。ベッドの中にいて、裸だった。体には、昨晩口紅で描いた線が、ぼやけつつも、残っている。
 隣には、知らない男がいた。男も全裸だった。いびきがうるさかった。
 フローリングの床の上に、自分のコートを見つけ、鈴乃は急いで身につけた。頭が二日酔いでがんがんした。構わず、玄関へ向かおうとした。
 男が、目を擦りながら、起きた。ベッドを抜け、まるで恋人に触れるように、鈴乃に腕を絡ませてくる。
「昨日は……正確には、今日の早朝か。とてもよかったよ、ベイビ」
「触るな」鈴乃は男の腕を振り払った。
「何だよ。一発やったら、ハイおしまいってか。俺のことなんか、どうでもいい。そういうことか」
「そういうことよ。クズ」
「俺がクズなら」男が、鈴乃の着ているコートの襟を掴んだ。「そのクズに股を開くあんたは何だ。ええ?」
 鈴乃は、自分の襟を掴む男の手を見つめた。シドのことを思い出していた。
「そうね。あたしもクズね」
「そうだろう」男の顔に、下品な笑みが広がる。「それじゃ、クズ同士、もう一発お楽しみといこうぜ」
 男の唇が、鈴乃の耳に寄せられた。
 股間。鈴乃は容赦なく蹴り上げた。男が悶絶する。頭が下がる。つま先を喉に食い込ませた。倒れる途中で、頭を足で捉え、床に叩きつける。
 低い悲鳴を上げ、男は体を丸めた。
 鈴乃はしゃがみ込み、男の顔を覗き込んだ。
「あたしは、あんたに名乗った?」
 男は痛みと恐怖にこらえるのに必死で、鈴乃の言葉に耳を傾ける余裕がなかった。鈴乃は男の耳から、ピアスを一つ引きちぎり、その耳元にもう一度、同じ言葉を囁いた。男は首を振った。
「そう。よかった」
 男は呻くように、呟いた。
「ちくしょう。何なんだよ。何なんだよ、あんた」
「ネコ」鈴乃は言った。「ネコよ」



つづく




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2007年02月25日

ブログ小説 焔-HOMURA-[integral] 第47回

 家に帰るので、精一杯だった。
 眠気が、全身に重たくのしかかっていた。抵抗する術はなかった。家に上がると、コートを脱ぎ、ベッドへ直行した。目をつむると、即座に意識が遠のいた。眠りを待つ必要もなかった。
 それが、昼頃のことだ。目が覚めると、夕方になっていた。カーテンを閉じたままでも、窓の外がオレンジ色の光に溢れていることが容易に分かった。頭痛は解消していなかった。治る気配もない。明日まで引きずりそうだ。長年の経験から、鈴乃はそう思った。
 キッチンでコップに一杯、水を飲んだ。全裸のまま、部屋の中を歩き回っていた。今頃のように、自分の体に、未だ口紅の線が描かれたままだということに気づいた。体が汗に包まれているような感覚にも、耐え難かった。すぐに、鈴乃は浴室へと行った。
 シャワーを浴び、ボディソープで体を磨いた。まるで、そうすることで、二人の男と関係を持ったことが帳消しになるかのように。本当は、そんなことが、あり得ないことは分かっている。が、鈴乃はやめられなかった。肌を強く擦り過ぎて、赤くなった。口紅の線は、所々、不自然に途切れていた。行きずりの関係を持った男に唇を寄せられた場所なのかもしれない。鈴乃はそう思い、その部分をより一層、強く擦った。
 体を洗い、浴室を出た後も、鈴乃は裸のままで部屋の中を歩き回った。誰の目にも触れることはないのだ。服を着る理由がない。水滴がぽたぽたと床に点を打った。
 気になることがあった。鈴乃は電話を取り、警察署にかけた。
 年増の女の声が応じた。鈴乃は、鶴見を出してくれるように、頼んだ。女は、鶴見は今、署内にいない、と言った。連絡先を教えて欲しいと言うと、そういうことはしていない、と答えられた。代わりに、浦口を呼んで欲しい、と頼んだ。が、浦口もいなかった。鈴乃は、鶴見と浦口がコンビを組んでいることを思い出し、当然のことかと納得した。何となく、頭の隅で、鶴見はただ、自分を避けているだけなのではないか、と思ったのだ。
 鶴見が戻ってきたら、連絡をくれるように頼み、自分の携帯電話の番号を教え、鈴乃は電話を切った。
 床に脱ぎ捨てたコートを片づけようと、拾い上げた。ポケットに固いものを布越しに見つけ、鈴乃はそれを取り出した。ディスクだった。鶴見とのセックスが収められたものだ。少しの間、鈴乃はそれを見つめていた。そして、ディスクを割った。そのまま、所有している気になれなかった。鶴見を脅す材料がなくなった形になるが、関係ないような気が、鈴乃はしていた。
 鶴見のあの様子だと、今までに何人もの女を騙している。人を騙して生きている人間は、他人の言葉も信じられない。
 もしかすると、鈴乃がいくらディスクは二つに割って廃棄してしまったと言っても、信じはしないかもしれない。
 何にせよ、わざわざ持っていたくなるような代物ではなかった。ディスクを捨てたために、鶴見を言う通りに動かせなくなったとしても、気にならない。鈴乃は、屑籠に割ったディスクを捨てた。
 二日酔いに痛む頭を抱えて、ベッドに腰かけた。痛みと共に、昨夜のシドの激昂した表情が浮かぶ。鈴乃は舌打ちしながら、枕元に置いた携帯電話を見た。シドからの電話で、今日は未だ鳴っていない。もしかすると、もう二度と鳴ることはないのかもしれない。そう思った。自分が、あの男をどうしたいのか、どうなりたいのか、分からなかった。ただ、他の男とは違う。その思いだけが、頭の片隅を占領している。
 シドに電話をかけようとしたが、携帯電話を手にしたところで、何を話せばいいのか分からないことに気づいた。電話で沈黙を共有したところで、何の意味もない。一時間近く思案した挙句、鈴乃はシドに連絡するのを諦めた。
 代わりに、鶴見からの電話が入った。鈴乃は何をするでもなく、ベッドに横になっていた。着信に応じた。
「あんたから連絡があった、と聞いた」鶴見が言った。「早速、頼みごとか?」
「シドとは、長いの?」
「でかいネタの催促じゃないのか?」
「ネタの大小は、人がそれぞれに決めるものよ」
「シドのことを聞いて、どうするんだ?」
「仕事仲間がどれくらい、信頼に値するかの確認。あなたが、どれくらい役に立つ男なのかの、確認」
「一石二鳥というわけだ。俺が役に立つってことは、既に証明したはずだ。ベッドの中で」
「おかしいわね。あなたとベッドを共にしたのは、一度しかないのに。まさか、そのことについて、これほど見解に差が生まれるとも思えないし」
「女にそんなこと言われたのは、初めてだよ」
「皆、口下手だったのよ。とにかく、ホテル・ジパングのベッドの中でのことの、名誉挽回ができるくらいの実力を、拝見したいわね」
「君は、ベッドの外だと、口が悪過ぎるほど、悪いな」
「それで?」
「シドの過去を知りたいんだな?」
「ええ。特に、彼の家族について」
「そいつは、調べなきゃならん。分かったら、連絡する」
「オーケイ」



つづく




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2007年02月26日

ブログ小説 焔-HOMURA-[integral] 第48回

 眠気は、体にまとわりつくように存在していた。鶴見や浦口からの連絡も来ない。
 鈴乃はベッドに横になった。何度か寝返りを打つうちに、また深い眠りに意識は沈んだ。
 着信音で目が覚めた。
 夜中の二時を過ぎたところだった。相手は、鶴見だった。鈴乃はすぐに、通話ボタンを押した。
「何時だと思ってるのよ」
「ご挨拶だな。寝てたのか。眠たそうな声をしてる」
「時間を見れば分かるでしょう。よい子は眠る時間よ」
「驚いたな。あんた、自分のことをよい子だと思ってるのか?」
「何も、あたしは自分がよい子だとは言ってないわ」鈴乃は言った。「何の用なの。早く言って」
「あんたのお望みの情報が手に入ったって知らせ以外に。何があるんだ?」
「あら。早いのね。仕事熱心で、素敵ね」
「自己保身に必死なだけさ」
「それで?」
「確認したいんだが」鶴見は口ごもりながら言った。「シドの家族のことで、いいんだよな?」
「そう言ったわ」
「どうするんだ? あいつのプライヴェートを調べて」
「自己保身に必死なんじゃなかったの?」
 鶴見は溜め息をつき、そうだったな、と言った。そして、続けた。
「シドの家族は、今は父親である志戸有助(しど ゆうすけ)だけだ。ただ、養父。血縁の家族は、九年前に死亡。母親である川越由里(かわごえ ゆり)が、娘であり、シドの妹でもある里奈(りな)、当時七歳と無理心中を図った。川越由里は、里奈を絞殺。自分は包丁で首を切った。が、由里は一度、病院で一命を取りとめてる」
「一度?」鈴乃は言った。
「由里とシドは、病院で一度会っているが、そのときどんな話をしたのかは、分からん。警察の領域じゃねえ。ただ、川越由里は、シドと会った翌日、病院を脱走。付近のビルから飛び降り、死亡。自殺であることが確認されてる」
 鈴乃は、何も言わなかった。鶴見の言ったことを、頭の中で消化すべく、何度も繰り返し内容を思い出し、映像を想像していた。
「で? これが知りたかったのか?」
「そうよ」鈴乃は言った。「まだ、もう少し聞きたいことがあるわ。シドの母親は、ドラッグを使っていた?」
「何だ。知ってることがあったなら、最初から言えよな。その方が、調べるのは楽になったのに。そうだ。川越由里は、正真正銘のヤク中だった。お好みは、マリファナだったらしいぜ」
「川越由里が里奈を殺したとき、シドはどこにいたの?」
「女とお楽しみ中だったってのが、一番皮肉だがな。違うか、ええ? シドは当時、事件の起きるもっと前から家出中。女の所に転がり込んでいた」
「女、ね」
「ま、ヤク中のおふくろと、ホームドラマを演じるよりは、よかったんじゃないか。俺だって、そっちを選ぶ」
「実の父親は?」
「不明だ。ちなみに、シドと妹の里奈は、異父兄妹の可能性が高い」
「さっき、養父って言ったわよね? ぐれて女の所に転がり込んでる悪がきに、もらい手がついたの?」
「志戸有助は、ツガ組で“玄武”と呼ばれてる男だ。シドは、ぐれ始めてすぐに、ツガ組に出入りするようになった。そこで、玄武に目をかけられた。スカウトって意味でも、養子にしたんだろうな」
「納得」鈴乃は言った。「でも、シドがいるのは白虎なのね?」
「そんな細かいところまでは、知らん。それが玄武の教育方針なんだろうさ」
「そうね」
「それで?」鶴見は言った。「何度もすまないが、気になるもんでね。一応、知り合いのことだからな。どうする気なんだ、このことを聞いて?」
 鈴乃は、頭の中に昨夜のシドの表情を浮かべたまま、答えた。
「それは、これから決めるわ」



つづく




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2007年02月27日

ブログ小説 焔-HOMURA-[integral] 第49回(ver 2.0)

 さらさらさら。ステンレスが、陶器を撫でて、小気味いい音を立てている。
 鈴乃は、ただひたすらに、コーヒーをスプーンでかき混ぜていた。ブラック。ミルクも砂糖も入れていない黒色の液体は、カップの中で延々、回り続けている。
鈴乃に、コーヒーを飲む気は、さらさらなかった。カップの縁に付着した、前にカップを使った誰かの、茶色い唇の跡。嗜好品のはずのコーヒーを、ただの暇潰しの楽器に変えるには、十分だった。
 窓の外は、灰色の曇り空。どんよりとした午後。鈴乃は、カフェにいた。店の名前は、<モリエンテス>。
 白いTシャツ、白いパンツに、腰までの白いエプロンを身につけた、屈強な体つきの男が、ウエイターとして、店内を走り回っていた。スキンヘッド。Tシャツの袖からはみ出た上腕には、タトゥーが彫ってあった。
 カウンターの向こうでは、非常に小柄な女が、肉を、卵を焼き、野菜を炒め、スープを煮、コーヒーを淹れていた。
 約束の時間。ドアのカウベルが鳴った瞬間、鈴乃は落胆した。そして、その自分に呆れた。自嘲せざるを得なかった。自分は一体、何を期待していたというのか。
 店の入口にいたのは、磐井だった。羽継正智の遺体を確認したときに、シドと一緒にいた男だ。ツガ組の構成員。白虎隊の隊員。
 襟にファーのついた、ライダースジャケットを着ていた。黒地。胸、肩から腕にかけて、金色が使われている。ナイロン製の生地で、つやつやとしていた。黒革のパンツ、茶色のブーツ。
 人の声に関する記憶は、当てにならない。鈴乃は思った。
 呼び出しの電話の男の声を、鈴乃はシドだとばかり思っていたのだ。
「すみません」
 磐井は、鈴乃のテーブル、向かい側に腰かけると、すぐに謝った。
「何が? 別に、約束の時間に遅刻したわけでもないわ」
「俺が来たことですよ」磐井は苦笑しながら、言った。「残念そうな顔、してます」
「なぜ」
「シドの兄さんじゃないからでしょう。ここにいるのが」
「それで、あたしが残念そうな顔をしてる? お笑い種だわ」
 鈴乃は声を立てて、笑った。磐井は肩をすくめた。
「目、笑ってませんよ」
「しつこいわね」
「いい女の一挙手一投足は、気になるもんですよ」
「褒め言葉として、受け取っておくわ」
 磐井は、素早い手つきで、煙草を取り出し、ジッポライターで火をつけた。例の、甘い香りのする煙草だ。
「一日だけです」磐井は言った。「一日、我慢してくれれば、またシドの兄さんに会えますよ」
 最後に見た、シドの顔を思い浮かべた。鈴乃は首を振った。
「分かっていて、嘘を聞くのは苦痛だわ。はっきり言って。シドは、もう来ないんでしょう」「何か、あったんですか?」
「どうしても、あたしの口から言わせるつもりね」
「どうしても、何も。あの、この前、何かあったんですか?」
「聞いてないの?」
「全く」
「そう」鈴乃は言った。「それならそれで、いいわ」
「よくないですよ、俺には。何があったんですか?」
「企業秘密よ」
「困った企業だ」
 テーブルの上は、甘い香りに覆われ始めていた。鈴乃はその香りから逃げるように、自分の煙草に火をつけた。
「なら、シドはどうして来ないの」
「野暮用で」
「野暮用? どういう用なの?」
「シドの兄さんに、直接聞いてください」
「後で聞くのも、今聞くのも、一緒だわ。言って」
「俺が言うのと、シドの兄さんが言うのとじゃ、大違いなんです。勘弁してください」
「話が見えないわ」
 磐井は、使っていなかった灰皿を、二人のちょうど真ん中に来るように、置き直した。そして、その上に煙草の灰を落とす。
「いいんですよ。見えなくて」磐井は言った。
 煙草一本分。二人は沈黙を共有した。鈴乃が先に吸い終わった。灰皿の中で、煙草を潰す。
「行く所が決まってるのなら、さっさと行きましょう」
「分かりました」
「行き先は?」
「羽継さんには、恋人がいたようです。津野田さつき、四十七歳。かなり年がいってますけど。それでも、恋人は恋人です。その女の所に行けば、生前、羽継さんが何をやっていたか、分かるかもしれない」
「井織は、相変わらず、見つかってないのね」
「ええ」
「恋人、ね」
 鈴乃は、その言葉を確かめるように、呟いた。
「どうかしましたか?」
鈴乃は首を振り、立ち上がった。椅子の背にかけていた、黒いコートを着る。
「いいえ」鈴乃は言った。「何でもないわ」



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ブログ小説 焔-HOMURA-[integral] 第1回から読む

ブログ小説 焔-HOMURA- scene1から読む
posted by 城 一 at 00:33| 長編小説 焔-HOMURA-[integral] | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月28日

ブログ小説 焔-HOMURA-[integral] 第50回(ver 2.0)

 津野田さつきのアパートメントは、コンクリート製、五階建ての建物の一階にあった。今にも、雨が降り出しそうな空の色をした建物だった。
 前の道路に、オリーブ色のキャデラックが停まっていた。五十九年型。SF映画の戦闘機のような形をしている。
 全開にした窓から、ウーファーの効いた、テンポの速いレゲエが、大音量で流れていた。音楽に合わせて、車体が前後に揺れ、弾んでいた。
 年端のいかない子供が、足の悪い子犬を、エアガンで撃ちながら、追い回していた。
 ベランダで煙草を吹かしていた白人の男が、鈴乃に向かって、卑猥な言葉を叫んでいた。
「俺も昔、ああやって遊んでたもんですよ」磐井が、子犬を追いかけ回す子供たちを見て、言った。「笑顔が無邪気なほど、残酷な光景だな」
「アウト・ローのやる、ままごとね」
「ままごと」
「そのうち、追いかける相手を、本物の人間に変える。持っている玩具を、本物の銃に変える」
「“バーン、やられた〜”が、本当になる」
「問題は」鈴乃は言った。「結局、遊びから学ことはなく、実際に人を殺すまで、彼らは確実に現実の殺しへと、ステップ・アップしていくということね。そして、あたしの考えでは、ああいう遊びをする子供は、実際に人を殺しても、ゲーム感覚でいる場合がある」
 磐井はまた、甘い香りのする煙草を吹かしていた。
「どんなにああいう遊びをしても、最後の一線は決して越えない連中もいますよ」
「楽観的ね」
「そっちが、悲観的過ぎるんですよ」磐井は地面に煙草を捨て、ブーツで踏みにじった。
 建物の入口に、ステンレス製の集合ポストがあった。意味のあるもの、ないもの。様々な種類のチラシが、ポストから溢れんばかりに、詰め込まれていた。崩壊寸前のハンバーガーのようだった。
 一〇八号室に、津野田さつきの名前があった。
 一〇八号室は、入口から一番奥まった所にあった。廊下は暗く、じめじめとしていた。天井の蛍光灯は、ほとんどが不機嫌に点滅していた。消えたきりのものも、多くあった。
 ドアの横にブザーがついていたが、押しても一向に音の鳴る気配がなかった。磐井が、拳でドアを叩いた。何度か繰り返した後、黙って耳を澄ました。
 中から、ラジオが流れているのが聞こえた。人の気配は、あった。
 鈴乃と磐井が、ドアを蹴破るか、管理人を呼ぶかを相談し始めた頃、ようやくドアが開いた。
 ドアチェーンがかけられたままだった。十五センチほどの隙間。住人は、そこから顔も出さずに、どちら様、と言った。
 羽継正智の知り合い。磐井は、そう自己紹介した。
「あら、そうだったの。ごめんなさい。今、開けるわ」
 部屋の住人の声から、警戒の色が消えた。
 ドアチェーンが外され、ドアが全開した。磐井に続いて、鈴乃は部屋の中に入った。
 玄関にいたのは、はちきれんばかりの脂肪を身にまとった、肥満体の女。巨体を、車椅子に無理やり収めていた。黄色いセーターが、胸と腹で、乱暴に波打っていた。紺色のロングスカート。赤らんだ頬。化粧は、全くしていなかった。
 鈴乃は、顔をしかめた。醜い女だ。そう思った。
「どうぞ、お上がりになって。靴は、脱がなくていいわ」
 言われて、磐井と鈴乃は部屋に上がった。
 女は一度、部屋の奥に引っ込んだ。ラジオの音が消えた。そして、磐井と鈴乃の前に戻って来た。そのときに、女は車椅子の車輪を、磐井の脛に軽くぶつけた。
「ごめんなさい。わたし、目が見えないのよ」
 女はそう言って、微笑んだ。
 鈴乃は、部屋の中を一通り、見回した。居間、キッチン、小部屋が一つ。トイレ、浴室。女の他には、誰もいなかった。
「津野田さつきさんは? 出かけてるの?」
 最初は抑えられていた。笑い声。しかしそのうちに、たがが外れ、部屋に響き渡らんばりのボリュームになった。女は、腹を抱えて笑っていた。
 不愉快な笑い声だ。鈴乃は思った。思いきり顔をしかめて、女のことを見た。睨んだ、と言ってもよかった。構わないだろう。鈴乃がどんな表情をしていようと、女には見えないのだから。
 ひとしきり笑い終えた後、女は謝った。
「ごめんなさい。あまり人に会わないのが、悪いのかもしれないわね。ちょっとしたことが、おかしくて、おかしくて。でも、あなたたち、一〇八号室の住人が、誰か分かってて、来たんじゃないの?」
「もちろん、そうよ」
 鈴乃は、苛立ちを滲ませて、言った。
「なら、簡単じゃない。答えは目の前にある、というやつよ」女は言った。「津野田さつきは、わたしよ」
 嘘でしょう。鈴乃はかろうじて、その言葉を飲み込んだ。



つづく




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posted by 城 一 at 00:38| 長編小説 焔-HOMURA-[integral] | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月01日

ブログ小説 焔-HOMURA-[integral] 第51回

 なぜ、こんな醜い女が、兄の恋人なのか。なぜ、兄はこんな女を隣に置いて、生きようと思ったのか。
 鈴乃には、全く理解できないことだった。昔から、そうだった。醜い。鈴乃がそう思うような女ばかり、羽継は選んだ。
 何度もそのことで、鈴乃は羽継を詰問した。そういうとき、羽継は決まって首を振り、同じ文句を口にした。
「違う。違うんだよな。基本的に、話の出発点から、な」
 自分よりも、容姿端麗な女を選んでくれた方が、まだ納得できるのに。鈴乃は常々、そう思っていた。そして、実際に口に出したこともあった。
 一度、詰問の度が過ぎて、兄を怒らせてしまったことがある。いい加減にしろ。兄は唸るように、そう言った。腹に響くような声、鋭利な刃物を含んだかのように光る、二つの目。
 鈴乃は、身も凍るような思いをしたのを、覚えている。そして、その羽継の表情が、決して、自分のためには使われなかったことを。
 テーブルの上には、コーヒーが並んでいた。さつきが淹れたのだ。
 盲目であることを忘れるような、慣れた手つきだった。動きは、非常にゆっくりとしていたが。
 羽継の死。磐井はどうやら、自分で言うつもりだったらしい。一度、言いかけた。鈴乃は、それを目で制した。兄の恋人に、兄の死を告げる。その役目は、自分がやりたかった。やるべきだとも、思った。
 いつの間にか、始まっていた、世間話。主導権はさつきが握っていた。頼みもしないのに、隙間なく、言葉を紡いでいた。
 鈴乃は、そこに楔を打つようなつもりで、何の前置きもなく、言った。
「羽継正智は、死んだわ。殺されて」
 コーヒーの湯気が、さつきの顔に、うっすらと化粧を施していた。
 さつきは、細長い紙の袋に入った甘味料を手に取った。カロリーゼロをうたった、人工のものだ。
 さつきは、その袋の上端を手でちぎり、甘味料をコーヒーの中に入れた。さらさらと音を立てながら、白い粉末は、苦味をたたえた、黒い水に吸い込まれた。
 さつきは、その人工甘味料を、三袋、使った。そして、手を止めた。
 ただ、甘味料を入れたきりの、コーヒー。その表面が、ふらふらと揺れる様子に、さつきは見入っていた。少なくとも、鈴乃にはそのように見えた。スプーンを手に取ることもせずに。
「これね」おもむろに、さつきは口を開いた。「この甘味料ね。カロリーゼロのやつなの。ゼロよ、ゼロ。こうやって、細かいところに気をつけるのが、ダイエットの一歩かな、と思って。あの人は、笑っていたわ。そのままでいいんだよって。でも、女なら、好きな人が隣にいる女なら、なおさら、少しでも今より綺麗になりたい。そう思うものでしょう?」
 磐井が、甘味料の入った袋を一つ、手に取って、左、右と傾けた。その度に、甘味料が袋の中で動いて、音を立てた。
「でもやっぱり、三つは使い過ぎなのよね、きっと。一つにすれば、もしかしたら」
 さつきはそこで、口をつぐんだ。
 甘味料は、ガラスの小瓶に入っていた。磐井は伏し目がちに、手に取っていた甘味料を、その小瓶の中に戻した。音を立てないように、そっと。
「たとえ痩せても」鈴乃は言った。「見てくれる人は、もういないのよ」
 磐井が横目でちらりと、鈴乃を見た。冷たい言い方になっている。自分でも分かっていた。構うものか。そう思った。
 誰も、何も言わなかった。動くことさえ、しなかった。コーヒーから立ち上る湯気の量が、心なしか、少なくなっていた。
「そうね」
 短く、そう一言だけ、さつきは漏らした。
 磐井が、小さく溜め息をついた。軽く周囲を見回して、もしよければ煙草を吸いたいのですが、と言った。さつきは頷いて、台所から灰皿を持ってきた。
 円い、金属のような光沢を持つ、合成樹脂製の品だった。外側は銀に、内側は赤に塗られていた。
 磐井は礼を言い、パッケージから煙草を取り出した。例の、甘い香りのする煙草だった。磐井は気を使って、天井に向かって、煙を吐いた。が、それでもやはり、テーブルの上に、煙の甘い香りは広がった。
 さつきが軽く、顔をしかめた。そして言った。
「とがめるわけじゃないんだけど、この甘いのは、何? 煙草?」
「そうです」磐井は言った。「ガラムって言うんです」
「面白いわね。わたしも一本、もらってもいいかしら?」
 磐井は、構わない、と答えた。さつきに一本渡し、火をつけてやった。おいしい。さつきはそう言った。
「さつきさん」鈴乃は言った。自分の声が刺々しさを含んでいることを、確かめながら。
 さつきは目を閉じ、溜め息をつくようにして、深く煙草の煙を吐いた。
「分かってるわ」さつきは言った。「分かってるから」
 さつきの頬を、一筋、涙が伝っていた。声も、音もなく。
 この女は、こうやって化粧をするのだな。鈴乃は思った。



つづく




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posted by 城 一 at 00:32| 長編小説 焔-HOMURA-[integral] | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月02日

ブログ小説 焔-HOMURA-[integral] 第52回

「もっと、取り乱すものと思っていたわ」
 鈴乃は言った。
 さつきは、磐井からもらった煙草を吸い終え、灰皿の底で火を消してから、吸い殻をそこに横たわらせた。
「そうね。わたしも、そう思ってた」さつきは言った。「でもね、悲しいのよ。それは本当」
 音もなく流れた涙は、今は、さつきの頬で乾いていた。その跡は、さつきの頬の色を微かに変え、残っている。
「そうかしら」
「あの人は、力尽きたマラソン選手のようだったわ。いや、駅伝かしら」
「どちらも、長距離走には変わりないわ」
「マラソンは一人でやるもの。駅伝は、たすきを渡す相手がいるわ。とにかく、力尽きたランナーのようだった。けど、意志は恐ろしく強いの。体や心はもう、悲鳴を上げているのにね。それなのに、やめようとしない。もちろん、一人でやるマラソンにだって、そういうことはあるけど、でもその意志の強さは、その先に誰かが待っているような感じだったわ。あの人が頑張って走る先に、あの人の望む誰かが、待っているの」
「それは、あなたじゃないの?」
「わたしがいるのは、あの人の隣。そう、わたしじゃないわ。あの人が走っていた理由は」
 鈴乃は、コーヒーに口をつけた。味の良し悪しは分からなかった。ただ、熱い。
「親」
「何?」
「お兄ちゃんは、親のために、頑張っていたのかもしれない」
「あの人を、孤児院に預けた人たちのこと?」
「そう」
 さつきは黙っていたが、やがて頷いた。
「そう。そうかもしれないわね。でも、それと同時に、あの人は疲れてたわ。ひどく。走り続けなければならない理由がある。走り続けなければ、手に入れられないものがある。けど、その一方で、自分はもうとうの昔に、力尽きているという事実がある。そのギャップに、自らを焼かれているようだった。誰かに、無理やりでもピリオドを打って欲しいんじゃないか。あの人を見ていて、そう思ったことがあるわ」
「ピリオド」
「だから、それほど驚かないのかもしれないわね、わたしは。彼の死に。わたしは悲しいけど、でも同時に、彼はその死で、満たされたかもしれない」
「死は、死よ」鈴乃は言った。「残された者にも、降りかかる」
「そうね」
「でも、お兄ちゃんは」鈴乃はようやく、無意識のうちに、お兄ちゃんという言葉を何度も口にしていることに気づいた。そのことに、自分で驚いた。が、構わず続けた。「お兄ちゃんはきっと、あの世で悲しんでるでしょうね」
「なぜ」
「愛していた女が、どうしてもっと取り乱してくれないのか。どうしてもっと、泣いて、泣き喚いてくれないのか。自分の愛情と女の愛情は、もしかすると釣り合っていなかったんじゃないか。そう思ってるかもしれないわね。自分は、自分の死で満たされていたのだとしても」
「涙の量が必ずしも、感情の裏打ちになるとは限らないわ」
「伊達に年を取ってないわね。口がうまいわ」
「悲しいわ。どうして、そんな言い回しをするの」
「あら。なら、他にどう言い回せばよかったのか、説明して欲しいわ」
「口の悪い妹さんね。あの人も言ってたわ。もう少し、口が悪くなければ、男と仲良くやれるはずなのに、と」
「あたしと寝てるってことも、言っていた?」
 磐井が、鈴乃のことを見た。鈴乃は、さつきを睨みつけたまま、言った。
「血は、繋がってないわよ」
「そう。お互いにただ、兄と妹と呼び合うことを望んでるだけ」
 さつきが、鈴乃の言葉を補足するようにして、言った。
 鈴乃は、目を剥いた。
「ただ、とか」自然と語気が荒くなる。「だけ、とか言うな」
「あの人が言っていたことよ」さつきが言った。「鈴乃ちゃん」
 コーヒーカップ。無意識に動いた腕が、テーブルから払い落としていた。派手な音がして、中身とカップが床で飛び散る。
 止まらなかった。鈴乃は、懐から、銃を二丁とも抜いていた。その銃口を、さつきに向ける。
「おい!」
 磐井が叫んだ。椅子を倒し、立ち上がる。鈴乃は有無を言わせず、片方の銃を、磐井に向けた。
「動くな」
「あんた。正気か」
「残念ながら、至って正常よ」
鈴乃は言った。胸が激しく鼓動を刻んでいた。
 さつきは、銃を向けられているのにも関わらず、微動だにしない。
 視力がないからだろう。鈴乃は思った。見えないから、自分が今、どういう状況にいるのか、分からないのだ。だから、平気な顔をしていられる。
「津野田さつき。分かってる? あなた、今、銃を向けられているのよ」
「何となく、分かるわ」
「いいえ、分かってない。ロシア製のマカロフ。弾は、他の銃とは違って、専用のマカロフ弾。あたしが引き金を引けば、撃鉄が落ちて、撃針が銃弾の後方にある雷管を叩く。銃職人の手が入ってるから、弾詰まりであなたが助かる可能性は、限りなく少ない。たとえ弾が詰まったとしても、やり直せばいいだけだしね。だから、発射された弾丸が、あなたの額を貫くのは、あたしが引き金を引く決心をすれば、間違いない」
 さつきは、押し黙って、静かに鈴乃の言葉に耳を傾けていた。磐井が、よせ、と言った。無視した。
「皮膚、頭蓋骨、脳。想像できる? 自分の頭が、その順番で銃弾に貫かれていく光景を。あなたの頭蓋骨の硬さは、どれくらいかしらね。銃弾が前側の頭蓋骨を貫くのは、間違いないけど。でも、後ろ側のも砕くかどうかは、もしかすると分からないもの。下手をすると、銃弾はあなたの頭の中をご丁寧に駆け巡り、脳味噌を、残らず破壊し尽くす」鈴乃はそう言って、軽く、そっと、マカロフの銃口を、さつきの額にあてがった。「ねえ、分かる?」
「ネコ、やめろ」磐井が言った。
「分かるわ」さつきは言った。その表情には、やはり変化はない。「分かる」
 鈴乃は、銃口を窓に向け、引き金を引いた。乾いた銃声。銃弾が、窓に穴を開け、小さくひびを入れた。
「今のが、銃声というやつよ。聞いたこと、ある?」
「テレビドラマや、映画で」さつきは言った。「昔は、目が見えたの」
「そんなこと、聞いてないわ。銃声、生は初めてでしょう?」
「ええ」
「それで? 想像はできているの、津野田さつき? 自分の死体を」
「できているわ」
 抑揚のない調子で、さつきは言った。
 鈴乃は、さらに強く、銃口を、さつきの額に突きつけた。さつきの顔が、わずかに上向く。
「聞かせて。その死体は、どうなっているの?」
「額に穴を開けて、後頭部にも、同じように開いていて。血が筋を作って、わたしの顔を縦断しているわ。化粧っ気のない、わたしの顔には、ちょうどいいかもしれないわね。血の赤が、鮮やかだわ」
「さすが、目が見えないだけあって、想像力が豊かね」
「ありがとう。わたしの体は、重たい。重心がしっかりしているから、きっと車椅子からは落ちない。行儀よくうなだれて、眠っているように見えるか、もしくは、後ろにのけぞって、生気のない顔を惨めにさらすか。どちらかね」
 鈴乃は、口許を歪めた。
「あたしは、後者だと思うわ」
「あなたが、そう言うなら」
「でも、理解できないわ」
「何が? わたしの反応が、ということ?」
「あたしが引き金を引いたら、死ぬのよ。あなたは」
「だから?」
「許しをこうたり、助けを求めたり。とにかく、生きようとはしないの?」
「生死の決定権を握れば、誰でも言うことを聞くと思っているの? よして。短絡的な、子供の発想だわ。あの人の妹として、恥ずかしくないの」
「お兄ちゃんのことを、出すな」
「あの人から、何を教わったの、鈴乃ちゃん。よく考えてみなさい」
「したり顔で、語るな」
「わたしの方こそ、言わせてもらうわ」さつきの口調は、徐々に迫力を増してきていた。「あなたこそ、撃つ気のない銃を振り回さないで。迷惑よ。そんなもので、自分がいつでも有利な立場に立てると思ったら、大間違いよ」
「黙れ」
 鈴乃は食いしばった歯の間から、絞り出すようにして、言った。
「ネコ」磐井が重たい口を開いた。「やめろ。後悔するぞ」
「うるさい」鈴乃は磐井を一蹴した。視線は、さつきから逸らさない。「撃つ気のない銃を振り回すな、ですって? あなた、そう言ったわね、今?」
「やめろ」
「黙れ」鈴乃は一歩引いて、銃を構え直した。
 磐井が、何か叫んでいた。言葉までは、聞き取れなかった。全神経が、引き金に置いた指に、集中していた。
「後悔するのね、津野田さつき」鈴乃は言った。「お兄ちゃんと同じ場所には、行けないわよ。絶対に」
「わたしがあの人の所にたどり着けなかったら」さつきの口調は、確信に満ちていた。「あの人が、必ずわたしの所に来るわ」
 耳鳴りがしていた。目の前にいるはずの、さつきの姿が、とても遠くに感じた。銃を握っているはずの、自分の手。感覚が、怪しい。本当に銃が自分の手にあるのか、鈴乃は何度も確認した。グリップを、何度も握り直す。
 兄の声が聞こえた気がした。やめておけ。そう言っている気がした。頭が熱を持った。お兄ちゃんまで、この醜悪な容姿の女をかばうの。
「かわいそうな子ね、鈴乃ちゃん」
 喉が焼けた。力の限り叫んでいた。言葉になりきらない、何かを。
 鈴乃は、銃の引き金を引いた。
 銃声は、いつにも増して、乾いた響きで鈴乃の鼓膜を叩いた。



つづく




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2007年03月03日

ブログ小説 焔-HOMURA-[integral] 第53回

 耳の中で、風が唸っていた。
 磐井が、怒りで顔を紅潮させて、何か言っている。おそらく、自分のことを罵倒しているのだろう。聞かなくても、分かる。
 溜め息。胸から、空気とともに、怒りが抜けていく。誰に、何に向けた怒りだったのか。鈴乃にはもう、分からない。
 鈴乃は、倒れ込むようにして、椅子に腰を落とした。
 血が、ぽつりぽつりと、黄色いセーターを着た、肩に落ちる。
 さつきは、暴れるでもなく、ただ静かに顔を歪めながら、痛みに耐えていた。
 磐井が、慌しく、部屋の中を走り回っていた。そして、戸棚から救急箱を持って来て、テーブルの上に置いた。さらに往来して、タオル数枚をそこに追加した。
 さつきの左耳、耳たぶの辺りが、穴が開いたようにえぐれていた。マカロフの銃弾が、撃ち抜いたのだ。
「どうして、外したの」
 さつきの言葉とともに、聴覚が戻って来た。
「さつきさん。もう、彼女に話しかけない方がいい」
 磐井が言った。
 鈴乃も、同じことを思った。今の自分には、誰も話しかけない方がいい。
 さつきは、磐井から受け取ったタオルを、欠けた耳に当てた。
 視力のないはずの、さつきの両の目が、鈴乃を捉えている気がした。盲目なのだ。そんなはずがない。いくら、自分に言い聞かせても、駄目だった。さつきの視線が、鈴乃の体を、焦がし続けた。
 さつきは、耳からタオルを離し、それを見た。白かったはずのタオルが、血を吸って、鮮やかな赤に染まっていた。
「ねえ」さつきが言った。「どうして?」
 ひどく、喉が渇いていた。最初、鈴乃は、返答するのに失敗した。咳払いして、言い直した。
「知らないわ」
「わたしは構わなかったのよ、本当に」
 磐井が、何事か、さつきの耳元で囁いた。磐井は、新しいタオルと引き換えに、さつきの血で染まったタオルを、さつきからもらった。
「ねえ、聞いてるの?」さつきが言った。
「やめてください、さつきさん。早く、病院へ行きましょう」
「後でね」
 さつきは、ぴしゃりと言った。
「お兄ちゃんが、悲しむような気がしたからよ」
 鈴乃はうつむいたまま、そう言った。マカロフを握る両手は、脇にだらりと垂らしている。
「そう」さつきは頷いた。顔を動かすと、耳が痛いらしい。表情を歪めている。「そうね」
「そうよ」
「でもね」さつきは言った。「本当のところ、殺してくれればよかったのに、とも思ってるわ」
「さつきさん、やめてください。悪戯に、挑発的なことを言わないでください」磐井が言った。
「そんなんじゃないわ。わたしは、本気よ」
「なぜ」鈴乃は言った。
「心臓、あまりよくないの。わがままにできててね。少しでも、環境の変化があると、調子が悪くなる。糖尿病も、あるしね。こっちは、昔からのわたしの不摂生が原因なのだけれど」
「だからって」磐井が言う。
「疲れたのよ。あの人も、もういないし。あの人がいたから、助けてくれたから、今のわたしがあるのよ。そうじゃなかったら」
「今頃、ここにはいない、ですか」
「ええ。ねえ、壁を見て」
 さつきが言った。節くれ立った指で、壁を指した。目が見えないのにも関わらず、正確だった。壁には、千羽鶴がぶら下がっていた。色とりどりの折り紙で折られた鶴が、糸でまとめられ、大きな房となっている。
「千羽鶴ですね」
「あの人が、折ってくれたものなのよ」
 鈴乃は、無言で下唇を噛んだ。羽継が、折り紙を折っている姿など、想像できなかった。手先の不器用な兄だった。姿どころか、折り紙の話をしたことさえない。
「仕事の合間に、こつこつと折ってくれた。わたしの健康を祈って。そう言ってたわ、あの人は。だからわたしは、生きてこれた」
「仕事」磐井は呟くように、言った。「彼が、どんな仕事をしてたのか、知ってるんですか?」
「ええ、もちろん。あの人のことは、全て知ってるわ。だいたいからして、あの人の仕事部屋は、すぐそこにあるのよ」
「そこにある、小部屋?」
 玄関を入った、すぐの場所にある小部屋を見ながら、磐井が言った。
「入ることは、許してくれなかったけれどね」
「全て知ってる、と言ったわね。今」鈴乃は言った。
 磐井が、半ば睨むようにして、鈴乃のことを見た。警戒心が、如実に現われていた。鈴乃が何を言おうとしているのか、気にしているのだろう。
「あたしが、お兄ちゃんと寝てたってことも、知っているような口振りだったわ。さっき」
「言ったわ」さつきは頷いた。「そして、知ってるわ」
「あなたとお兄ちゃんが、そういう関係になったのは、いつ頃?」
「そういう関係?」
「恋人同士、というやつよ」
「そうね。三年ほど前かしら」
 口許が歪むのを我慢できなかった。鈴乃は言った。
「一年前まで、あたしたちは、月に一回以上会って、セックスしていたわ」
 磐井が、溜め息をついた。
「いい加減にしとけよ、もう」
「いいのよ」さつきは言った。「あのね、鈴乃ちゃん。そのことも、知ってるわよ」
「嘘」そんなはず、あるわけがない。鈴乃は思った。
「嘘じゃないわ。あの人は全て、本当に全て、わたしに話してくれたわ。目の見えないわたしのために、こと細かに」
「嘘よ。あれは、わたしたちだけの」
 さつきは、首を振った。
「あの人は、そうは考えてなかったわ」
「嘘!」
 鈴乃は叫び、頭を抱えた。目頭が熱を持った。冗談じゃない。鈴乃は思った。こらえた。これ以上、恥をかいてなるものか。
「わたしたちはね、一度もセックスしていないの」さつきは言った。「お互いに、そうなることを望まなかった。あの人は、その代わりのようなものだと、言っていたわ。あなたと寝て、そのことをわたしに告げることが」
 体から、力が抜けていくのが分かった。バランスを失っていた。体がぐらぐらした。軟体動物にでもなったかのようだった。鈴乃は、椅子から滑り落ちてしまった。
「ちょっと、大丈夫ですか?」
 磐井が、手を差し伸べてくる。鈴乃はそれを払った。
「やめて」鈴乃は言った。「やめてよ、もう。あたしの思い出を汚さないで」
「ごめんなさいね、鈴乃ちゃん」
「謝らないで」
 磐井が、意を決したように、さつきの車椅子の後ろに回った。
「俺は、さつきさんを病院へ連れて行きます」そう言って、車椅子の背についているハンドルを握る。「あなたは、どうしますか。一緒に来ますか、それとも、ここに残りますか」
「残るわ。残って、お兄ちゃんの仕事部屋を見る」
 磐井は頷いた。
「それがいいです、多分」磐井は短く、そう言った。「賢明です。その方が」
 磐井は、さつきの車椅子を押して、鈴乃の横を通り、部屋を出て行った。
 床に突いた手のひらに、先ほど割れた、コーヒーカップの破片が当たった。鈴乃は、それを手に取り、少しの間、弄んだ。
 そして、思いきり壁に叩きつけた。小さな破片だ。大した音はしなかった。



つづく




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2007年03月04日

ブログ小説 焔-HOMURA-[integral] 第54回

 小部屋という呼び名が、相応しい部屋だった。
鈴乃は、羽継が仕事に使っていたという部屋にいた。
 入口の正面にスチール製の机。両脇に、戸棚。それだけの家具で、部屋のスペースは、ほとんど使いきられていた。
 壁には、数々の新聞の切り抜きや、写真が画鋲で止められていた。中には、羽継の手書きのメモも混じっていた。
 主として、写真に写っているのは、金髪の青年だった。年は二十から三十。青い目、白い肌。端正な顔立ちをしていた。左手だけに、革の手袋をしていた。メモによれば、その青年の名は、アイザック・ライクンというらしかった。
 他に、女の写真も数枚。アイザックを取り囲むようにして、あった。全員、赤みがかった茶色の髪を、長く伸ばしていた。アイザックと交流のあった女のようだった。
 机の上に、いくつかの資料が広がっていた。机の正面の壁に、写真が貼られていること、そして資料の内容が彼に偏っていることからして、羽継が最後にしていた仕事の標的は、アイザック・ライクンのようだった。
 資料の方にも、写真はあった。そちらは、誰かの肖像画を写したものだった。鉛筆で描かれたものだった。モデルであろう、中年の男は容姿に恵まれてはいなかったようだが、その肖像画には、芸術的な趣があった。アイザックが描いたもののようだった。
 新聞の切り抜きの中に、十七年も前に起きた事件を扱ったものがあった。内容は、誘拐事件。犯人は若い女で、ミリンダ・ヒューリーという名前だった。誘拐されたのが、アイザック・ライクン。当時九歳。
 その事件が、仕事にどう関係しているのか、鈴乃には知る由もなかった。十七年も前に、標的に起きたことを知ったところで、殺すことに大きな影響を及ぼすとは、鈴乃にはとても思えなかったが。しかし、兄には兄の考えがあったのだろう、と思い直した。
 個人的な趣味の写真が、一枚だけあった。木の額縁に入り、机の隅に立てられていた。津野田さつきの写真だった。カメラを向けられて、さつきは、はにかんだ表情を見せていた。
 やはり、どう見ても、世辞にも美人とは言えない容姿だったが、かと言って、今はもう、醜悪なものにも見えなかった。
 写した者の手腕のお陰なのか、見る人間の内面に、何か変化があったからなのか。鈴乃には分からなかった。
 机の右側に取りつけられた、引き出し。用途の分かるもの、分からないもの。整理されないまま、雑然と混ざり合い、引き出しの一つ一つを、いっぱいにしていた。
 一番上の引き出しに、折り紙が入っていた。最下段の、深い引き出しには、折った、もしくは折りかけの鶴が入っていた。鈴乃はそれを見て、目を細めた。
 鶴を全て握り潰すなり、何なりして、台無しにしてしまおうかと思ったが、やめた。腹が立ったが、もはや先ほどの激しさには至らなかった。
 一緒に、糸も入っていた。鈴乃はそれで、鶴を繋げた。要領が分からなかった。お陰で、羽継の作った千羽鶴の房に仲間入りできるほどの、できにはならなかった。だが、格好だけは、何とかついた。鈴乃はそれを、居間のテーブルの上に、置いておいた。
 床に滴った、さつきの血が目についた。濡らした布巾で、拭いた。銃弾で窓に開いた穴には、ガムテープを貼った。
 少し離れて、その仕上がりを見た。気に食わなかった。水色の折り紙を持ってきて、その上からセロハンテープで貼った。
 そこまでやってしまってから、さつきの目は見えないことを思い出した。剥がしてしまおうかと思ったが、やめた。いくつか口実も考えたが、結局、それもやめた。
 わざわざ、その理由を聞きたがる人間もいないだろう。鈴乃は、そう考えた。
 羽継の部屋に戻った。
 机につき、目を閉じる。羽継のにおいがするような気がした。
 もう一度、一番下の引き出しを開けた。折り紙でできた鶴の他に、そこにはトカレフの予備弾倉が入っていた。少しの間、手の上で弄んでから、コートのポケットに入れた。
 それからふと、羽継のトカレフはどこに行ったのだろう、と思った。携帯電話で、警察の番号を呼び出し、そこにかけた。受付の女に、鶴見の名前を告げた。
 ちょうど、今から出るところを、捕まえることができた。人使いが荒い、との文句を一通り聞いてから、羽継のトカレフのことを尋ねた。
 数十丁のトカレフが、証拠を保管してある場所にある、というのが鶴見の答えだった。
 当たり前と言えば、当たり前のことだった。
 トカレフは、この街の住民に、最も身近と言っていい銃器だった。
 鶴見はそして、少なくとも羽継の死体があった場所にはなかった、とつけ加えた。
 もし、それらしいものがあったら、連絡して欲しい。鈴乃は言った。礼はする。体ではなく、今度は金で。
「体の方でも、結構なんだがな。だが、ま、金の方が安心して受け取れるか」
 鶴見は最後に、期待はするなよ、と言って電話を切った。
 羽継を殺した人間が、テンガロン・ハットと同じように、持っていった可能性もある。鈴乃は、携帯電話を閉じながら、そう思った。
 引き出しには、マカロフも入っていた。
 自分と同じものを、兄にも持っていて欲しくて、わがままを言った。昔のことだ。
 仕方なく持った、三丁目の銃。兄は、「ネコの手」と名づけた。
 二丁のトカレフを示しながら、兄は、こいつで足りなくなったら借りることにしよう、と言って笑った。そのとき鈴乃は、兄の冗談めかした一言の意味が分からなくて、笑わなかった。
 今は、分かる。今なら、笑える。しかし、兄はもういない。
 鈴乃は代わりに、泣いた。



つづく




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posted by 城 一 at 00:18| 長編小説 焔-HOMURA-[integral] | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月05日

ブログ小説 焔-HOMURA-[integral] 第55回

 午後五時を過ぎた頃。さつきと磐井は帰ってきた。
 太陽は、すっかり沈んでしまっていた。秋と、冬の境界線。日没の時間は、日に日に、早まっている。
 鈴乃は、居間のテーブルに座り、窓の外と同じ色をした、コーヒーを飲んでいた。湯気が、頬をくすぐる。
 さつきは、周辺のにおいをかぐように、顔をゆっくりと、左右に動かした。
「いい香りね。コーヒーを淹れたのはもう、数時間前のはずだけど」
「淹れ直したの。飲む?」鈴乃は言った。
「もちろん」
 さつきは言った。顔の側面をぐるりと回るようにして、包帯が巻かれていた。鈴乃が、撃ち抜いた左耳には、大きなガーゼが当てられている。正面から見ると、頭巾をかぶった、農家の人間のように、見えないこともなかった。痛々しい光景だった。撃った本人には、なおさら。
 さつきは、車椅子を自ら操作して、磐井から離れ、テーブルについた。鈴乃は、さつきの前にコーヒーカップを置き、コーヒーを注いでやった。カロリーゼロの、人工甘味料も三つ、置いた。さつきは、ありがとう、と言った。
 鈴乃は、コーヒーの入ったポットを持ったまま、磐井を見た。
 磐井は、部屋に入ってきたときから、煙草をくわえたままだった。鈴乃のことを軽蔑しているとも、無表情とも言える、顔つきをしていた。
 磐井は、鼻で溜め息をついた。目を伏せ、おもむろに取り出したジッポ・ライター煙草に火をつけた。甘い煙を吐き、結構だ、と言った。
「そう」
 鈴乃は、ポットをコーヒーメーカーに戻した。磐井は、鈴乃のことを見つめたまま、何も言わない。
「何?」鈴乃は言った。
「何ごともなかったかのような、顔だ」
「そんなことないわ」
「一つ、言わせてもらう」磐井は言った。「ああいうときのために、言葉や声は、あるんだ」
「ええ」
「ま、銃で感情表現というのは、殺し屋にはぴたりとくるけれども」
 少し、込められた皮肉な響き。鈴乃は黙って、それを受け取った。
「で、どうだったの? その、診断結果は」
「どうもこうもないさ。彼女はもう、二度と、左の耳たぶでピアスを楽しむことはできない」
 さつきは、コーヒーを一口飲んでから、言った。
「もともと、ピアスはしてなかったし、これからする予定もなかったけれど」
 磐井は、目を閉じ、煙草を吹かした。
「彼女が望むにしろ、望まないにしろ」
 さつきがコーヒーカップを置いた所に、先ほど、鈴乃が繋げた千羽鶴があった。カップは傾いて、倒れそうになった。
 さつきは、あら、と言いながら、カップを置き直した。少し潰れてしまった千羽鶴を手探りで見つけ、手のひらに乗せる。
「これは」
「兄の部屋にある、机の引き出しの中に、入っていたのよ」鈴乃は言った。
「糸は? 最初から、こういう風に、繋がっていたの?」
 不恰好なのは、分かっていた。兄の作った千羽鶴のように、繋げられなかったことも。鈴乃は少し恥ずかしくなって、うつむいた。
「それは、あたしがやったのよ」
 さつきの顔が、ぱっと明るくなった。
「本当に? ありがとう。でも、ごめんなさいね。少し、潰しちゃった」
「直すわ」
 さつきの手から、鈴乃は鶴を取ろうとした。さつきは首を振った。
「いいわ。このままで」
 さつきは、少し首の傾いた鶴の頭を、指先で探るようにして、触っていた。
 鈴乃は言った。
「その。謝るわ。あなたに、ひどいことをしてしまった。ごめんなさい」
 さつきには見えないことを分かっていて、鈴乃は頭を下げた。言葉だけでは、足りない。気持ちの問題だ。そう思った。
「あなた、今、どこにいるの?」
「すぐ側にいるわ」
「そう? でも、まだ声が遠いわ。もっと、近くに来て」
 鈴乃は、さつきのすぐ左横に回り、顔を寄せた。何かを探すように、宙をさまよっていた、さつきの手を捕まえ、自分の頬に当てる。
「声を最初に聞いたときに思ったんだけど。やっぱり、あなた、美人ね」
「そうかしら」
「とても、素敵な肌をしてるわ」さつきは、愛撫するように、鈴乃の顔に指を這わせた。「感触のいい唇。つんとすました、顎。まるで生きてるような、髪の毛」
「見えないのに、分かるものなの?」
「もちろん」
「ありがとう」
 さつきの表情が、少し曇った。
「少し、耐えてね」
 そう言って、さつきは大きく手を振り上げた。何をされるか、鈴乃には分かった。が、黙ってそこにいた。
 さつきの手のひらが、鈴乃を打った。耳と頬の、間の部分。目の見えないことで、何か、ずれがあった。びたん、という鈍い音がした。
「これで、おあいこ、ということにしましょう」
 さつきは微笑んだ。鈴乃は首を振った。
「足りないわ」
「いいのよ」
「あたしが、よくない」
「じゃあ、どうしろって言うの? わたしに、あなたの耳たぶを銃で撃ち抜かせる?」
「それでもいいわ」鈴乃は言った。
「そんなの、わたしが嫌よ」さつきは言った。「撃ったわたしも、辛くなる。また」
「でも」
「いいのよ」さつきは叩いた、鈴乃の頬を労わるようにして、また撫でた。「いいの」
 鈴乃は愛おしくなって、さつきの手の上に、自分の手を重ねて、包み込んだ。
 さつきは言った。
「ねえ、あなた。お化粧、してくれない?」
「どうして?」思わず怪訝な顔をして、鈴乃は聞いた。
「わたしは、自分で化粧をすることができない。誰か、女の人の手を借りないと。だから、女の人のお客さんが来ると、わたし、嬉しいのよ。お化粧をしてもらうことができる」
「でも」
 さつきは、磐井の方を向いて、言った。
「時間は、あるんでしょう?」
「ええ。それくらいは」
 さつきの表情は、明るさを増し、まるで幼い少女のようになっていた。
「善は急げ、というやつよ。ねえ?」鈴乃に向かって、言う。
「何を考えているのか、分からないわ。あなた」
「何も、考えてないのよ。ねえ、磐井さん?」
 さつきは、磐井の名を呼んだ。病院へ行く途中にでも、聞いたのだろう。
「何ですか?」
「煙草、外で吸ってくれる?」
 磐井は、さつきの言葉を聞いて、顔をしかめた。一度、テーブルに来て、灰皿で煙草を潰した。
 鋭い視線で、鈴乃のことを見た。鈴乃は無言で、真っ直ぐ、視線を返した。
 磐井は、パッケージを取り出した。煙草は、最後の一本だった。くわえると、パッケージを潰した。火をつけず、さつきに言った。
「何かあったら、すぐに呼んでください」
「大丈夫よ」さつきは言った。「ガールズトークをするだけよ」
 磐井は最後に、釘を刺すようにして、鈴乃のことを睨むと、部屋を出て行った。
 ガラムの吸殻の火は、消えきっていなかった。鈴乃は吸殻を今一度、灰皿の底に押しつけて、火を消した。
 鈴乃は言った。
「それで? どんなお化粧がお好みなの?」



つづく




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posted by 城 一 at 00:39| 長編小説 焔-HOMURA-[integral] | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月06日

ブログ小説 焔-HOMURA-[integral] 第56回

 がしゃり、と音がした。
 さつきの化粧箱を、テーブルの上に置いたのだ。開くと、ふたが三面鏡になる仕組みになっていた。
 鈴乃は、中に入っていた化粧品の一つ一つを、手に取って眺めた。年齢が違えば、やはり使う化粧品の種類も違ってくる。鈴乃には、馴染みのないものばかりだった。
 気がかりなのは、化粧品の種類だけではなかった。部屋の隅で、忘れ去られていた化粧箱には、うっすらと埃が積もっていた。持ち主が、化粧という、女とは切っても切れないはずの文化から遠ざかって、久しいことを現していた。
「化粧品に、消費期限って、あるんだったかしら?」鈴乃は言った。
「さあ」
 これから化粧を受ける当人は、まるで他人ごとのように、首を傾げた。
 鈴乃も、ある程度の化粧品を持ち歩いていたが、それで全て補えるわけではない。
 リキッド・タイプのファンデーションの入った、肌色の小瓶を手に取り、左右に振ってみる。どれだけ確かめても、自信はなかった。
「どこかに、出かけるつもりなの?」
「予定では。でも、出かけないかもしれない」
 曖昧な返事だ。
 化粧下地。自分が持ち歩いている、クリームタイプのものを、手の甲に置いた。
 深く息を吸い、吐く。さつきの顔に、挑むような視線を送る。濡れタオルで拭った、彼女の顔は、わずかに輝きながら、化粧を待っている。
「えー、作業が終わったあとの、あたしの反応も参考にして、決めてくれる? 出かけるか、どうか」
「分かったわ」
 鈴乃は頷くと、さつきの化粧を始めた。
 不思議な感覚だった。鈴乃は今まで、他の女の化粧など、したことがない。
 テレビでは、よく見かける光景だ。鈴乃は落ち着きなく、さつきの顔の周りを回りながら、化粧下地を、彼女の顔に塗り込んでいった。
 産毛が多かった。生えている感触くらいは、目が見えなくても分かるはずだ。化粧ができないことで、容姿を整えることに関する全てのことを、さつきは放棄しているのかもしれない。確認する必要はないが、腋毛の処理の方も、怪しいものだ。
 さつきは、目を閉じたまま、言った。
「あの人のことは、もう忘れなさい」
 鈴乃はわざと、化粧下地を塗り込んでいた頬を、強くつねるように扱った。さつきは、なんの反応も示さなかった。
 鈴乃は言った。
「予告通り、ガールズトークを始めるつもりね」
「あなたの中にいる、あの人は、羽継正智は、幻想よ」
「そんなことない」
「あるわ」
「知った風な口、きかないで」
「お兄ちゃんという存在は、あなたに必要だったのかもしれない。血も繋がっていない、ただ、幼い頃に気まぐれで始めた関係に固執するということは、そういうことなんでしょう」
 ファンデーション。パウダータイプのものを、選んだ。スポンジに含ませ、さつきの頬を、内側から外側へ、そっとつけていく。
 話題が話題だ。余計な力がこもりそうなところを、耐える。
「お化粧、失敗してもいいの?」
 知らず知らずのうちに、声に棘が含まれている。構わなかった。
「しておかなければならない、話なの」
「強情な性格だこと」
「ねえ」
「固執、ね」鈴乃は言った。少し離れ、さつきの顔を眺める。ファンデーションを塗っただけで、見違えるような感じになっていた。「まるで、あたしが一方的に、お兄ちゃんに想いを寄せていただけみたいに、聞こえるわ」
「実際、そうだったのよ。途中からは。だからあの人は、恋人を作るの。作っていたの」
「それでも、お兄ちゃんは」
「そう。あなたと寝続けた。断続的、とは言え。あなたが、恋人の存在を忘れてしまうほど、魅力的だったのが、半分」
「もう、半分は」
 さつきの顔に巻かれた包帯が、邪魔だった。ときどき、耳の傷が痛むのだろう。さつきは、顔をしかめた。
 ファンデーションが少し、その包帯に付着した。
 さつきは言った。
「そうしないと、あなたが消えてしまいそうだったから、というのが半分」
「セックスと憐憫」自嘲的に、鼻で笑うのを、こらえられなかった。「それだけなの? あたしたちを繋げてたのは」
 手は、止めなかった。止めれば、恐ろしい速度で思考が動き出すだろう。負の方向に。
 アイシャドウ。派手な色は、避けた。会ったばかりの他人、しかも年が親ほどにも離れた女だ。冒険はできなかった。限りなく、肌の色に近いものを選んだ。
 しかし。よくも平気で、そういうことを言えるものだ。さつきを見ながら、鈴乃は思った。彼女がなにを考えているのか、分からなかった。
「他に」平然と、さつきは目を閉じたまま、口を開く。「愛が少々」
「調味料のように」
「そう。調味料のように」
 さつきは感情を交えず、鈴乃の言葉を繰り返した。
 片手で目尻を押さえ、目を縁取る。あまり、強い線は引かなかった。指先が震えた。緊張と、細かい作業をやっていることだけが、原因ではなかった。それで、線を歪ませることだけは、したくなかった。鈴乃は、歯を食いしばった。
「でも、全くなかったわけではないわ」さつきが言った。
「とは言え、救われるには、少々、分量が足りないわね」
「満足するか、割りきるしかないわね」
 くすんだ、灰色っぽい、ブラウンのアイブロウペンシル。鈴乃はそれを選んで、さつきの眉を描いた。眉を描いてみると、その周りに生える、余計な毛が気になった。ピンセットで、目につくもの全て、抜いた。
「道化ね。あたし」鈴乃は、呟いた。
 眉を得たさつきが、目を開いた。その視線は、すぐ近くにいる鈴乃のことさえ捉えることができずに、宙をさまよった。さつきは、強く首を振った。
「そんなことない。そんなこと、言わないで」さつきは言った。「でもね、あなたが寄りかかっていたのは、羽継正智の幻想。それだけは、確か。あの人が生きている間は、それでもよかったのかもしれない。幻想は幻想でも、生身の人間に重なった、形のある幻想だったから。触れるし、体温もあるし、声もある。あなたの予想だにしないことも、喋る」
「それはもちろん、そうよ」
「でも、今は違う。あなたの中にいる羽継正智はもう、あなたの望むようにしか、喋らない。動かない。そんなもので、心の隙間を埋めていては、駄目」
 鈴乃は舌打ちした。マスカラを、急いで手に取る。やはり、ブラシをつまむ指先は、震えている。ちくしょうめ。鈴乃は内心、そう呟いた。
「あたしは」
「現実の男を愛しなさい。そして、傷つけられなさい。そうしなくては、いけないわ。生きているんだから」
 チークでさつきの頬に彩りを添える。
 いつから、そうだったのか。鈴乃は、さつきの表情に強張りを認めた。なにか、決意を感じさせるものだった。鈴乃は言った。
「あなたは、どうするの?」
「わたしは、いいのよ」
「なによ、それ」鈴乃は、さつきの考えていることが、手に取るように分かった。感じた、という方が正しいのかもしれない。震えは、声帯にも伝染した。「ずるいわ」
「そうね。ずるいわね」
「人に散々説教しておいて、そんなの。それこそ、駄目よ。生きていてよ、できる限り。千羽鶴くらい、あたしだって折れる」
「やっぱり、優しい子だったわね、あなたは」
 鈴乃は声を荒げた。
「生きていてよ。分かった。そう言ってよ」
「さ、あとは口紅だけね。色は、真っ赤なのがいいわ。ええ。もう、そんな口紅を塗る年じゃないのは、分かってる。でも、あの人は真っ赤な口紅が、好きなのよ。あるでしょう、真っ赤な口紅が。わたしの化粧箱に?」
 確かに、あった。鈴乃は、その口紅を手に取った。自らの唇をかみながら、口紅をゆっくりと操る。
「好き放題言っておいて」鈴乃は言った。声が、かすれていた。
「ごめんなさいね」
 口紅を塗り終わった。
「最初から、そうするつもりだったのね」
「ええ」
「そのための、化粧だったのね」
「恋人とのデートに、すっぴんで行くわけにもいかないでしょう」
 鈴乃は、真っ赤な色の口紅を、少しの間、手のひらの上で弄んだ。そして、握り締めた。
「これ、もらってもいい?」
 さつきが、鈴乃の顔の方を向いた。
 鈴乃は、息を呑んだ。その一瞬だけ、さつきの両の瞳が、寸分違わず、鈴乃の視線を捉えたような気がしたのだ。なにか、言いたかった。が、言葉は出て来なかった。
 次の瞬間にはもう、いつものさつきだった。目の見えない両目は、ずっと、宙でなにかを探しているように見えた。
「さ、磐井さんを呼んできてくれる?」
 さつきは言った。
 鈴乃は目を閉じ、深呼吸した。手のひらの中の口紅が、信じられないほど重たく感じられた。鉄の塊でも持っているようだった。
 目を開き、頷いた。
「ええ、分かったわ」
 鈴乃は、部屋を出た。



つづく




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2007年03月07日

ブログ小説 焔-HOMURA-[integral] 第57回

 部屋を出ると、すぐに甘い香りが鼻をついた。
 磐井が、いた。建物から出ているものと、鈴乃は思っていた。それほど、自分に信頼を置いていないということか。しかし、自分がさつきにしたことを考えれば、無理もない。
 磐井は、一人ではなかった。小学校高学年から、中学生くらいの少年と一緒だった。ドアの前の廊下で、サッカーボールを蹴り合っていた。少年の蹴ったボールが、鈴乃の顔の方へ飛んできた。鈴乃は、上体をそらして、かわさなければならなかった。
 トラップせずに、磐井は少年にボールを蹴り返した。
「終わりだ、坊主。またな」
 少年はボールを足の裏で止めた。口を尖らせ、不満そうな表情を浮かべていた。が、やがてなにも言わないまま、廊下を走っていって、姿を消した。
 終わったんですね。磐井が言った。鈴乃は頷いた。磐井は、煙草をくわえたまま、さつきの部屋に入ろうとした。鈴乃は止めた。
「新しく買ってきたのね」鈴乃は言った。「一本、ちょうだい」
「持っているでしょう。それに、中で吸っても」
 鈴乃は、首を振った。
「ちょうだい」
 仕方ない、といった表情で、磐井はガラムを差し出した。一本取り、くわえる。磐井が、ジッポライターで火をつけてくれた。
 時間稼ぎのつもりだった。しかし。鈴乃は思った。それにしても、甘ったるい煙草だ。
「なにか、あったんですか」磐井が言った。
「普段、化粧をしてない女に、化粧をするのは、ひと苦労よ。わがままも言うし」
「それくらい、耐えなきゃならないことを、あなた、しましたよ」
「分かってるわよ。だから、ここで一服して、愚痴ってるんじゃない」
 廊下には、胸の下辺りまでの高さの、コンクリート製の囲いがあった。鈴乃はそこに、両肘をかけた。眼下に広がる景色へ向かって、煙を吐く。
「あなた、恋人は?」
「いたり、いなかったり。少し前に、別れましたけど」
「愛した女はみんな、元彼女というわけね。みんな、生きてるの」
「どうして、そんなこと」
「どうなの」
「生きてますよ。なんだかんだで、別れたあとも連絡を取ってるのが、ほとんどです」
「よかったわね」
「なにがですか」
「別に、なにも」
「あなたは、どうなんですか、ネコ?」
 磐井は、手の中でジッポライターのふたを、開いたり、閉じたりしていた。その度に、甲高い金属音が、ひゅいん、と鳴る。
「今まで、恋人なんてものと、縁がなかったわね」
 磐井が、わずかに眉を寄せた。
「そうなんですか」
「兄が、いただけよ」鈴乃は言った。口許を歪めて。「それも、もういない」
「羽継さんのことですね。お気の毒に」
 ガラム。最後まで、吸う気になれなかった。半分ほどでやめて、地面に捨てた。ブーツの踵で踏みにじる。
 磐井が潰れた吸殻を見て、ああ、と声を上げた。手に、携帯灰皿を持っていた。残念ながら、間に合わなかった。
 そのあと、適当な理由をつけて、鈴乃はマルボロ・メンソールを二本、吸った。
 経過した時間は、十五分弱。それ以上、磐井を外に引き止めておく方法を、思いつくことができなかった。磐井が、さつきの部屋の中に入った。
 悪態、怒声。ドアを開けた鈴乃の耳を、突き刺した。予想していたものだった。そして、鈴乃は心のどこかで、その予想を裏切って欲しい、と思っていた。
 怒りに目を剥いた磐井が、鈴乃目がけて、突進してきた。コートの襟を掴む。
「あんた」
「なに」
「どうして。どうして、あんなことができるんですか」
 鈴乃は、襟を掴む磐井の手を、やんわりと振り払った。
「あんなこと。抽象的な表現だわ。それじゃ、分からない」
「ふざけるな」
 鈴乃は、溜め息をついた。話にならない。磐井を脇によけて、部屋に上がった。そして、もう一度、溜め息をついた。先ほどよりも、深く。
 さつきが、車椅子の上でうなだれていた。彼女の右側が、彼女自身の体を含め、部屋ごと、真っ赤に染まっていた。血の、赤だった。車椅子の下に、包丁が落ちていた。それで、自分の首を切ったのだ。
「なんでこんなことを」
 磐井の声が、後ろから聞こえてきた。
「落ち着きなさい」鈴乃はそう言って、磐井を振り返る。「あたしがやったんなら、返り血は? 浴びずにやるのは不可能よ」
「けど」
「殺るつもりなら、さっき、彼女の耳を弾いたときに、殺ってるわ」
「ちょっと」
 今度は、磐井が鈴乃を横に押しのける。さつきの下へ行き、その口許に耳を当てた。顔を少し離し、さつきの胸を見る。わずか。ほんのわずかだが、上下していた。呼吸だ。磐井は指先を、切れていない方の、さつきの顎の下に当てた。
「生きてます!」
 鈴乃が稼いだ時間は、ほんの少しだった。不思議なことではなかった。
 磐井は急いで、携帯電話を手にした。ねずみのような小さな動きで、ボタンを叩こうとする指。鈴乃はそれを、上から包み込むようにして、止めた。
「なんですか」
「やめなさい」
「ふざけないでください。さつきさん、生きてるんですよ」
「死なせてあげなさい」
 磐井が、怒りを込めて、鈴乃の手を振り払った。ボタンを叩こうとする。鈴乃はもう一度、止めた。磐井が、鋭い視線で、鈴乃を睨んだ。半ば、拳を叩き込むようにして、また、鈴乃の手を振り払った。鈴乃は、磐井の手から、携帯を叩き落した。
 懐。磐井の手が、飛び込んだ。鈴乃は、止めることもできた。が、好きなようにさせた。
 出て来たのは、オートマティックの拳銃だった。迷わず、銃口が鈴乃の胸を狙う。
「あんた」磐井は目を剥いて、言った。「いい加減にしろよ」
 磐井は、鈴乃に銃口を突きつけたまま、かがんだ。落ちた携帯電話を拾い、中途にしていた操作を再開する。視線と、指の動きで、電話番号を探しているのが分かった。
「彼女のこと、助けるつもりなの」
「当たり前だ」
「助けて、どうするの」
「どうするのだって? ふざけるな。命は、大切だ。大切に、するものだ」
「命を大切にする、ということは」鈴乃は、冷ややかな視線で、銃口を見下ろしながら、言った。「生も死も、等しく、真剣に扱う、ということよ」
「ごたくはいいんだよ」
「大事なことよ。よく、考えなさい。価値観の押しつけは、今、一番やってはいけないことよ」
 目的の番号を見つけたらしい。磐井は、震える手で、携帯電話を耳に押しつけた。呼吸が、荒い。大きく肩が上下していた。
「銃だけじゃなく、言葉の扱いもうまいんだな、あんた。尊敬するよ、本当に」磐井は言った。「くそったれ」
 鈴乃は首を振った。
「やめなさい」
「ノー」
「考えなさい。彼女が、どういう気持ちで、死を選んだのか」
「関係ない。人は一所懸命生きて、そして死ぬものだ。自分で区切りをつけるものじゃない」
 鈴乃は目を閉じた。微かに、磐井の携帯電話から、呼び出し音が聞こえる。
「やめなさい。もう一度、電話を切って、よく考えなさい」
「そんなことしてみろ、手遅れになる」
 呼び出し音が切れた。相手が受話器を取ったのだ。鈴乃は目を開けた。
 磐井の注意がそれていた。銃。磐井の手の中にあるものを、そのまま、方向を変えた。磐井の人差し指の上から、自らの指を置く。
 叫び声。銃声。重なり、不協和音を奏でた。
 さつきの胸が、銃弾で爆ぜた。三発。全て、左胸に命中させた。それで、十分だった。鈴乃は、磐井の銃から、手を離した。
 磐井は、さつきの胸に銃口を向けたまま、呆気に取られていた。開いた口から、ああ、と声が漏れる。銃を下げた。
 さつきに駆け寄り、顎の下に手を差し込んだ。脈を計ったのだ。が、磐井はすぐにうなだれた。頚動脈から大量の出血をし、左胸に三発の銃弾を撃ち込まれ、生きていられるわけがなかった。
 磐井が、振り返った。怒りの火がともった目。同時に、涙が滲んでいた。銃口が、鈴乃を狙う。
「あんた」
「なに?」
「ふざけるなよ」磐井は言った。「ふざけるなよ!」
 鈴乃は、腕組みをした。
「彼女を引き止めて。そのあと、あなたはどうするつもりだったの」
「そんなこと、あとから考えればいい」
「ふざけるな!」今度は、鈴乃が叫んだ。「その人はね、羽継がいたから生きていられたの。羽継の千羽鶴があったから、生きていられたの。それがなくなった今、なにを支えに彼女は生きていけばいいの」
「支えなんて、いくらでも見つかる」
「あなたは、支えになれるの」
「なろうと思えば、なれるさ」
「軽々しい。そんなんだから、簡単に人を生かそうとできるのね」
「死ぬよりは、いい」
 鈴乃は磐井に、歩み寄った。一歩、二歩。三歩目で、銃口にたどり着いた。先端が、胸にめり込む。
「生も死も、同価値なのよ。押しつけるには、同様に責任が生じるのよ。分かってるの」
「うるさい」
「本人の意思を無視して、生と死を選ぶことの重みを、あなた、知ってるの」
 磐井は、撃鉄を起こした。
「さすが、殺し屋だな。殺したことの合理化が、うまい。詭弁だけどな」
「あなた、彼女を愛していたわけではないでしょう」
「なにを、いきなり」
「愛していたんなら、認めるわ」
「あんたに認められる必要は、ない」
「愛していなかった、ということね。なのに、生かす。もう、なにもない彼女を」
「もう、たくさんだ。くそったれ」
 もう一歩、大きく踏み込んだ。銃口が、胸を軋ませる。
「いいわよ。撃ってみなさいな。生の押しつけが本当にできる男は、死の押しつけも、できるわよ。ほら」鈴乃は、軽く両手を広げて、磐井を見た。「ほら、どうしたの」
 まるでひきつけを起こしたかのように、何度か激しい呼吸をしたあとで、磐井は銃を下ろした。床に向かって、罵声を飛ばす。
「煙草、変えたらどう? 中身まで、甘くなってるわよ」
 鈴乃は言って、踵を返した。玄関へ向かう。
 磐井が吠えた。銃口を天井に向け、空になるまで撃った。銃声が、部屋に轟く。銃弾がなくなったあとも、何度か磐井は、引き金を引いていた。空しい音が鳴り響いた。そして、銃を床に叩きつけた。言葉にならないなにかを叫ぶ。
 鈴乃は、三和土で磐井を振り返った。
「では、後始末、よろしくね。ぼうや」
 鈴乃はドアを開けた。返事は、待たなかった。



つづく




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ブログ小説 焔-HOMURA-[integral] 第1回から読む

ブログ小説 焔-HOMURA- scene1から読む
posted by 城 一 at 00:38| 長編小説 焔-HOMURA-[integral] | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月09日

ブログ小説 焔-HOMURA-[integral] 第58回(ver 3.0)

 部屋を出てから、後悔した。
 戻ろうとしたが、できなかった。どういう顔をすればいい? ドアノブに伸ばした手を、鈴乃は下ろした。建物を出た。
 黒く塗られた空には、鋭い三日月が浮かんでいる。明るさで時刻を把握できなくなってから、数時間が経過していた。吐く息が、白い。
 さつきのアパートメントの敷地を出て、足を止めた。来るときは、磐井の運転するカローラで来た。周囲を見回す。タクシーが走っている気配はない。
 まだらな、レンガでできた生垣。鈴乃はそこに腰かけ、煙草に火をつけた。やはり、煙草は甘くなくていい。そう思った。
 そこからは、さつきの部屋を眺めることができた。鈴乃は、煙で目の前の空を、灰色に染めながら、さつきの部屋の入口を見ていた。目的はなかった。ただ、見ていただけだ。
 数十分すると、数人の男がそこを訪れた。磐井が呼んだのだろう。警察の者かもしれないし、ツガ組の構成員かもしれない。服装では、分からなかった。ただ、私服だった。ツガ組の構成員という可能性の方が、高そうだった。
 自分の言ったことを、考えた。磐井の言ったことを、考えた。
 こうして、秋と冬の間の、冷たい空気を吸っていると、頭の回転の仕方も、変わってくる。磐井の言ったことの方が、正しいのかもしれない。そう思った。普通、と称される人間のほとんどが、磐井と同じことを言うだろう。それも、分かっていた。だが、自分はそれほど、確信を持って、磐井と同じ言葉を吐けない。
 さつきが死なずに、生きたとして。果たして、どうなっただろうか。鈴乃の予想を裏切って、また新しい恋人を見つけ、幸せに暮らしたのだろうか。羽継のことを、忘れて?
 それが嫌だったのかもしれない。さつきの中で、羽継のことが薄れてしまうことが。そうなるくらいなら、命を犠牲にしてでも、羽継の思い出が薄弱にならないうちに、全てを抱えて死んでくれた方が、羽継も浮かばれるのではないか。そう、思っているのだろうか。自分から、兄を奪った女。せめて、兄のことを過去にするのだけは、許さない。そういう意志が、働いていだのだろうか。
 鈴乃は、首を振った。自分の中に、深く潜ろうとし過ぎている。それは、可能に見えて、不可能なことだ。きっと。分かったところで、なににもならない。
 それに。鈴乃は思った。
 自分の感情がどう働いていたかが分かっても、もう、なんの意味のないのだ。分かったところで、さつきは戻ってこない。羽継は戻ってこない。二人の、そして自分の人生も、やり直すことなど、できない。
 できるのは、ただ前に進むことだけ。
 無意識に煙草のパッケージに突っ込んだ指は、もうなにも掴めなかった。空だった。鈴乃は舌打ちした。気づかないうちに、足下に、かなりの数の吸殻ができていた。
 生垣から腰を上げた。やはり、タクシーが通りかかる気配はない。わざわざ、呼ぶ気にもなれなかった。五分ほど歩いたところに、バス停があった。そこから、バスに乗った。
 客の少ないバスだった。最後尾の、長く繋がった座席を、若い男女が占領していた。高校生くらいの年齢だ。手を繋いでいた。言葉は、少ない。が、二人の繋がりが、目に見えるようだった。
 同じ年くらいの頃か。鈴乃は思った。鈴乃と羽継の距離が、最も近かったのは。そう、もの思いにふけった。が、本当のところは分からない。既にその頃、羽継の心は、鈴乃から離れていたのかもしれない。そうではないかもしれない。
 若いカップルに、自分と羽継を重ねることで、思い出を美化したいのかもしれない。
 鈴乃は、短く溜め息をついた。くだらない。意味のないことばかりが、頭に浮かぶ。
 腕を組み、目を閉じた。そのうちに、眠りが訪れた。
 目を開けると、降りるべきバス停を二つ、過ぎていた。仕方なく、歩いた。
 口からこぼれる白い息を追いかけるようにして、鈴乃は呟いた。
「間抜け」
 本当に、間抜けだ。自分は。



つづく




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posted by 城 一 at 06:34| 長編小説 焔-HOMURA-[integral] | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月10日

ブログ小説 焔-HOMURA-[integral] 第59回

 酔いたかった。
 帰路の途中で、方向を変えた。<テレサ>に行った。行ってから、思い出した。先日の、自分の愚行を。遅かった。カウンターに向かい、スツールに手をかけてしまっていた。が、バーテンダーの顔を見て、安堵した。志津子ではなかった。若い男だった。鈴乃の、見たことのない顔だ。新しく、雇われたのだろう。鈴乃は、男のバーテンダーに、ビールを注文した。
<テレサ>には、少しの間しか、いなかった。ビールを二杯飲んで、やめた。酔えなかった。志津子に言った、自分の言葉が、酔いにブレーキをかけていた。
<トレディオ>という店は、パブ・スタイルの店で、座る場所は、ほとんどなかった。わずかにある椅子も、客は使わなかった。気前よく注いでもらった、ビールの入ったジョッキを片手に、皆、話に花を咲かせていた。騒がしい店だった。あまり、トレディオのような店は、好きではなかった。が、テレサのすぐ近くということで、鈴乃はその店を二軒目に選んだ。二、三人の男が、鈴乃に声をかけてきた。うんざりした。鈴乃は、トレディオでは、カクテルを一杯しか飲まなかった。
 結局、そのあとも、何軒か酒場をはしごしたが、腰を据えたくなる店は見つからなかった。特に、その夜は。酔いも、飲んだ酒の量に、全く比例せず、警察に検査を受けない限りは、素面で通せる状態だった。鈴乃は、店で飲むのを諦めて、終夜営業のコンビニに足を向け、大量に缶ビールとチューハイを買い込んだ。最初から、そうすればよかった、と思った。
 散らかり放題の部屋をそのままに、赤いビニール製、二人がけのソファに、倒れ込んだ。疲れていた。手当たり次第に、酒を空けた。酔いが訪れた頃には、眠気も手伝って、記憶は曖昧になっていた。シドのことを考えた。羽継、さつき、磐井のことを。志津子。
 自分と会って、笑っている人間は、少ない。羽継の笑顔が、一番大きかった。が、その一番大きな笑顔を見せてくれたのは、死ぬ直前の羽継ではない。もっと昔の、幼かった頃の、羽継だ。最初は笑っていても、すぐにそれらは消える。悲しみや、怒りの表情になる。男、女。性別関係なく、鈴乃と交流のあった人間のほとんどが、そうなった。意図したものではなかった。そうならない繋がりが、欲しかった。いつでも笑っていてくれる人間が、側に欲しかった。が、それを手に入れる方法が、分からない。
 誰かに、側にいて欲しかった。が、誰でもいい、というわけではない。行きずりの相手は、もう必要なかった。円テーブルの上に、「ネコの手」と名づけられたマカロフを置いた。さつきが最後に使った、口紅を置いた。弾倉の中に、口紅は入るかしら。入るわけがない。自分でも分かっていて、そんなことを呟いていた。実際に、試しもした。入らなかった。
 警察に電話した。鶴見を寄越せ、と言った。受け付けたのは、年配の男だった。警察が必要な理由を、鈴乃に尋ねてきた。鈴乃は、でたらめなことを並べ立てた。男は、鶴見という刑事は今、署にいないし、いたとしても、あなたの所に行かせることはできない、と言った。あたし、鶴見の弱みを握っているの、と鈴乃は言った。もちろん、男は取り合わなかった。浦口のことを尋ねた。浦口もいなかった。
「シドは?」鈴乃は言った。
「シド、ですか?」男は律儀にも、わざわざ電話を離れて、調べに行ったようだった。もしくは、酔っ払いには、実際に調べに行ったように見せかけた方が、効果的だと考えたのか。時間はかからなかった。男は戻って来て、言った。「そういう名前の人は、うちにはいないみたいです」
「当たり前よ。やくざだもの、あいつは」
 鈴乃は笑った。言葉を続けようとしたが、そのときにはもう、電話は切れていた。
 缶ビールに口をつけた。缶を、傾け過ぎた。中身が、口から溢れた。鈴乃は思わず、飲んだものを吹き出した。咳き込む。顔が、ビールまみれになってしまった。缶を投げた。壁にぶつかって、甲高い音を奏でた。
 仕方なく、着ていたものを全て脱いで、シャワーを浴びた。ビールを落とし、化粧を落とし、一日の汚れを落とした。頭の中を、鈍行列車のように往来している思い、考えは、落とすことができなかった。
 風呂から上がり、ベッドに入った。夢は見なかった。



つづく




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posted by 城 一 at 00:37| 長編小説 焔-HOMURA-[integral] | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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