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最近、自分がフリーメールを活用できない人間だってことに気付きました。

2008年11月13日

ブログ小説 焔-HOMURA-[integral] 第208回(9版)


アキ.


 目に痛いほどの赤い夕焼けが、窓から差し込んでいた。慶慎は目を細めた。

 かつて、文永と暮らしていた部屋にいた。明かりはついていない。強烈な夕日の光が差し込んでいるが、明るい感じはしない。陰になっている部分には既に、夜が訪れている。テレビがついていて、ドラマの再放送が流れていた。キャラクター性を重視した刑事もので、アイドルが演じる若い女署長が主人公の物語だった。ちょうど見せ場に入ったところで、女署長が犯人相手に決め台詞を吐いていた。どこにでも転がっている台詞だった。

 慶慎は、食卓についていた。ごみだらけのテーブルに。握り潰したビールの缶が、気だるそうな様子で、いくつも寝転がっていた。ビニール袋に押し込まれた、空のコンビニ弁当のケース。へし折られた割り箸。おにぎりのフィルム。食べかけのまま放置されて、乾ききった酒のつまみ。慶慎の正面には、幼い頃のケイシンがいた。彼は、テレビの音が聞こえなくなるほどのボリュームで泣きわめいていた。

「うるさいぞ」

 慶慎は言った。ケイシンは泣き止まなかった。慶慎はテーブルの上にあったものを叩き落として、もう一度同じ言葉を繰り返した。ケイシンはまるで聞こえないかのように、声を上げ続けた。慶慎はテーブルの上に身を乗り出し、ケイシンの頬に平手を叩き込んだ。

「うるさいと言ったぞ」

 ケイシンは身をすくめ、泣き声を押さえた。完全には収まらず、しゃくり上げることを続けた。おい。慶慎は言った。ケイシンはただ、静かに泣くだけで返事をしない。おい。もう一度言う。やはりケイシンは何も言わない。慶慎はさっきよりも大きく振りかぶって、ケイシンの頬を叩いた。ケイシンはこらえきれず、椅子から床へと転がり落ちた。慶慎は力任せにテーブルを脇に押しやり、ケイシンの顔を覗き込んだ。

「泣いていれば、誰かが手を差し伸べてくれると思ったら、大間違いなんだぞ」

 ケイシンの顔が恐怖に歪み、そしてまた、泣き声が始まった。部屋全体に響き渡るような泣き方だった。

「黙れ」

 ケイシンは黙らなかった。慶慎はケイシンの顔面に、拳を叩き込んだ。鼻血が飛ぶ。泣き声は止むどころか、これまでで一番ひどくなった。二度、三度と拳を叩き込んだ。やはり止まない。攻める場所が悪いのだ。慶慎は思った。ケイシンのみぞおちに、つま先を食い込ませた。ケイシンは気味の悪い声を発して、吐いた。声にならない呻き声を出していた。息ができていないようだった。だが、とにかく静かになった。慶慎は椅子を引き寄せ、座った。

「吐いたものは、自分で始末しろよ」

 台所で、炒めものをする音がしていた。見ると、例の名前を知らない少女がいた。

「よかった」慶慎は言った。「無事だったんだね」

「まあね」少女は言った。白いエプロンをつけて、フライパンを操りながら、肩越しに慶慎に視線を送る。「今、野菜炒めを作ってるんだけど、嫌いな野菜があったりする?」

「いや」

「そう。よかった」

 ケイシンがむっくりと起き上がり、何も言わずに洗面所へと向かった。濡れた雑巾を持ってきて、自分が吐いたものを拭き取った。一度では床を綺麗にできず、ケイシンは何度か洗面所と床を往復し、雑巾を洗っては床を拭いた。それが終わると、テーブルを元に戻し、うつむいたまま、椅子に座った。

「お前がもっとしっかりしていれば、こんなことにはならなかった」

 慶慎は言った。ケイシンは何も言わず、ぽろぽろと涙をこぼした。慶慎は舌打ちした。話にならない。こいつと話していると、精神衛生上、良くない。テレビに目を向けた。ドラマはもう終わっていて、ニュース番組が始まっていた。女性のニュースキャスターが、カナジョウ市で連続して起きている放火事件を伝えていた。今のところ、全部で五件起きていて、ついに死人が出たということだった。そのままニュースを見ているうちに、料理ができた。少女は、テーブルの上に二人分の皿を並べた。彼女と、慶慎の分。ケイシンの分はなかった。ケイシンは少しだけ涙の勢いを強めて、呟くように言った。

「僕も、お腹減った」

 慶慎は言った。

「お前は何の役にも立たなかった。泣いて、うずくまって、びくびくして、ただあの人の暴力に耐えただけだ。その結果、もっとひどいことになった。僕は人を殺して生計を立てていくしかなくなった。そして、数えきれないほどの人の怒りや憎しみを買った。そして、大事な人を殺された。そして」

 少女が慶慎の肩に手を置いた。慶慎は言葉を止めた。ケイシンはやはり、ただ何も言わずに涙を流すだけだった。

「お前に食わせるものなんて、何もない」

 慶慎は言った。少女とともに、食事を始めた。

「おいしいよ」慶慎は言った。「料理、うまいんだね、君」

「ありがとう。でも、ねえ? いい加減、呼び方が君じゃあ、味気ないと思わない?」

「そうかもしれない」

「あたしには、名前がないの。だから、あなたがつけてくれない?」

「いいのかい?」

「あなたがつける名前なら、何だって」

「そう」

 慶慎は箸を止めて、しばし考えた。そして言った。

「アキって言うのは?」

 少女が微笑んだ。

「いい名前。アキ」彼女は味見するように、名前を呟く。「いい響き」

「だめ」ケイシンが言った。表情を強張らせて、どうにか恐怖を押さえ込みながら。「それだけは、だめ」

「どうしてだ?」

 慶慎は言った。ケイシンは押し黙り、萎縮したようにうつむいた。慶慎は手元にあった、水の入ったコップをケイシンに投げつけた。ぎゃっとケイシンが悲鳴を上げる。ケイシンは危険を察知し、コップがぶつかった額を押さえながら、一目散にその場から逃げ出そうとする。慶慎はその襟首を後ろから摑み、床に引き倒した。顔を殴る。また、泣き声が始まる。殴る。

「どうして、彼女の名前がアキじゃだめなんだ?」

 ケイシンは答えない。慶慎も、答えを期待してはいなかった。ただ、殴り続ける。ケイシンの口許が鼻血で真っ赤に染まる。そして、いつの間にか、部屋の中で聞こえるのが、テレビの音だけになっていることに気づく。ケイシンは、気絶していた。

「どうする?」少女が言った。「別の名前が思いつくまで、待とうか?」

「なぜ? 君は、アキだ。それ以上に、君にぴったりな名前はないよ」

「そう」

 アキ。慶慎はそっと、彼女を呼んでみる。「なあに、ケイちゃん」。アキが言う。二人は顔を見合わせ、理由も分からずにくすくすと笑った。何度も名前を呼び合っては、そうやって静かに笑い続けた。

つづく




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posted by 城 一 at 01:22| 長編小説 焔-HOMURA-[integral] | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月10日

ブログ小説 焔-HOMURA-[integral] 第207回(4版)


バイバイ。


 ふざけるな。

 慶慎は全身に力を込めた。四肢を縛る縄が張り詰める。だが、それだけだった。切れたりはしなかった。体を揺らす。肘掛けを破壊した、あのときのように。だが、スチール製のアームチェアは、きしきしと音を立てただけだった。縄の上から巻かれた鎖が、衣擦れのように柔らかい金属音を奏でた。それだけだった。状況は、何も変わらなかった。

 安希が拘束を解かれた。すぐさま彼女は逃げ出そうとしたが、誰かに足を引っ掛けられて、転んだ。人垣に包み込まれる。無数の手が、彼女に向かって伸びる。安希の衣服が破れ、剥がすようにして奪われる。抱き締めるようにして、自らの体に両腕を巻きつけた、下着姿の安希を、誰かが笑った。慶慎は吼えた。縄が体に食い込んだだけだった。紙切れのように、安希の白い下着が剥ぎ取られた。彼女の華奢な裸体がさらされる。

 やめろ。

 慶慎は叫んだ。誰も、振り向きさえしなかった。

「やめさせてよ」慶慎は、リタに言った。「お願いだ。僕は、どうなってもいいから」

「そういう言葉は、相手の手中に収まっていない人間が言うことよ。自由を奪われ、月並みな表現だけれど、相手の煮るなり焼くなり好きにできる状態にある人間が言っても、何の意味もないわ。つまり、あなたに交渉に使えるカードはない。あなたはそこで、指をくわえて見ていることしかできないのよ。あなたにとって、最も優先順位の高い彼女が犯されるさまをね。もっとも、今のあなたには指をくわえることもできないわけだけれど」

 安希が悲鳴を上げた。握り潰そうとするかのように、誰かの手が、彼女の乳房に伸びていた。彼女の股間に伸びた手も同じだった。およそ愛撫とはかけ離れた荒々しさで、安希を弄ぶ。痛いと安希が叫んだ。誰も手を止めなかった。

 慶慎は強引に両腕を動かした。縄で皮膚が擦り切れ、血が流れた。構わなかった。腕を動かし続けた。縄が肉に食い込み、肘掛けが血で染まった。状況は何も変わらなかった。椅子に縛り付けられたまま、安希が犯されるさまを見ていることしかできなかった。

「もう嫌だ」慶慎は言った。頬を伝う涙とともに。「こんなのないよ」

『だから言ったのに。外は怖いって』誰かが言った。

 安希が体をのけぞらせた。少年の一人に、ペニスで貫かれていた。悲鳴をほとばしらせる安希の口にも、他の少年がペニスを突き入れる。誰かが彼女の肛門を試そうとし、実行に移した。安希の周囲を取り囲む者たちの何人かは、自分で自分のペニスをしごいていた。安希を犯していた少年が、腰を震わせた。彼が離れると、安希の膣から精液がこぼれた。すぐに、他のペニスによってふさがれた。

 もう嫌だ。

 慶慎は安希から目を逸らした。瞼を閉じた。だが、安希が犯される映像からは、逃れることができなかった。目の前で起きている光景は瞼の裏まで潜り込み、頭を侵した。涙がいくら膜を張ろうとも、無駄だった。

 もう嫌だ。

 どうしてこんなこと。誰に向けているのかも分からないまま、慶慎は叫んだ。

 リタが、慶慎の耳元に唇を寄せて、囁いた。

「昔々、あるところに、パメラ・ブラウンという女がいました。どこにでもいる大学生だった彼女は、ありふれているけれど、でもかけがえのない幸せな日々を送っていました。妻子のある教授と不倫していたけれど、いずれ妻と別れるという彼の言葉を信じていたし、少し罪悪感で胸は痛んでいたけれど、満たされていました。ところが、そんな幸せな日々がある日、音を立てて壊れました。同じ大学に通っていた彼女の弟が、大学で銃の乱射事件を起こしたのです」

 見知らぬ少女が、慶慎の傍らにいた。いや。慶慎は思った。彼女には、見覚えがある。だが、思い出すことができなかった。リタは、少女の存在に気づいていないようだった。少女は、安希の様子を眺めながら言った。

『こんな世界に、何の意味があるの? ここには、苦痛しかない。留まる意味なんか、一つもない。これが現実? だからどうしたって言うの? なぜ、死よりも辛い思いをしてまで、現実に生きなきゃならないの?』

「パメラは、弟がどうしてそんなことをしたのか、分かりませんでした。警察に、いくら事情を訊かれても、答えることができませんでした。心ない刑事が言いました。“お前にも、同じ血が流れてるんだ。あの正真正銘の、くそったれの血がな。いいか? もし魔が差しても、今度は大学での銃の乱射は省略するんだぜ? お前が、やつみたいに自殺するのはいたって構わないからな”。そう、パメラの弟は大学でたくさんの人を殺したあと、自殺したのでした。パメラの恋人である教授は、パメラの弟が殺した人たちの中の一人でした。両親は、息子が犯した罪の重さに耐え切れず、間もなく揃って自殺しました。パメラは、どうすればいいのか分かりませんでした。悲しみたいのに、悲しむ場所がありませんでした。彼女の気持ちに共感してくれる人はいませんでした」

『君はもう、十分頑張ったよ。他の人の何倍も、苦しみに耐えた。辛いことに耐えた。何倍も涙を流した。これ以上、ひどいことをする現実なんかに、向き合う価値なんかない』

「弟が起こした事件からしばらくして、パメラは知らない人たちに拉致され、監禁されました。彼らは、パメラの弟のせいで片目の視力を失った人の友だちでした。彼らはパメラに贖罪を求めました。パメラは何度も謝りました。けれど、彼らは許してくれませんでした。パメラに暴力を振るい、そして犯しました。何日もの間、けだもののように。パメラは、何かが壊れる音を聞きました。心が壊れたのだと、彼女は思いました」

 安希の声が聞こえなくなった。彼女は失神していた。だがそれでも、少年たちは安希を犯し続けた。取り憑かれたように腰を振り、射精した。力なく、ただ彼らの思うように操られる安希は、まるで人形のようだった。だらしなく開いた彼女の口からは、誰かが放った精液が滴っていた。

「自分が犯されることで、傷ついた人の気が済むのなら仕方ない。そう思っていたパメラでしたが、あるときふと気づきました。彼女を犯す者たちの中には、彼女の弟が起こした事件で実際に傷ついた人はいなかったのです。彼らは好きなだけ彼女のことを犯したあと、事の始末をどうするか考えました。そして出した答えが、彼女を殺すことでした。“ふざけるな!”。パメラは思いました。どうにか彼らの下から逃げ延びたパメラは、地元のギャングを誘惑しました。自分の体を、ギャングたちの好きなようにさせました。もう、犯されることには慣れてしまっていました。愛してもいない人に犯されて、傷つくこともありませんでした。パメラはギャングたちに好きなようにさせた代わりに、復讐と偽って彼女を拉致、監禁し、痛めつけ、犯した者たちを皆殺しにさせました。そしてそのあとで、ギャングたちを自分の手で皆殺しにしました。パメラにはもう、怖いものは何もありませんでした。心が壊れた自分は、もう二度と傷つくことはないのだから。パメラは新しい自分に名前を付けました。リタ・オルパートと」

 少女が、慶慎の前に立った。安希が見えなくなる。

『あんなの、見る必要ないよ』

 リタが、慶慎の目を覗き込んで言った。

「心は死んだと思っていた。だが、お前が現われた。そして、松戸孝信を殺した。男を殺されることには、もう慣れていたはずだった。そんなことになっても、何も感じないはずだった。だが違った。死んでいたはずの心がまた、活動を始めるのが分かった。わたしに、苦痛を与えるために。お前には、この落とし前をつけてもらわなければならないのだ、風際慶慎」

 慶慎は何も言わなかった。少女が、手を差し伸べる。

『ほら、行こう。現実なんかには、お別れして』

 慶慎は、少女の手を取った。本当は、そんなことできないはずなのに。四肢は縄と鎖で縛り付けられているはずなのに。

「そうだね」慶慎は言った。視線はリタの顔を捉えていたが、本当の意味で見てはいなかった。「バイバイ」

つづく




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posted by 城 一 at 03:06| 長編小説 焔-HOMURA-[integral] | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月05日

ブログ小説 焔-HOMURA-[integral] 第206回(4版)


仕上げ.


「サニー・フゥ」

 慶慎は答えた。「あなたにとって、岸田海恵子の次に優先順位の低い人間は?」という、リタ・オルパートの問いに。考える時間は必要なかった。既に、答えは出していた。どうせ殺されるのならば、早いに越したことはない。それだけ、彼女が受ける苦痛は減るのだから。優先順位を付けることなど、本当は簡単だった。それを、口にする勇気がなかっただけだ。命に優先順位を付け、死刑の宣告をし、罪を背負う勇気が。

 自分の名前を呼ばれたサニーは、思いつく限りの罵倒の言葉を吐いた。慶慎に向かって。慶慎は黙って受け止めた。サニーにしてやれることは、それくらいしかなかった。サニーが吠え立てる間、誰も口を開かなかった。彼女のヒステリックな声だけが、壁や天井に反響していた。慶慎は、どこかで、誰かが助けに来ることを祈っていた。自分が、サニーの命を切り捨てた事実を、消すことはできない。だが、彼女の命が助かるのならば、それはどうでもいいことだ。どれだけ軽蔑されようと、その相手が死んでしまうよりはいい。だが、誰も来なかった。

 リタが手で合図をした。ヨシトは頷きもせず、拳銃の弾倉(シリンダー)の中身を確認した。表情は見えない。彼はまた、フルフェイスのヘルメットをかぶっていた。そうやって、世界に対してフィルターをかけているのだろう。慶慎は思った。だが、しかし。フィルターをかけなければ人を殺せないのなら、引き金を引くべきではない。口には出さなかった。一方通行でしかない道で言葉を紡ぐことに、疲れていた。

 ヨシトは、サニーのこめかみに銃口を突きつけた。サニーは金切り声を上げ、泣き叫んだ。彼女の声は、その場にいたほとんどの者たちの鼓膜を、串刺しにした。まるで凶器だった。皆、顔をしかめ、びくんと体を震わせた。サニーがいるのとは逆方向へ頭を傾げ、少しでも彼女から距離を取ろうとした。静寂の世界に住むヨシトには、関係のないことだった。ヨシトは無言のまま、拳銃の引き金を引いた。

 サニーは銃弾をかわした。いや、かわそうとした。サニーの体は、電流でも走ったかのように、小さく跳ねた。弾が発射される寸前に体を捻ったサニーは、銃弾に後頭部をえぐられていた。血が飛散する。サニーは、アームチェアに拘束されたまま、前方に向かって床に倒れた。力なく開いた口から、囁くように声が漏れていた。何と言っているのかは、分からなかった。言葉になっていなかった。ヨシトの手が体にかかると、彼女はかすれた悲鳴を上げた。あまりにも響きが弱すぎて、空気が喉を通るときに立てる、ただの音と称しても差し支えないような悲鳴を。そして、体をよじり、床を這ってヨシトから逃げようとした。できるわけがなかった。ヨシトはサニーの背中を踏みつけ、引き金を引いた。弾倉が空になるまで。三、四発目で既に、サニーの命が失われたのは明らかだったが、ヨシトは引き金を引き続けた。ヨシトが撃つのをやめるまでに、銃弾が持たなかったと言ってもいい。事が終わり、ヨシトは手間をかけさせたことをなじるように、サニーの死体を蹴りつけた。

「ヨシト」

 慶慎は言った。ヨシトは返事をしなかった。彼の視界の中に、慶慎はいなかった。

 リタはサニーの側に膝を突き、あるはずのない脈を確かめるように、その首を指で触った。指同士を擦り合わせて、付着した血を伸ばし、煙草をくわえて火をつける。リタは言った。

「変な気を起こさなければ、もっと綺麗な体でいられたのにね」

「気が済んだか」

 慶慎は言った。リタと視線を交わす。彼女はただ、唇をすぼめて煙を吐き出しただけだった。慶慎は続けて言った。

「優先順位を付ければ、最後に残った人のことは助ける約束だ」

「ええ」

「安希を解放しろ」

 リタは首を傾げ、煙草を吹かし続けた。

「リタ」慶慎は言った。

「一つ」リタは言った。「敵対する人間との約束を、信じるべきではない。すがるべきでもない。一つ。わたしがあなたに約束したのは、最後に残った人間の解放ではない。この茶番の終わりでもない。最後に残った人間の命よ。あくまでもね」

「ふざけるな」

「残念だったわね」

「これ以上、何をするって言うんだ」

 リタは、<ナンバーズ>の一人を呼び寄せた。

「有志は集まっているかしら?」

「<アンバー・ワールド>の七割強と、<ナンバーズ>の人間が少々」

「あら」リタは悪戯っぽい微笑を口許に浮かべた。「<ナンバーズ>の子は、あまり下品なことは好きではないと思っていたのだけれど」

「十人十色、というやつですね」

「あなたは?」

「俺は遠慮しておきます、ミス・オルパート。下品なことが好きではない連中の一部なので」

「そう」

「本当に、やるんですか?」

「報復の一部だからね」

「俺には、これが報復だとは到底思えませんが」

「その考えも、否定はしないわ。見たくなかったら、この場にはいない方がいいわ」

「そうします」

「彼らのこと、呼んできてくれる?」

「分かりました」

 そう言って、リタと言葉を交わした者を含め、<ナンバーズ>の大半が姿を消した。そして、姿を消した者をはるかに上回る人数の<アンバー・ワールド>が現われた。<ナンバーズ>と<アンバー・ワールド>の違いは、服装が統一されているか否かで分かる。そのうちの一人が言った。

「安心しましたよ、ミス・オルパート」

「何が?」

「最後に残ったのが岸田海恵子だったら、俺たち、待った分だけ損をした気分になる」

「そうね」

「何をする気だ」慶慎は言った。

「簡潔に表現すると」リタは煙草の煙を輪にして吐いた。「レイプよ」

つづく




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posted by 城 一 at 01:07| 長編小説 焔-HOMURA-[integral] | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月02日

ブログ小説 焔-HOMURA-[integral] 第205回(5版)


きっと、あなたと同じね。


 リタは、新しい煙草の箱を開けた。カートンで二つ買っていたものが、いつの間にか最後の一箱となっていた。慎重に火をつけ、吸い込んだ。

 カナジョウ市地下街<ホープ・タウン>の最奥にあった、おそらく服屋になる予定であったのだろう場所――店頭のショウウインドウに、裸のマネキンが置いてあった――に引きこもっていた。慶慎の監禁部屋に仕掛けた監視カメラ。それに対応した数だけテレビを用意して、店の中に積み上げた。眠るつもりだったのだが、いつしか画面の向こう側にいる慶慎の表情に心奪われ、見入ってしまっていた。慶慎の表情は死に始めていた。そしてさらに顕著なのが、彼の目から失われていく光の量だ。同じ過程をたどっていく目をかつて、鏡の中に見たことがある。完全に光を失った目は、どんなに空で太陽が強く照りつけていても、輝かなくなる。

 休息を取ったあとで、一度心配してやって来たアイザックは、眠らずに慶慎を見ていたことに怒っていた。少しだけ。たぶん、彼への嫉妬も混じっているのだろう。これほど強い関心を、アイザックに寄せたことは今までにない。アイザックは言った。

「まだ続けるのかい?」

「もちろんよ。なぜ?」

「彼はもう、限界のように見える」

 アイザックの口から、そのような言葉が出たのは意外だった。慶慎への拷問を続けるのは、当然のことと思っていた。慶慎はもはや光の届かない闇の中にいるが、それでもまだ底に着いていないことが分かっていた。アイザックには、それが分からないらしい。他の者もそのようだった。<ナンバーズ>たちも、そろそろ慶慎のことを殺してやったらどうかなどと言っていた。論外だと彼らの言葉を一蹴した。考えてみると、自分の計画(プラン)の中には、慶慎の死は組み込まれていないのかもしれないとも思った。少なくとも、こちらから与える死は。どういう手段を取るにせよ、慶慎が自ら死を選び、実行に移す未来を思い描いた。悪くはない。そう思った。だが、やはり落ち着かない自分がいる。

「わたしは、何を求めてるのかしら」

 そう独り言ちた。誰も答えなかった――店の中には誰もいなかったのだから、当然のことだが。辺りに満ちた静寂は答えを知っていそうだったが、聞き出す方法が分からなかった。

 医者に、サニー・フゥと市間安希の治療をやらせた。爪を剥がし、指を何本か切断したのだ。細心の注意を払って、治療にあたらせた。慶慎を、闇のより深い場所へ引きずり込むために、彼女たちにはまだ役立ってもらわねばならない。彼女たちの管理は、慶慎に対するそれよりも慎重に行った。曲がりなりにも、一度は<カザギワ>に殺し屋として雇われた少年だ。慶慎は頑丈(タフ)だった。だから、見張り役の者に痛めつけられていても、度が過ぎるまでは放っておいた。

<ホープ・タウン>には、催事のために舞台(ステージ)と広場が用意された場所があった。アンバーは仲間とともに機材を持ち込み、そこでライヴをやっていた。アンバーを通じて、<ホープ・タウン>に集まる者たちにはドラッグを配っていた。既に、モラルがほとんど残っていない連中だったが、そこからさらに正常な思考を奪う。依存という名の鎖が、彼らを問答無用で繋げておくことを可能にする。連帯感を与えるために、<カザギワ>に対する正義という言葉を使ったが、長い時間を連中とともに過ごすつもりはなかった。どんな結末になるにせよ、慶慎を手元に置いておく間だけ持てばいい。

<アンバー・ワールド>の少年を一人呼び、誘惑した。所詮、子どもだ。踏み止まる理由も知恵も、規律(ルール)も持ち合わせていない。容易に堕ちた。若さ故の激しさしかない腰の動きに膣を突かれながら、画面の中の慶慎を見ていた。慶慎とのセックスを想像した。それが引き金になり、達した。悪くはないかもしれないと思った。間もなく、少年も達し、射精した。誘惑するのに交わした言葉が初めてだったのにも関わらず、少年は何を思ったか、愛の言葉を囁いていた。返事はしなかった。少年が脱いだ服を再び身に付けているところに後ろから忍び寄り、銃で頭を撃ち抜いた。<ナンバーズ>を呼びつけて、死体の処理をさせた。

<ナンバーズ>が死体の処理を終え、いなくなるのを待ってから、慶慎の監視に戻った。つい先ほどまで突き上げられていた下腹部に手のひらをあてた。熱を持ってはいるが、そこにはもう松戸孝信はいない。ならば、誰がいるのだろう? 分からなかった。

「きっと、あなたと同じね、坊や」

 画面の中の慶慎に向かって言った。慶慎は何も言わなかった。

つづく




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posted by 城 一 at 22:12| 長編小説 焔-HOMURA-[integral] | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月31日

ブログ小説 焔-HOMURA-[integral] 第204回(3版)


終わりがない戦争では。


 浦口へ引き渡す十人の選出は、磐井に任せるつもりだった。だが、断られた。

「理屈は分かる。だがそいつは、その刑事の提案を呑んだお前がやれ」

 殴られるものと思っていたが、そうはならなかった。磐井の表情は明らかに、そうしたいと望んでいたが。

 磐井に言われた通り、選出は自分で行うことにした。資料越しとは言え、構成員たちの働きには注意を払ってきた。短いが、密度の高い時間を。淀みが生じている部分は既に見つけていた。それに準じて、優先順位をつければいい。彼らのプライヴェートな側面は知らないし、磐井とは違い、個人的な繋がりに煩わされることもない。決断に時間は必要なかった。浦口は驚いていた。

「やり口は素人くささが残ってるが、判断の速度は俺たちを遥かに上回るな」

「走る距離が短いと分かっていれば、切り捨てられるものがたくさんある。それだけですよ」

 話のついでに、浦口から警察の捜査の仕方についてレクチャーを受けた。今までやってきた方法と大差ないようだった。洗練されているか否かの違いだけだ。それも、人の感情や高慢さが歪めている部分が多々あるようだった。

 一度、倒れた。高熱と睡魔に意識を奪われた。医者を呼び、点滴を受けた。三時間眠った。誰もが、もっと睡眠を取るべきだと言った。聞き入れなかった。それが、せめてもの報いだった。短い時間とは言え仲間を十人も失い、それでも指示通りに動き続けている磐井たちへの。

 目撃者の捜索にあたらせていた神田という男から、有力な目撃者が見つかったとの連絡が入った。これから尋問をするが、特に訊いておいてもらいたいことはあるかと。磐井から、神田の気性の荒さは聞いていた。自分が直接話を聞くからと告げ、場所を尋ねた。アンバーの恋人が死んだ現場近くの、<ピザ・コパフィールド>というピザ屋だった。ストリップ小屋を出て、車を走らせた。

 正午間際だったが空は雲に覆われており、鬱屈した白色に染まっていた。光が少なく、明るさだけでは時間帯が分からなかった。昨夜から降り続けている雪が、街に化粧を施していた。道中聞いたカーラジオの天気予報によると、降雪はしばらく続き、積もるとのことだった。

 神田が言った<ピザ・コパフィールド>のドアには、昼間なのにも関わらず、“準備中”の札が掛かっていた。鍵がかかっていて、開かなかった。ガラス製のドアを通して店内が見えたが、明かりはついておらず、誰もいない。携帯電話で神田と連絡を取った。裏口から入るように言われ、そうした。店内は薄暗く、正面入り口やその他窓から入る光などで、どこに何があるのか、かろうじて視認できる程度の明るさしかなかった。誘導灯が、頭上で淡い緑色の光を発していた。チーズや、焼けた生地の香ばしいにおいがした。神田の名前を呼んだが、返事はなかった。違和感。自動拳銃(ピストル)を抜き、薬室に銃弾を送り込んだ。中身がぱんぱんに詰まった、可燃ごみ用のごみ袋が床に放置されていた。ピザを入れる紙製の箱が落ちていた。落書きでスペースがいっぱいになったホワイトボードが、壁に掛かっていた。誰かと誰かが三目並べをした形跡があった。美青年のイラストが、胸部まで描いたところで中断されていた。調理場の入り口の前で、もう一度、神田に電話をかけた。どこかから着信音が聞こえたが、すぐに切られた。調理場の中からだった。ドアを蹴り開け、調理場の中に体と銃口を突き入れた。ステンレス製の作業台の上で、神田が焼きたてのピザを食べていた。ワインレッドに染め上げた皮革製のジャケット。派手な柄の入ったシャツ。擦り切れそうなほど色の薄いジーパン。白のローファー。首にはマフラーを巻いていた。頭部と顔を上下に分けるようにして、額を横切る、大きな古い傷跡がある。本人にはそれを隠す気はなく、髪を短く刈って坊主にしている。片手をポケットに突っ込んで、ピザを咀嚼しながら、神田が「よう」と言った。銃口は下ろさなかった。左右から、二人の男に自動拳銃を突き付けられていた。他にも数人が、暗がりに潜んでいた。皆、見覚えがあった。磐井の仲間たちだ。

「どういうことなのか、説明してくれますか?」

 神田は指に付いたソースを舐め取り、両手を広げて肩をすくめた。ジャケットの下に、ショルダーホルスターと、それに収まった自動拳銃が見えた。

「その前に、銃口の数で負けた場合に、やることがあるんじゃないのか?」

 銃を床に捨てた。男の一人に、ガムテープで後ろ手に縛り上げられた。背後から腰を蹴られ、床に転がる。神田は男の一人に火をつけてもらい、煙草を吹かしていた。神田に腹を踏まれた。

「先の質問に対する答えだが」神田は言った。片手で煙草を吸い、片手でピザを食していた。右足だけで踏んでいたところに、さらに左足を乗せ、そして床に下りた。視線はくれず、まるでこちらが存在しないかのようだった。神田は作業台の周囲を、ゆらゆらと歩いた。「それはこっちの台詞だと言わせてもらう。どういうことなのか、説明してくれよ」

「浦口に、仲間を十人引き渡したことですか」

 バーバーの所へ戻って来た神田のつま先が、腹に食い込んだ。

「お前が仲間と言うのは気に入らないが、そうだ」

 説明した。必要だったと言った。神田は納得しなかった。袋入りのタバスコの封を破り、瞼をこじ開け、右目に垂らされた。針で突かれたような激痛に、眼球が襲われた。

「それが必要かそうでないかは、俺たちが決めることなんじゃないのか?」

「浦口の提案を断れば、街で動けなくなる可能性がありました」

「即決できたのは、お前が俺たちのことを仲間だと認識していないからに他ならない」

「違う」

「どの口が言うかね」

 腕を掴んで持ち上げ、投げられた。作業台の上を転がり、床に落ちる。トッピング用の、まだ冷たい円形のサラミやコーン、スライスしたトマト、小さく裁断したチーズが一緒に落ち、床に散らばった。左の眼球にタバスコを垂らされた。神田が言った。

「お前は、<アンバー・ワールド>に都合のいいことをしている。俺たちの人数を減らし、やつらに膨れ上がる時間を与えている。浦口が<ミカド>でない保証は? 仲間はいつ帰ってくる? だいたいからして、お前の言う浦口との取引の内容が正しいかも分からない」

「僕が敵だと?」

「状況が、そう告げている」

「そう思うのなら、なぜすぐに殺さないんですか」

「磐井は一応、お前に信頼を寄せてるからな。無闇に殺せば、やつの不信を買う」

 立てた膝で目を擦った。タバスコを拭うつもりだったが、逆効果だった。痛む部分が広がり、涙の膜が厚くなった。涙がタバスコを洗い流してくれることを期待して、待つしかなさそうだった。ぼやけた視界を神田に向け、言った。

「何が望みなんですか」

「シドさんがいなくなった今、俺たちの中心にいていいのは磐井だけだ」

「結局はそれですか」言った。「あなたたちはただ、僕のことが気に入らないだけでしょう」

「否定はしない」神田が、ショルダーホルスターから銃を抜いた。銃口を顎の下にあてがわれる。「さ、指揮権を完全に磐井に委譲すると言え」

「ノー」

「最悪、磐井の不信を買う危険を冒してでも、この引き金を引くことになる。それに、やつが信じようが信じまいが、お前を撃たなければならなかった理由くらい、山ほど思いつける」

「くだらなくて反吐が出ますね。あなたたちのような人間は、面子や誇り(プライド)で容易に方向を失い、当初の目的を忘れる」

「何?」

「あなたたちは、何のために磐井さんとともに<ツガ>を抜けたんですか?」

「それは」

「シドさんの敵をとるためだ。そうでしょう? それを、たかが年下で新入りの人間が自分たちの指揮を執ったくらいで脇に置く。忘れ去る。そういう人間は、<ミカド>には勝てない」

 髪を鷲掴みにし、食器棚に打ち付けられた。

「自重という言葉を覚えた方がいいな、クソガキ」

「<ミカド>なんていうのは、妥当な理由を持った人間は一部しかいないものです。他は、そういった人たちの尻馬に乗って正義を気取りたいだけの、薄弱な自分しか持っていない人間たちです。しかも、後者の方が圧倒的に多い。怒り、悲しみ、正義への憧れ。感情を感染経路にしたウイルスみたいなものだ。そういった連中を敵に回すのに、自分たちも感情で動く? 愚の骨頂だ。常に設定した目的を最優先にし、感情を押し殺し、合理性の下に生きなければ、連中には勝てない。いや、何をしようと勝つことは難しいかもしれない。勝とうとすることさえ、敗北を呼ぶ。死を招く。ならば、どうするか。目的のためだけに動き、生きるしかない」

「言っている意味が分かりかねるな」

「終わりがない戦争では、勝つことはできないという話ですよ」

 携帯電話が鳴った。バーバーのものだった。神田が取り、通話ボタンを押して差し出してきた。ディスプレイにはダンクの名が表示されていた。神田に言った。

「いいんですか?」

 神田は口許を歪めただけで、何も言わなかった。携帯電話に、顔の左側を押し当てた。ダンクの声が聞こえてきた。体調が悪いのにも関わらず、外を出歩いていることを心配していた。今いる場所を訊いてきた。神田を見たが、やはり何も言わず微笑をたたえるだけだった。特に体調には問題がないことを告げ、「じゃあね」と言い、携帯電話から顔を離した。神田はこちらを一瞥してから、電話のボタンを押して通話を切った。神田は言った。

「俺はお前に、何も強要しなかった」

「そうですね」

「なぜ、やつに助けを求めなかった?」

 肩をすくめた。

「別に、ダンクは光の速さで移動できるわけじゃない。助けを求めたところで、あなたたちが僕を殺すことを決断すれば、ダンクは到底間に合わない。助けを求める言葉がむしろ、あなたたちの決断の呼び水になってしまうかもしれない。それにあなたたちは、この場面でダンクに頼ると、僕が一人じゃ何もできないガキだとレッテルを貼るタイプの人間だ」

 神田は口角を上げた。

「俺たちのことを、よく観察してるらしい」

「だてに、磐井さんから指揮権を取り上げたわけじゃないですよ」

 神田が、挑むように顔を近づけてきた。退かずに視線を返した。神田が笑った。

「俺たちが当初の目的を忘れているとは、的を得た指摘だ」

「ええ」

「目的のためには、お前の指示を仰ぐというのが、最良の選択なんだな?」

「そうでなければ、わざわざ、あなた方の反感を買うことが分かっているのにも関わらず、あなた方の上に立とうとなんか、しませんよ」

 神田が懐から取り出したナイフで、両手を縛るガムテープを切断された。

「小屋まで送る」神田が言った。「もう少し、お前の指揮を信じることにする」

「それはどうも」

つづく




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posted by 城 一 at 08:12| 長編小説 焔-HOMURA-[integral] | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月29日

ブログ小説 焔-HOMURA-[integral] 第203回(6版)


そうでなければ困ります。


 磐井の用意した場所は、元はストリップ小屋として使われていた建物だった。<ツガ>の所有物で、いずれ他の用途で使われる予定だったが、テナントはまだ見つかっていなかった。建物を使う許可は、磐井が蓮から取り付けた。自分のときと、対応がやけに違う。こぼすリヴァに、磐井は「築いた信頼の差だな」と笑った。

 かつて、踊り子の控え室だった部屋を使った。部屋の一辺を全て使って作られた化粧台に、パソコンを並べた。磐井の部下から、パソコンの扱いに長けた者を選び、そこに配置した。椅子は、元からあったスツールを使った。もはや白とは呼べないほどくすみ、汚れた合成皮革製のカバーに、スポンジを仕込んだものだ。ものは、必要最低限あればいい。環境の改善に費やす時間などなかったし、作るつもりもなかった。パソコンと同じ数だけ、電話を用意した。キーボードを叩きながらでも、電話に応じることはできる。磐井の部下たちは、時間帯に関わらず、全員動かし続けた。慶慎の命が、リタ・オルパートの意志一つで、失われるかもしれない状況だ。既に猶予はなかった。食事と睡眠に割く時間も与えなかった。目的が同じ方向にあれど、磐井の部下たちに対して有効な求心力が、自分にあるとは思えなかった。直接酷使すれば、折角手に入れた駒たちが離れていく可能性があった。間に磐井を置き、命令は彼に出させた。

 バーバーが陣取ったのは、ストリップ小屋のメインとして使われていたホールだった。客席の椅子は全て、ダンクに店の外へ運び出してもらった。リヴァはいない。彼は、磐井の部下たちと同じく、前線で動いていた。

「じっとしてると、悪い方にばかり、頭が働いちまうんだ」

 リヴァは、そう言っていた。ダンクも、彼と一緒に行かせた。

 ホールの中央に、鍵穴のようにせり出したステージがあった。そこに座り込んだ。入ってきた情報は全て紙に出力させ、客席があった場所に敷かせた。パソコンの小さな画面に付き合っている暇はない。視覚的なものは、視界の中にありさえすれば、全て吸収できる。マウスを操る時間、大小何であれ、体を動かす労力を、全て思考の回転に回した。小さな浪費も、積み重ねれば大きなエネルギーになる。行動を始めてから十二時間強で、床は、情報を出力した紙片で埋まった。

 構成員の一人に言われ、熱を計ると、三十八度を超えていた。額に、ジェルの詰まった冷却シートを貼り、風邪薬を服用した。栄養ドリンクも併用した。休息は取らなかった。限界が来れば、体が勝手に倒れる。食事は、パックに入ったゼリーで済ませていた。磐井に言われてからは、それを三つにした。思考にも、体力の回復にも、エネルギーは必要だった。パック三つ分のゼリーなど、普段ならば摂取しない量だが、無理矢理、胃に詰め込んだ。あとで半分は吐くことになったが。

 仲間の何人かが、警察に捕まった。相手に居留守を使われたときには、ドアを蹴破り、強引に部屋の中に入らせ、有力か、そうでないかに関わらず、相手が情報を隠していると感じた場合は、多少暴力的な手段に出てでも、話を聞き出させた。それが裏目に出た。捕まった者だけではない。警察は、街で活発的に動いている集団がいることに気付いていた。それが、ここ最近、<ツガ>から破門を言い渡された連中であることにも。

 狩内蓮から、連絡が来た。気を付けた方がいいと。分かったと答えた。

 警察が何を考えているのか、知りたかった。できるならば、抱き込みたかった。磐井に、彼あるいは彼の部下に、警察の知り合いはいないのかと訊いた。何人か名前が挙がったが、空振りだった。警察の中にも、ミカド系の組織が生まれつつあり、元であっても<ツガ>のような組織に属していた者たちに便宜を図ったことが知れれば、どうなるか分からない。協力を断った者たちは皆、それが理由で、首を縦に振らなかった。飛猫が、鶴見という刑事を知っていると言い、当たらせたが、それもだめだった。他の者同様、正義の二文字にあてられた集団に、怯えていた。

 時間はないが、事を急いて、仲間を必要以上に失うことは避けたかった。方針を少し、柔軟なものにしようと思案していたところに、仲間の一人から連絡が入った。浦口という名の刑事が、彼らを動かしている者と、話をしたがっているとのことだった。一対一で。浦口という名前に引っ掛かり、記憶をたどり、飛猫に連絡した。浦口は、鶴見の相棒の刑事だった。

 何のつもりでしょうか。電話で飛猫に尋ねた。

「さあね。彼とは、ほとんど話をしたことがないから、分からないわ」

 捕まる可能性があった。中心人物を押さえれば、集団の機能を半減できる。狙われて当然だった。だが、その危険を冒すからこそ、構築できる信頼もある。浦口の申し出を了承した。話を聞いて、ダンクがボディガード役に立候補したが、やめておいた。代役を立てることも考えたが、それもしなかった。自分がこれまでやってきたことと、思考と行動の判断基準となっていたものを、可能な限り言語化し、プリントアウトの束にして、磐井に残した。もし自分が浦口に捕まれば、ダメージは免れないだろうが、軽減することはできる。

 会合の場所に浦口が指定したのは、<夕照>という名の中華料理屋の男子トイレだった。時刻はもうすぐ深夜二時になろうとしていたが、店は開いていた。小綺麗な店内は、円テーブルにかけられた真っ赤なテーブルクロスのお陰で、派手で華やかな雰囲気だった。内装に使われた木材も、所々、テーブルクロスと同じ色で塗られていた。注文を取ろうとする従業員を無視し、ホールから廊下へ。突き当たりの左右に、男子と女子のトイレがあった。トイレの前に、男が一人いた。壁に寄りかかり、考えごとでもしているかのように、腕組みをしてうつむいている。浦口かと尋ねると、違うと男は答えた。滑らかな日本語だったが、中国人特有のなまりがわずかにあった。

「お前がバーバーか?」

 イエスと答えた。身体検査を受け、見つかった自動拳銃(ピストル)を渡した。銃器の有無を確認するための身体検査が終わると、清掃中と書いた看板が置かれた、女子トイレの方を、首を傾けて示された。

「約束した場所は、男子の方だ」

 男は何も言わなかった。言われた通り、女子トイレの方のドアを開けた。洗面台に腰掛けながら、煙草を吸っている男がいた。黒いコートの下に、焦げ茶色のスーツ、白いシャツ。縞模様の入った、派手な黄色いネクタイをしていた。

「バーバー?」

 イエスと答え、「浦口?」と尋ねた。男は小袋型の携帯灰皿の中に、煙草の灰を落としながら、そうだと頷いた。

「表の男は?」

「恩を売ってある、中国人(チャイニーズ)のちんぴらさ。店の連中共々、お前さんの審査のために配置した。もし、お前の言動や行動が、連中のアンテナに引っ掛かった場合、予定の変更なしに、男子トイレへ通されていた」

「そして?」

「待たせておいたちんぴらどもに、ぼこぼこにされてた」

「それはそれは」言いながら、浦口同様、洗面台に腰掛けた。「それで、用事は?」

「至極簡単なことだ。訊きたいことがある」浦口は、煙草の煙を輪にして吐いた。「お前たち、街で一体、何をしてる?」

「答えなかったら?」

「まず、一つ。こちらの質問に答えるつもりもないのに会合に応じた、馬鹿だと判断する。馬鹿が中心になって集めた連中だから、街でごたごたやってるやつらも、たいしたおつむは持っていないと考える。二つ。俺は侮辱されたと感じて、お前らへの風当たりを強くする。恥をかいた分、警察の権力と手錠を振り回す。三つ。俺の満足する答えが聞けるまで、多少暴力的な手段に出るかもしれない」

「ふむ」

「悪い傾向だな。俺の言葉に対して、お前の言葉は少なすぎる」

 もったいぶるつもりはなかった。質問の内容は、予想の範疇だった。説明した。リタ・オルパートとアンバーの下に集まっている、<アンバー・ワールド>のことを。彼らが、<ミカド>系組織になり始めていることを。そして、彼らの繋がりを破壊するために、アンバーの恋人を殺した犯人を捜していることを。

「素人捜査で、本気で見つかると思ってるのか?」

「見つけなきゃなりません。そして、連中に可能な限り、打撃を与えなければならない。親友の大切な人間が、連中の所で、囚われの身となっているんです」

「だが、お前たちは少々、手荒にやり過ぎた」

「捜査の速度を上げるためには、多少、手荒な手段に出る必要がありました」

「お前たちはやり過ぎた。まだ、捜査を続けたいか?」

「もちろん」

「十人、寄越してもらおう」

「寄越すとは?」

「身柄を拘束するということだ。余計なことを喋らずに、おとなしくしていれば、逮捕まではしない。いずれ、解放する」

「何のために、アンバーの恋人を殺した犯人捜しなんて言う、回りくどいことをやってると思ってるんですか。連中の繋がりを弱体化させ、数を減らし、戦力差を縮めるためだ。仲間をそっちに渡せば、戦力差は縮まるどころか、拡がることになる」

「十人くらいの身柄を拘束して、多少なりとも、俺たちが満足しなければ、お前たちへの風当たりは強いままだ。さらに強くなるかもしれない」

「けど」

「この譲歩を呑めば、警察にある情報を、お前たちに提供してやる」

「魅力的な提案ですね。そちらに引き渡す人数が、五人では?」

「桁が二つなのと、一つなのでは、かなり違う。心理的にも」

「そう」

「時間が必要か?」

「いえ。そんな時間はありません」言った。「あなたは、嘘をつきませんね?」

「どうかな。肝心なのは、お前が俺を信じるか、信じないかということだ」

 浦口の目を見た。光は強い。泳ぎはしない。

「分かりました。十人、そちらに引き渡します」

「英断だな」

「そうでなければ困ります」

つづく




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posted by 城 一 at 14:35| 長編小説 焔-HOMURA-[integral] | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月27日

ブログ小説 焔-HOMURA-[integral] 第202回(6版)


腐敗/落果V.


 リタ・オルパートと入れ替わりに、<ナンバーズ>の少年たちが部屋に入ってきた。彼らは、テレビとビデオデッキを載せた、キャスター付きのスチールラックと一緒だった。それが、左右、後方と、半円状に椅子を取り囲むようにして置かれた。配線の作業が終わると、電源が入れられた。テレビの画面に映ったのは、先の海恵子の死にざまだった。海恵子の名を口にする、自分の声。銃声。そして、死。一通り再生が終わると自動的に巻き戻り、また最初から再生が始まった。

 リタ・オルパートが何を求めているのか、分かった気がした。問題なのは、リタの思考回路を理解したところで、何の解決にもならない点だった。

 ビデオの再生が十を超えた辺りから、海恵子の名を口にする自分の声が、他人のもののように聞こえ始めた。他人の感情、他人の咆哮。他人の憤怒、他人の悲哀。なぜ、リタ・オルパートに言われるがままに、“最も優先順位の低い人間”を選んでしまったのか。なぜ、海恵子が許すがままに、彼女の名を口にしてしまったのか。画面越しに見せられて、ようやく分かった。彼は理解していなかったのだ。自分の行動と、それが招く結果を。馬鹿なやつだ、風際慶慎という少年は。胸の内で呟き、まったくだと思った。

 部屋のドアが開いて現われた、新たな<ナンバーズ>の少年たちが、海恵子の死体を運んできた。スチールラックがなかった正面に、無造作に放られる。血の気が失せた肌は、土色をしていた。放られたままに不自然に曲がった四肢。海恵子の頭がごろりと転がり、彼女の命を奪った小さな銃創を露呈させた。傷を彩る血は、まだ乾ききっておらず、ぬめぬめと赤黒く光る部分があった。銃弾の入り口はまるで、底なしの闇のように、ぽっかりと口を開けていた。焦点の合わなくなった、無機質な両の瞳。だらしなく開いた口は、まるで呪いの言葉でも唱えているかのようだった。耐えきれず、吐いた。少し間を開けて、もう一度。自然と、目には涙が滲んだ。

 涙を利用し、視界にモザイクを施す。あるいは、目を閉じる。視覚的なものから逃れることは、簡単だった。だが、耳や鼻に瞼はない。音声やにおいから逃れることは、難しかった。その上、閉じた瞼をスクリーン代わりに、記憶や感情が、海恵子の死にざまを再生した。実際に目に映るものよりも、鮮明に感じさえするほどだった。

 目を閉じたままでいることには、抵抗があった。海恵子の死から、逃げていることになると思った。だが、そうは言っても、彼女の死の追体験に耐えられたのは、ほんの数分だった。目を閉じたり、開いたり。事実から逃げたり、踏み止まったり。そうしているうちに、いつの間にか、睡魔に意識を奪われていた。目を覚ましたときに、具体的な内容は忘れてしまったが、悪夢を見た。途轍もない暴力と、死にまみれた夢だった。海を越える分量の涙と血が、止むことのない雨のように降り続き、無を想起させる闇に彩られた世界だった。夢から醒めたときには、背中に汗が滲んでいて、呼吸が乱れていた。喘息の発作が起きていた。

 発作の症状は、最悪の部類に入った。どれだけ息を吸おうと、空気が肺に入らなかった。気管が、針のように細くなっている感じがした。空気が足りず、全身が熱を帯びた。咳が止まらなかった。水を飲んだが、快方へ向かう気配はなかった。異変に気づいた<ナンバーズ>の一人が医者を呼んだ。匕首(あいくち)で刺された傷を縫合した医者だ。彼はリタから喘息のことを聞いてたらしく、喘息の治療のために必要なものを揃えてきていた。発作を抑える薬が入った、携帯用の吸入器も、彼の備えの中にあった。それを使い、ようやく発作は治まった。また眠った。

 リタ・オルパートがやって来て、食事を与えられた。拒絶する素振りを見せると、安希とサニーの命を盾に取られた。選択の余地はなかった。食事はクリームシチューで、あたしが作ったのだとリタ・オルパートは言った。味の感想を聞かれたが、それには答えなかった。彼女が部屋を出て行くと、吐いた。海恵子の死体が放つ腐臭が、ひどくなっていた。“最も優先順位の低い人間”として、彼女を選んだことを後悔し始めていた。ひどい話だ。長い間面倒を見てもらい、虚弱な体のケアをしてくれた彼女に、そんな称号(レッテル)を貼るとは。

 だが、どうすればよかったのだろう? 安希やサニーの死体ならば。それが放つ腐臭ならば、耐えられたわけではない。選択を保留し続け、彼女たちが手の指を失い、足の指を失い、やがて手足を切り落とされるのを待つべきだったのだろうか。いや。そうすれば、リタ・オルパートのルールに乗っ取ることもできなくなる。たとえ一人だけだったとしても、助けることができなくなる。リタ・オルパートの言葉を信じるならば、だが。しかし、彼女の言葉を信じ、それに従って行動する以外に、誰かを助けることは可能だろうか? もしかすると、先の一件で、リタ・オルパートを殺すことは可能だったかもしれない。ヨシトがあの場にいなければ。エイダ・ヒトツバシを殺していなければ、今頃、安希とサニーを助けることはできていたかもしれない。そもそも、松戸孝信を殺さなければ、こんなことにはならなかったかもしれない。

 見張り役の<ナンバーズ>が交代した。新しくやって来た少年たちから、四肢の拘束から逃れて暴れ、リタ・オルパートを殺す手前までいった先の一件で、彼らの仲間が二人死んだことを聞かされた。バットで頭を叩き割った者と、ナイフを喉に突き立てられた者。その件について、何か釈明したいことはあるかと、<ナンバーズ>は言った。ないと答えた。

「逆に聞くが、ならばお前たちは、海恵子さんが死んだことについて、どう考える?」

 蹴り飛ばされ、椅子ごと床に転がった。スチールラックの一つが倒れ、テレビが派手な音を立てて壊れた。画面にひびが入り、映像が消えた。腹を踏まれた。裂けるような感覚が走り、傷口が開くのを感じた。包帯に血が滲み、赤く染まっていた。起こされ、壁際に運ばれた。椅子に拘束された状態で床に倒れたのを、殴ったり蹴ったりするのは難しいと、彼らは判断した。壁を背にしていれば、倒れることはない。一人だけ、後ろでおろおろとしている者がいた。その少年は、こんなことをすれば、あとでアイザックから制裁を受けると心配していた。他の二人は、そんなものはくそくらえだと考えていた。鼻をつまみ、閉じていられなくなった口に、漏斗を差し込まれた。〈ナンバーズ〉は、二リットル入りのペットボトルを水で満たしたものを、何本も用意していた。それを、鼻をつまんだまま、漏斗から流し込まれた。最初は飲んでしまうことで逃れたが、すぐに限界がきた。口から水が溢れ、息が吸えなくなった。酸素を求め、悲鳴を上げるように体が加熱したが、どうすることもできなかった。空になったペットボトルが、次から次へと床へ投げ捨てられた。それが何本あるか、数える余裕はなかった。何も考えられなくなり、意識が朦朧とし始めたところで、解放された。予想以上に消費してしまったと、一人が水を汲みに、部屋を出て行った。一人は、相変わらずおろおろしていた。その<ナンバーズ>と、目が合った。チキン野郎。そう言って、笑った。それで、そいつは切れた。まだ水の入っていたペットボトルで、こめかみを殴られた。激しい痛みはなかったが、頭の中が揺さぶられたような感じがした。何発かやられると、吐いた。チキンは調子に乗り、ペットボトルで殴ることを繰り返した。胃の中が空っぽになったあとも、ペットボトルで殴られると、吐き気がした。気持ち悪さが、体中に蔓延していた。

 松戸孝信を殺さずに済ませる方法は、あっただろうか。朦朧とする意識の中で、そのことを考えていた。なかった。そう答えが出た。殺し屋になることを選んだ時点で、松戸孝信を殺すことからは逃れられなくなっていた。殺し屋が、人を殺すことを拒んで何になる?

 自分が殺し屋になっていなかったら。そんなことを思った。だが、やはりそれも無理だ。自分が文永の虐待から逃れるためには、<カザギワ>に入り、殺し屋としての力を認められるしか方法はなかった。生きるためには、それしかなかった。ならば、生きることを諦めていれば? そんなことは可能なのだろうか。分からなかった。そもそも、自分がこの世に生まれなければ、こんな悲劇は起こらなかったのではないだろうか。そう思った。そうすれば、海恵子は死なずに済んだ。父も片目を失わずに済んだ。安希やサニーは、五体満足で、笑っていられた。リタ・オルパートは松戸孝信を失わずに済んだ。ヨシトは、母と一緒にいられた。エイダの店で、<DEXビル>の一件で失われた、無数の命。そして、先の一件で死んだという<ナンバーズ>の二人。彼らは皆、命を失わずに済み、今も大切な誰かと笑っていられただろう。

 頬を平手で打たれたが、だめだった。意識がはっきりとしなかった。胸元に煙草の火を押しつけられた。腹を蹴られた。無数の罵倒の言葉が浴びせられた。無駄だった。一つも満足な反応をすることができなかった。

 自分がいなければ、海恵子は死んでいなかった。自分の存在が、海恵子を殺したのだ。

 そうか。呟いて、笑った。

「リタ・オルパートが言ったことは、正しかったんだ」

 ペットボトルの一撃。頭が沸騰したように熱くなり、不快感が毒のように体を痺れさせた。視界に黒幕が下りた。こじ開けることはできなかった。意識を失った。

つづく




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2008年10月26日

ブログ小説 焔-HOMURA-[integral] 第201回(6版)


収束/落果U.


 目を覚ます。慶慎は、元いた監禁部屋に戻されていた。足下で片膝を突いた医者――白衣と聴診器を身に付けていた――が、匕首(あいくち)で刺し貫かれた腹の傷を縫合していた。左腕には針が刺さっていて、点滴スタンドからぶら下がるパックから、輸血が行われている。視線を上げると、目の前のリタ・オルパート。椅子に座って脚を組み、微笑んでいた。慶慎は四肢に力を込めたが、ぴくりとも動けなかった。脚が四つに、肘掛けがあるタイプの椅子に、前と同じ方法で、手足をそれぞれ縄で縛り付けられていた。さらにその上から、鎖が巻かれている。椅子の材質も、木からスチールへと変わっていた。力の方向、入れ方を変え、先にやったように椅子ごと破壊しようと試みたが、手応えはなかった。軋みすらしない。

「あまり動くと、傷口が開くぞ」

 医者が顔を上げずに、忠告した。

「黙れ」

 慶慎はそう言った先で、リタ・オルパートの後方に、ヨシト・ヒトツバシを見つけた。表情が死んだ、能面のような顔。虚ろな瞳。ヨシトの存在を形作るもの全てが、慶慎の体から力を奪い、沸騰寸前まで沸いていた血から、熱を奪った。収束。ヨシトの手には、まるで体の一部になっているかのように、海恵子を撃ち殺した拳銃があった。海恵子の死にざまが脳裏をよぎったが、感情の再燃はやはり、ヨシトの表情が許してはくれなかった。

 慶慎は、床に視線を落とした。

「なぜ、ヨシトがここにいるんだ」

 リタは、椅子の肘掛けに肘を突き、指先をこめかみにあてた。

「分かっているくせに」リタは言った。「あなたが、エイダ・ヒトツバシを殺したからよ」

「大切な誰かを殺された人がみんな、武器と殺意を手に取るわけじゃない」

「<ミカド>という名のシステムが行き渡った、この街では違う。皆、武器を調達し、怒りと殺意を現実化、具現化する方法を、容易に知ることができる。復讐に走った先人たちが、<ミカド>に類する組織あるいは文化によって、足跡を残しているから」

「だからって」

「そうね」リタは頷いた。「素直に告白すると、わたしが彼の背中を押したわ。ただし、ごく軽く」

「ヨシトは、こんな場所にいるべきじゃない」

「居場所を決めるのは、彼自身よ」

「ヨシトは、まだ子どもだ」

「子どもにだって、怒りや殺意はある」

「こんな所にいるべきじゃないんだ。そんなものを、持っているべきじゃないんだ」

「知った風な口を利いて」リタは目を細めた。「あなたが、この子の何を知っていると言うの?」

「分かるよ」慶慎は言った。「僕には、分かるんだよ」

「なら、直接彼に言いなさいな」

 腹の傷が疼く。ヨシトの表情を見たくなかった。だが、慶慎は顔を上げた。

「ヨシト」一語一語、丁寧に唇を動かす。読むことができるように。

 ヨシトは何も言わなかった。黒く濡れた瞳は、ただの壁のように無機質で、言葉が届いているようには見えなかった。ヨシト。もう一度、呼びかける。ヨシトはゆっくりと瞼を閉じ、開いた。機械的に動いたヨシトの指が、拳銃の撃鉄を上げる。

「そうか、そうだな」慶慎は力なく頷いた。銃口が額に突きつけられる。もう、言葉が届く所に、ヨシトはいないのだろう。頬が濡れ、慶慎は自分が涙を流していることに気付いた。わずかな希望を託して、言う。「ごめんな、ヨシト」

 かちん。引き金を引く音がしたが、銃声も銃弾も、拳銃からは発せられなかった。慶慎が目を開けると、ヨシトは拳銃の弾倉(シリンダー)を覗き込み、首を傾げていた。

「弾は抜いておいたわ」リタが言った。

 ヨシトは弾倉を元に戻し、銃底で慶慎を殴った。二発目が来る前に、リタがアイザックを呼び、止めさせた。アイザックは後ろからヨシトを羽交い絞めにして、部屋の外へと引きずっていった。それに抵抗することもなく、無表情のままのヨシトはまるで、マネキンのようだった。部屋を出るとき、アイザックが言った。

「本当にごめんね、リタ。君の玩具(おもちゃ)をを傷つけてしまって。でも、あの状況じゃ、ああするしかなかった。殺さずに制するというのは、なかなか難しいんだね」

「いいのよ」リタは振り向かずに、アイザックに手のひらをひらひらと動かした。「仕方なかったと思うわ」

「ありがとう」

「いいのよ」

「玩具か」慶慎は意味を確認するように、呟いた。

「ええ。でも、難しいわね。あなたが、あそこまでやるとは、思ってもみなかった。心、感情と言ったものが生み出すものは、怖いわね」リタは言った。「それに、<アンバー・ワールド>の子たちの我慢の限界が、いつ来るかも分からない。<ナンバーズ>の子たちは、他の子に比べれば我慢強いけれど、それでも、限界はあるものね。そう遠くないうちに彼らが、あなたを殺してしまうかもしれない。もしかすると」リタが視線で医者を示して、言った。「彼が、あなたを殺すという可能性もある」

「そんなことはしない」医者は言った。「わたしは、ただの傍観者さ」

「偶然、必然が絡み合って、色々なことが起こるわ。あたしの望む場所にたどり着けるといいけれど」

「望む場所?」慶慎は言った。

「他に、言いようがないわ。自分でも、正確に言い表せないの」

「でも、そのためには僕という玩具がなければならない」

「そうよ。だから、生きてね。あたしがいいと言うまで」

「勝手な言い分だ」

「もちろん、そうよ」

「そのために、僕の大切な人を殺し、傷つける」

「そうよ」

 医者が縫合を終えて、腹にさらしのように包帯を巻いた。丈が足下まである厚手の黒いダウンジャケットを、慶慎の肩にかける。傷の縫合を行うために、上半身は裸の状態だった。医者は立ち上がり、処置の終了を告げた。リタは頷いた。

「それではこれから、しばらく休息をあげるわ。あなたも含めて、みんな、疲れているからね」

「まだ、これが続くのか」

「今度は、あなたの中で、岸田美恵子の次に優先順位の低い人間を、選出してもらうわ」

「僕に拒否権はない」

「ええ」

「そう」

「この休息を利用して、じっくり考えておいてね。あなたが答えを出すのが、早ければ早いほど、サニー・フゥや市間安希が失う指の数、受ける苦痛は、少なくて済む」

「そう」

「じゃあね」リタはそう言って、慶慎の額に、そっとキスをした。「段々と、あたしの思い描く場所に、あなたが近づいていってるのが分かるの。素敵ね。あたし、あなたのことが好きになりそうよ、坊や」

「そう」

 リタは手を振り、医者とともに部屋を出て行った。

つづく




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2008年10月19日

ブログ小説 焔-HOMURA-[integral] 第200回(9版)


クリティカル.


 咆哮。

 初めて会ったときの、海恵子のことを思い出す。

 腹を撃たれたヤクザに応急処置を施し、街の病院に連れて行ったあとだった彼女は徹夜明けで、とても眠たそうだった。機嫌もよくなかった。泥酔した文永の憂さ晴らしに踏まれた脇腹の痛みが、丸一日経ってもよくならず、それどころか悪化したことで、慶慎は殺し屋の師匠でもある越智彰治に相談したのだ。彼が診察と、必要であれば治療のために連れて行ってくれたのが、海恵子の所だった。煙草を吸っていた海恵子は、煙たそうな表情をしていたが、それはきっと、指の間に挟んだ煙草のせいだけではなかったのだろう。そんな風に思ったのを、慶慎は覚えている。気だるそうな、海恵子の声。

 あんた、名前は?

 慶慎は、衝動に任せて体を揺らした。縄が、強張り、膨らんだ腕に食い込む。たぎる筋肉の内側で、骨が軋んでいる。組み合わさった木と木が擦れ合い、檻に閉じ込められた猿のような声で、きいきいと鳴き声を上げる。

 こじらせた風邪を理由に、診療所に避難した夜の海恵子を思い出す。喘息の発作が起きて、眠りから醒めてしまった真夜中。それに気付いた海恵子がやって来て、心臓の鼓動と同じリズムで、背中をさすってくれた。そのときの彼女の、手のひらの温かさ。

 水分をよくとって、痰を出すんだよ。そうすりゃ、少しは楽になる。

 ぼきりと肘掛けが悲鳴を上げて、折れた。舌打ちをしたアイザックが飛来し、慶慎のみぞおちに蹴りを入れる。慶慎は椅子ごと吹っ飛び、背中から壁に衝突した。蹴られた場所に突き刺さった釘が、血と熱をもたらす。

 文永の下から逃げたくて、診療所に逃げ込んだときの海恵子を思い出す。風邪を引いたというのが嘘だと分かっていたはずなのに、彼女はいつもと同じように笑顔で慶慎を迎え入れ、かくまってくれた。夜、眠るとき、彼女は何を思ったのか、どこからか絵本を持ってきて、ベッドの傍らで慶慎に読み聞かせた。もう、そんな年じゃないですよ。慶慎はそう言ったが、海恵子は構わずにページを繰った。さりげなく眠りを誘う、彼女の柔らかく、優しい声。

 昔々、あるところに、おじいさんとおばあさんが――。

 慶慎を<ナンバーズ>が囲んだ。何を掴もうとしているのかも分からないまま伸ばした手が、木刀で打ち据えられる。椅子から上げようとした腰を、角材で突き戻される。胸、腹。壁に杭で打ちつけるかのように、鉄パイプや金属バット、鞘に収められた日本刀が突く。<ナンバーズ>の群れの向こう側、微笑をたたえて佇む、リタ・オルパート。

 慶慎を守るために、文永に銃で撃たれた海恵子を思い出す。文永に虐げられる日々に嫌気が差して、また逃げ込んだ海恵子の診療所。それを知り、やって来た文永と、当時彼が連れていた、街のチンピラ。彼らを前に、慶慎を守ろうとした海恵子の背中。折衝の末、彼女は文永に、腹を銃で撃たれた。それでもなお、彼女は慶慎を守ろうとした。それ以上、自分がそこにいれば、海恵子は殺される。慶慎はそう悟り、文永について診療所を出た。脂汗を滲ませた海恵子が言った。

 いいかい、慶慎。気にしちゃいけないよ。次また、辛いことや痛いことがあったら、いつでもあたしの所に来るんだよ。

 慶慎は、腹に刺さった釘を抜き、得物を掴む無数の手の一つに突き立てた。痛みに驚き、硬直した手から金属バットを奪い、一閃。たわむような金属音を聞きながら、<ナンバーズ>の輪を退ける。木刀の一撃をかわして鷲掴みにし、持ち主ごと右から左へ投げ飛ばす。鉄パイプの一振りを手で払い、持ち主の頭にバットを叩き込む。視界の中心には、リタ・オルパートがいる。

 殺意。

 バットで頭を割られ、慶慎に向かって倒れてきた少年が身に付けていたベストの胸ポケットには、ナイフが入っていた。慶慎はそれを奪い、自分の右足を繋ぐ縄を切断した。体を起こしざまに振ったバットで間合いを作り、小さくできた円の中で、踏み出した右足を軸に、慶慎は下半身をぐるりと回した。後ろ回し蹴り。左足に縛り付けられたままの椅子を、<ナンバーズ>の一人に食らわせ、粉砕する。ばらばらになった椅子の部品が、宙に舞う。自由になる四肢。慶慎はナイフを投げ、襲い来る者の腹をバットで打った。リタ・オルパートを見る。

 殺す。

 回し蹴りで、鞘に収めた日本刀を持つ少年を吹っ飛ばし、バットで視界の外、殺意を放っていた一人を打ち倒す。相手が昏倒したのは感触で分かる。左フックをかわして懐に潜り込み、掌底で一人の体をくの字に折る。顔など確かめはしない。殺意の有無だけ分かればいい。肘で後方の一人、顎を跳ね上げ、前蹴りで前方の一人、みぞおちをえぐる。バットで横薙ぎ一閃。顔を三つ弾き飛ばす。前方へステップ。肘鉄で敵の胸を穿ち、中段蹴りで別の人間の脇腹を歪ませる。後方からの殺意に、金属バットの投擲(とうてき)で答える。<ナンバーズ>の群れが割れ、アイザックが現われる。その向こうには、リタ・オルパートがいる。

 殺す。

 アイザックが地を蹴る。繰り出される右ストレートを紙一重でかわす。ちりりと髪が立てる音を聞きながら踏み込み、クロスカウンター。アイザックの顎を打ち抜く。その目が白く反転するのを横目に、跳躍、着地。リタ・オルパートを押し倒す。

 殺す。

 躊躇などなかった。慶慎は両手でリタの細い首を鷲掴みにし、力を込めた。隙間風が吹くような音で、リタは喉を鳴らした。その表情が歪む。彼女が、空気を求めているのが分かる。

「死ね」慶慎は言った。「死ね、リタ・オルパート」

 リタの手が水をかくようにして動き、慶慎の眼前で、ゆらゆらと踊った。

 松戸孝信が死んだとき。

 かすれた声で、リタが細々と言葉を紡ぐ。

 あなたがナイフで喉を切り裂いて、彼を殺したとき。あたしが、そう思わなかったと思う?

「黙れ」

 リタの首を絞める両手に、さらに力を込める。細い首が、合わせた両の手のひらの中で歪み、形を変えていくのが分かる。リタが短く、母親、と漏らした。

「そうだ」慶慎は言った。「海恵子さんは、僕の母親みたいな人だった。優しかった。父さんに虐げられる毎日の中で、僕に逃げ場所を作ってくれた。彼女は僕に笑ってくれた。僕を笑わせてくれた。温かかった。それを、お前が奪ったんだ。だから、死ね」

 リタが唇を動かした。慶慎には、彼女の発した言葉が、正確に聞き取れなかった。いや。もしかすると、聞き取りたくなかったのかもしれない。

「何?」

 慶慎は無意識のうちに、わずかに手の力を緩めていた。リタが言った。慶慎は、今度は彼女の言葉を、はっきりと聞き取ることができた。

「母親を殺されたヨシトが、そう思わなかったと?」

 慶慎は、自分の耳を疑った。なぜ今、その名前が、リタ・オルパートの口から出るのか。今、何て? 慶慎は、聞き取れていたのにも関わらず、リタにそう言った。

「エイダ・ヒトツバシをあなたに殺されたヨシト・ヒトツバシが、あなたに対して、今のあなたのような殺意を抱かなかったと思うのかと、訊いたのよ」

 考えたくなかった。慶慎は、自分の体に満ちていた怒りが、冷めて収縮を始めようとしているのを感じた。ふざけるな。そう、リタの胸元に吐き捨てる。

 そんな言葉で、この感情の焔を消されてたまるか。

 ヨシト・ヒトツバシの名前から逃げるようにしてほとばしらせた咆哮。振り上げた拳。それが、止まる。慶慎は耳元で、銃の撃鉄が上げられる音を聞いた。振り向くと、フルフェイスのヘルメットをかぶった少年。彼の手の中で、拳銃が、慶慎に狙いを定めていた。リタに言われて、海恵子を殺した少年。

 殺意。

「お前も」

 爆ぜかけた咆哮が、煙のように空中に霧散した。フルフェイスが、かぶっていたヘルメットを外した。ヘルメットは、その素材の硬度と、塗られた黒色の深みに反して、軽やかな音を立てて、床で弾んだ。慶慎は、ヘルメットの下から現われた素顔を前に、言葉を失った。

「嘘だ」

 フルフェイスのヘルメットの下から、素顔を現わしたのは、ヨシト・ヒトツバシだった。

「どうして」慶慎はもがくように言った。「どうして、君がここにいるんだ」

 ヨシトは答えない。慶慎は、後方から何かがぶつかったのを感じた。体が、静かに揺れる。振り返ると、アイザックが怒りを押し殺した表情で睨んでいた。

「リタ。悪いが、これくらいは許してもらうよ。さすがに今回、こいつははしゃぎ過ぎた」

 違和感と炎を感じて、慶慎は自分の体を見下ろした。右脇腹を、匕首が刺し貫いていた。

 力が抜ける。慶慎は倒れるのをこらえようとしたが、失敗した。背中を、<ナンバーズ>に得物で突かれていた。昴宿と柄に書かれた匕首が傷の中でうごめき、激痛の火を膨らませる。

 リタ。

 その名を呼び、手を伸ばした。リタは首をさすり、咳き込んで眉間に皺を寄せながらも、口許に微笑をたたえていた。

「まだまだ青いし、温いわね」

 そしてリタは、囁くように言った。

 岸田美恵子は、あなたが殺したのよ、坊や。

 黙れ。

 リタの言葉を否定しなければならない。リタの行動を否定しなければならない。

 体に力が入らなかった。意識が滲む。匕首が抜かれ、自分の体が境界線を失い、広がっていく感覚に襲われた。血だ。たくさんの血が、出ていく。体が、熱を失っていく。海恵子を殺された怒りを、失っていく。感情が流れ出て、二度と戻らないことを告げている。

 冷めるな。慶慎は、自分に言い聞かせた。この感情を忘れるな。この怒りを。この殺意を。何度も胸の内で呟き、記憶に刻み込もうとした。だが、ヨシトの表情が邪魔をした。凍りつき、闇色に染まった瞳。表情を忘れてしまった顔。

 ちくしょう。

 母親を殺されたヨシトが、そう思わなかったと?

 握り締めた拳が、意志に反して開く。視界に黒い幕が下りる。

 岸田美恵子は、あなたが殺したのよ。

つづく




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2008年10月17日

ブログ小説 焔-HOMURA-[integral] 第199回(16版)


落果。


 安希の。サニーの。海恵子の爪が、全て剥がされた。両手両足、全ての指が血にまみれた。それが乾くのも待たずに、<ナンバーズ>の29番は、ペンチから、枝を切るための剪定鋏に持ち替えた。

 やめろ。慶慎は、何度も叫んだ。僕を殺せ。何度も吼えた。ふざけるな。リタ・オルパートの返答は、決まってこうだった。

「なら、あなたにとって優先順位が最も低い人の名前を教えて」

 できなかった。そんなことのために、思考回路は働かなかった。安希の手の指が切断された。左薬指、左右の小指。長い月日の中で伸びてしまった、余計な枝を切り落とすかのように。

 サニーの指が切断された。左右の中指、左の薬指、右の小指。切り落とされた指は、元から静物であったかのように、ステージの上に転がった。

 海恵子の指が切断された。右の親指、左の中指、薬指、左右の小指。滴り落ちた血は、彼女たちの足下を赤く汚した。もうすぐ血だまりが、姿を現わしそうだった。

 慶慎を拘束する縄は、決して、椅子からその体を解放しなかった。慶慎は泣いた。それしかできなかった。安希やサニー、海恵子と同じ痛みを受けることも、血を流すこともできないのだ。思いつく限りの罵倒の言葉を、リタに向かって吐いた。彼女の感情を逆撫で、殺意を喚起することができれば、自分も安希たちと同じ痛みを受けられるかもしれない。そう思ったのだ。だが、そうはならなかった。慶慎は、自分を取り巻く世界を縁取る線が、曖昧になるのを感じた。それは視覚的でも、聴覚的でもなく、その他の感覚器官でも感じ取ることのできない曖昧さだった。心が体から剥離することで、焦点が合わなくなる感覚。現実感の消失。

 ああ、知ってる、この感覚。

 慶慎は思った。これまでにいた、二人の父親。彼らから受けた虐待の日々の中で知った感覚だ。画面やスクリーンを経ているわけでもないのに、テレビや映画でも観ているかのような気分になる感覚。五感で感じるもの全てが、フィクションの世界を形作るものへと変質していく。

「じゃあ、どうすればよかったの」

 慶慎は、足下に吐き捨てるように言った。ペットボトルから、ミネラルウォーターを一口飲んだリタが、小さく眉を上下させて、慶慎に歩み寄った。ペットボトルの底を顎にあてがい、慶慎の顔を上げさせて何か言ったが、慶慎には聞き取ることはできなかった。慶慎は繰り返した。

「僕は、どうすればよかったの?」

 リタは、慶慎のすぐ前に椅子を持ってきていた。水を飲み、椅子に腰を下ろし、脚を組み替え、目尻を指先で揉んだ。何度か彼女が口を開いたが、慶慎にはやはり、彼女の言葉を聞き取ることはできなかった。涙の膜が、視界を閉ざすのと一緒だった。目の前で繰り広げられる光景が、慶慎の聴覚を鈍くさせていた。

 リタは目を閉じて首を振り、箱からくじを引いた。中身を確認し、29番に告げる。29番は頷き、剪定鋏を操った。海恵子の右手人差し指が、彼女の体を離れ、その足下で血にまみれた。

 慶慎は目を逸らした。教えてよ。涙で濡れそぼり、裏返る寸前の声を張り上げる。

「僕は死にたくなかった。また家に帰って、父さんに殴られるのは嫌だった。蹴られるのは嫌だった。罵られるのは嫌だった。何かにむかついたとき、その感情を捨てるためのゴミ箱みたいに扱われるのは嫌だった。僕は生きてるんだ。人形じゃないんだ。それ以上、辛い思いをしたくなかった。苦しい思いをしたくなかった。そのためには、殺し屋になるしかないんだって教えられた。誰も、他の方法を教えてくれなかった。だから、殺し屋になったんだ。なのに、どうして僕はこんなところにいるの? どうすれば、こうならずに済んだの?」

 リタは、優しく微笑みながら、慶慎に口づけをした。

「素敵な顔をしてるわよ、坊や」

「こんなのおかしいよ。もうやめてよ」

「だめよ」

「どうすればやめてくれるの、彼女たちを傷つけるのを?」

「分かってるでしょう?」

「僕が、僕にとって最も優先順位の低い人の名前を、あなたに教えたら」慶慎は言った。「でも、そうしたら、その人を殺すんだろう?」

「そうよ」

「なら、できるわけないじゃないか」

「できるわよ。人の命がかかっているんだから」

「無理だ」

「一つの命を救うためよ」

「救う?」

「そう。あなたは、あの三人の中から、一人の命を救うことができるのよ」

「ふざけるなよ!」慶慎は金切り声を上げた。新たな波が、頬を伝う涙に訪れる。「それじゃ、二人は助からないってことじゃないか!」

「あなたになら、できるわよ」リタは言った。

「慶慎」

 ステージの上から名前を呼ばれ、慶慎は顔を上げた。青ざめた顔で、額やこめかみに脂汗を滲ませた海恵子が、気丈に微笑んでいた。その口からは、既にギャグボールは外されている。痛みと体力の消耗で乱れた息を整えてから、海恵子は言った。

「あたしを選びな、慶慎」

「何言ってるんだよ、海恵子さん。そんなこと、できるわけないじゃないか。そんなことをしたら、海恵子さんが死んじゃうんだよ?」

「いいさ。あたしはもう、十分生きた。それに、あたしも苦しいんだよ。あんたのそんな顔を、もうこれ以上、見たくないんだよ」

「だめだよ」

「ただ、言えばいいんだよ、慶慎」

「だめだって」

「あたしは、使えない年寄りさ。体力なんてものは、もうたいして残っちゃいない。このままこれが続けば、最初に死ぬのはあたしだ。それを少し早めるだけさ。難しく考えなくていいんだよ」

「嫌だよ」

「ずっと近くで、あんたが苦しむのを見てきた。前のやつのときは知らないけどね。文永に暴力を振るわれて、傷付けられて。心も体も、ぼろぼろになったあんたのことを、ずっと、何度も見てきた。その度に、あんたを助ける方法を模索した。けど、見つからなかった。あたしはただの老いぼれた、もぐりの医者に過ぎなかった。あたしにできるのは、いつも応急処置だけだった。今もそうさ。けど、それでも、やらないよりはましだ。あたしの命で、あんたの涙が、少しの間だけでも止まるなら。もし止まらなくても、その涙の流れを少しでも緩められるなら。あたしは、それでいいんだ」

「嫌だ!」

 慶慎は叫んだ。声は、慶慎たちのいる広い空間で、わずかに反響した。

「誰かを助けるためだよ」海恵子が言った。「あたしの名前を言いな、慶慎」

 リタが言った。

「坊や。せっかくの彼女の心遣いを、無駄にするつもり?」

「嫌だ」

「このまま拷問が続けば、彼女の心遣いを有効利用する前に、彼女の命が尽きてしまうのよ? 彼女が言った通り。そうなったら、全て手遅れ。あたしは、誰の命も助けない。よく考えてもみなさい、坊や。彼女がどういう気持ちで、ああ言っているのかを」

「嫌だ」

 慶慎は両手に力を込め、椅子の肘掛けを軋らせた。木製の椅子は、ぐらぐら揺れ、高い音で軋りはしたが、拘束されている状況に変わりはなかった。涙が流れた。誰か助けてよ。誰ともなく、慶慎はすがるように言った。誰も助けてくれないことは知っていた。これまでの人生で、痛いほど分かっていた。“誰か”などいない。どんなに泣いても、叫んでも。助けてくれる者など、どこにもいないのだ。

「他に方法はないの?」濡れた瞳で、慶慎は言った。誰も答えなかった。「みんなが助かる方法はないの?」

「ないわ」リタ・オルパートが言った。

 込み上げてきた嗚咽が、慶慎の胸を揺らした。誰か。また、どこにもいない存在を呼んだ。

「どうすればいいのか、僕に教えてよ。命令するだけでもいいんだ。それがたとえ、間違ってたっていい」

 慶慎は言った。誰も答えなかった。

「こんなことになるなら、生きようとなんて思わなかった。何も望まなかった。こうなることを知っていたなら、父さんの所で虐げられて、殴られて、蹴られて、罵られて。命の火が消える日を、ただ待ち続けたのに」

 静かな空間に、慶慎の声だけが弱々しく響く。き。唇を、その音を出すための形にして、慶慎は息を吐いた。ただ、それだけで、強烈な涙の波が押し寄せた。

「どうして」

 呟いて、慶慎は波が通り過ぎるのを待った。岸田海恵子。その名前を、最初は口の中だけで呟いた。小さく、そっと。胸が揺れ、咳が出る。

「何か言った?」

 リタが問う。慶慎は、何度も体の中の空気を入れ替え、涙の波を落ち着かせた。最後に一つ、深く呼吸をして、はっきりと口に出して言った。

「岸田美恵子」

 口に出した瞬間、慶慎ははっとした。違う。胸の内側から聞こえた、確信に満ちた声に、涙が凍る。そうだ、違う。慶慎は顔を上げた。

 リタは、ステージの上にいる、フルフェイスのヘルメットをした少年に、手で合図をしていた。海恵子を殺せと。

「違う!」

 慶慎は首を振り、叫んだ。眉をしかめ、小首を傾げるリタの向こうで、フルフェイスが音を立てずに、海恵子へと歩み寄る。慶慎はもう一度言った。

「違うんだ!」

「何が?」リタが言う。

 フルフェイスの少年が、懐から取り出した拳銃の撃鉄を上げた。海恵子のこめかみに、銃口を突きつける。

「違う、やめろフルフェイス!」

 慶慎は、自らの喉を切り裂くように叫んだ。

 その人は僕の母さんみたいな。

 海恵子が、にっこりと微笑んだ。その唇が、優しく動く。ありがとう。彼女は声には出さなかったが、慶慎には確かに、その言葉が聞こえた。

 海恵子さん。

 ぱん。

 乾いた音がして、海恵子の頭が揺れた。銃口が突きつけられたのと、反対側のこめかみが小さく爆ぜ、赤黒い、どろりとした血が飛散する。海恵子の頭ががくりと落ち、重力に敗北を認めた血が、彼女の胸元へと流れる。

「海恵子さん?」

 慶慎は呼んだ。呼べば、彼女は返事をするのだ。今までと同じように。そう信じた。海恵子さん。彼女はただ、眠っているだけだ。その眠りが、自分の呼びかけが届かないくらい、深いだけで。

「海恵子さん」

 リタが言った。

「おやすみ、岸田海恵子」

 咆哮。慶慎は、自分を取り巻く世界から、音が消えるのを感じた。だがそれでも明確に、自分が叫んでいることが分かった。

つづく




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posted by 城 一 at 13:29| 長編小説 焔-HOMURA-[integral] | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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