Gusuku LABELへようこそ!
最近、自分がフリーメールを活用できない人間だってことに気付きました。

2008年07月20日

ブログ小説 焔-HOMURA-[integral] 第189回(2版)


生。


 辺りを満たす夜に静けさが戻るのを待ってから、鈴乃はパジャマを脱いだ。下には、何も身に付けていなかった。傷だらけの体は、わずかな動きにさえも悲鳴を上げた。ベッドに横たわるシドの体から、掛け布団とパジャマを剥いだ。磐井がもし、鈴乃の目的を正確に知っていたなら、シドと二人きりになることは許さなかったかもしれない。シドの履いていた――あるいは、履かされていた――パンツを脱がせ、ペニスを口に含む。

 人との繋がりを感じたのは、セックスを経て、羽継と兄妹になってからだ。口頭上の兄妹でしかなかったが。セックスで構築される関係は、確実だ。性欲に衝き動かされた男の前に自分しかいなければ、その男には自分しかいないことと同じだ。問題なのは、その関係が持続される時間が、男が射精するまでの間に限定されることだけ。いくつもの解決を思案し、試みたが、セックスを利用して手に入れた関係を長引かせることはできなかった。できたとしても、半年に満たない数ヶ月、あるいは数日だけ。永遠だと思っていた羽継との繋がりも、鈴乃の知らない合間に、切れてしまっていた。数多の人間に、話を聞いた。セックスで人間関係を構築することの愚かさを説かれた。いつしか、理屈だけは理解できるようになっていた。だが、頭に、そして行動に、反映されることはなかった。セックスを使わずに構築する関係を、幾度か試みた。それは失敗するか、構築されたように見えても、実感することができなかった。

 遅すぎたのだ。答えを手に入れるのが。羽継とのセックスが分岐点だった。構築した関係の結果、あるいは通過点にセックスがある人間たちとは違う道を、歩みすぎた。彼らの行動原理はもはや、鈴乃の体内では外敵として認識され、排除される所まで来てしまっていた。

 シドのペニスが勃起した。耳は、彼の傍らで規則正しい音を立てる心電図に注意を払っている。シドが帰ってくる可能性を乱してまで、この“関係”を手に入れようとは思わなかった。

 シドは、今までの男とは違った。少なくとも、そう思った。この行為を終えても、それは変わらないことを知っていた。だがそれは、シドが眠っているからかもしれない。もし起きていたのならば、彼はこの行為を許さない。

 傍らに、気配が生じかけた。目で見なくても、それが幼い頃の自分であることが分かった。“どうして彼とセックスをしたいのか、教えてあげようか”そう言いたかったのだろう。はっきりと姿を作り、声を出す前にねじ伏せた。お前の出番じゃない。気配は消えた。

 少し、焦っていた。シドのペニスはもう、準備ができているのに、自分の方がまだだった。指先でいくら愛撫しても、水分を含まない。性交を拒絶しているのだ。だが、彼と交わらなければ、先に進めない。必要なのだ。そう言い聞かせて、指を繰った。やはり濡れなかった。唾液を指に塗りたくり、無理やり開いた。

 シドの上に乗ろうとしたところで、体が硬直した。彼の顔が視界に入ったからだ。込み上げる罪悪感、そして嫌悪感を、陰核を撫でる指先で打ち消した。シドのペニスに、体を沈めた。

 声が出た。快楽よりも、わずかに痛みの方が大きい。だが、膣からくるものなのか、体中あちこちにある傷からくるものなのかは分からなかった。ゆっくりと、腰を上下させた。顎先からシドの胸に落ちる脂汗に、涙が混じった。眠っている男とのセックス。これが、自分の欲したものなのか。

 快楽が消え、苦痛が消え、嗚咽だけが残った。腰を動かし続ける。数多の男と関係を持ち、肌を赤く染め、悦び、喘ぎ、たどり着いた終着点。汗が、涙が、愛液が溢れている。だが、何もない。

「シド」

 呟いた名前が、快楽を蘇らせた。自分は、どうしようもない愚か者だ。好きな男が眠っているときにしか、好意をぶつけることができない。そしてそのためには、相手を貶めることもいとわない。

 ここには、体は二つある。だが、心は一つしかない。一方通行の感情。自分が満足するためならば、相手が眠っている隙をも利用する。

 所詮自分は、その程度の人間だったのだ。

 シド。何度も、男の名前を呼んだ。腰を動かす速度を上げた。頂が近付いている。シド。名前を呼び続けた。シド。

 射精。膣に満ちた温もりが、快楽を登りつめさせた。体をのけぞらせ、一瞬の硬直の後、大きく息を吐く。脱力するままに倒れ、シドの胸に頭を預けた。

 外気が、汗を利用して、急速に体温を奪っていく。心電図の音。冷徹な静寂が、夜に満ちていく。膣の中の温もりが、ただの精液へと変わっていく。指にすくって、舐めた。

 まずい。

 精液は、精液。誰のものでも、同じだった。

 シドに下着を履かせ、パジャマを着せた。布団を掛け、元通りにして、ベッドから下りた。

 病室を出ると、すぐ側の壁にもたれて、磐井がいた。煙草を吸っていて、辺りに甘ったるい煙を漂わせていた。彼は腕を組み、目を閉じたまま、言った。

「あんたは、ばかだ」

「これ以上ないほどに」

 鈴乃はパジャマの前のボタンを掛けながら、そう言った。

つづく




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2008年07月10日

ブログ小説 焔-HOMURA-[integral] 第188回(2版)


最後のわがまま。


 いつからその考えが、頭の中にあったのか、鈴乃には分からない。初めて出会ったときから、芽はあった。他の男に対する欲望とは、全く違う場所に。はっきりと形となって現われたのは、アイザックのアトリエがある山から、帰ってきてからだ。やるべきこと、やらなければならないこと。片手の指があれば十分に数えられる中に、それはあった。

 志津子との“買い出し”は、予想以上に、鈴乃の体力を奪っていた。病院で待っていた看護士や医師たちから、無断で外出したことに対する小言を聞く余裕さえなかった。それは、自分の体力に対する失望を誘ったが、同時に好都合でもあった。小言を言われるのが好きな人間などいない。

 鈴乃は眠った。夕食も取らなかった。それが、午後六時頃のこと。目が覚めたのは、深夜一時を過ぎた頃だった。見回りの看護婦が来たので、眠れないと言った。彼女は、「規則を破るからよ」と言った。「規則というものはたいてい、不自由を味わわせるために設定されるものではないのよ」と。患者を、退院したあとの、より大きな自由に、可能な限り早期にたどり着かせるため。鈴乃が言うと、看護婦は微笑を浮かべて頷いた。

「だから、あたしたちの言うことを聞いて、おとなしく安静にしてなさい」

 彼女が鈴乃の病室から出ていき、足音が遠ざかるのを待ってから、鈴乃は自室を出た。

 車椅子と松葉杖には頼らなかった。素足よりも音が出るし、物陰に身を隠すとき、邪魔になる。体の支えには、壁があったし、そこに沿って設置された手すりもあった。だが、それでもやはり、楽ではなかった。目的地にたどり着くまでに、息は上がり、脂汗がパジャマを濡らしていた。怪我は痛みとともに、発熱ももたらしている。鈴乃は、シドの病室のドアを開け、中に倒れ込んだ。

「おい、大丈夫か?」

 鈴乃は思わず、舌打ちをした。病室には、シドしかいないものと思っていたのだ。声の主は、磐井だった。彼が存在する可能性くらい、頭に入れておくべきだった。磐井は、鈴乃の体を抱きかかえた。磐井は言った。

「何しに来た」

「見舞い」

「そいつは、面会が許されてる時間内にしてもらわなくちゃ困るな」

「あなたは、どうしてここに?」

「シドさんは将来、ツガ組の四大幹部が一人、〈玄武〉になる人だ。内外問わず、彼の命を狙う無粋な連中は、たくさんいる。あんたは」

「だから、見舞いよ」

「嘘だな。あんたは、絶対安静を宣告された身だ。彼が体を張ったのは、夜の散歩で無闇に縮められる命のためじゃないはずだ」

「もちろん、無闇に縮めてるわけじゃない」

「何しに来た」

 鈴乃は、磐井の腕から逃れて、地べたに膝を揃えて折り、座った。

「彼と、二人で話をしたいの」

「彼は、話せない」

「言葉を用いなくても、できる話がある」

「そんなものはない」

「あるわ」

 磐井は鈴乃の目を捉えたまま、小さく首を振った。

「だめだ。何を考えてる?」

「最後のわがままよ。そしておそらく、今夜を逃せば、機会は他にない」

「その心配はないだろう。あんたはここで安静にして、療養を続ける。彼はやがて目を覚ます。話をする機会は、いくらでもある」

「彼が目を覚ますとして」鈴乃は、ベッドで眠るシドの横顔を見た。「その頃にはおそらく、あたしはいない」

「そんなはずはない」

 磐井を見た。

「知り合いに、麻薬を手に入れてもらったの。〈シンデレラ〉あるいは、〈ガラスの靴〉と呼ばれるものよ。それを使えば、あたしの体は動く」

 磐井が眉を潜めた。〈シンデレラ〉のことを、知っているのだ。そして、鈴乃がやろうとしていることにも、気付いた。

「そんなものを使えば、あんたは戻ってこれない」

「それでも選ばなきゃならない往路がある」

「そんなものはない」

「あたしにはある」

「二度目だ。彼はあんたに、そんなことを望んじゃいない」

「でも、眠ってる人間には止めることはできない」

「なら、俺が言ってやる。麻薬なんてくそに頼って、彼の敵討ちなんぞをやるのは許さん。あんたは、生きるために生きなきゃならん。死ぬために生きてはならない」

「その理屈は分かってる。あたしを、何だと思ってるの?」

「刹那主義の、くそったれな殺し屋」

「刹那を積み重ねなければ、未来はないのよ、ベイビ」

「だめだ。そんなことは許さん。彼が目を覚ましたら、俺は見せる顔がない」

「あたしが勝手に望み、勝手にやることよ。あなたに責任はない」

「くそっ」磐井は立ち上がった。首を振る。大きく。「だめだ。ふざけるな」

 鈴乃はパジャマの胸ポケットから、〈シンデレラ〉を取り出した。窓から入ってくる月明かりが、目薬のケースで反射し、光る。

「今ここで、あたしにこれを使わせたいの? 経口摂取でも、ある程度の効果は得られるはずよ」

「今のあんたなら、そいつを使う前に取り上げられる」

「今は、それで切り抜けられるかもしれない。けどその場合、次は、〈シンデレラ〉を使ってから、ここに来る。あなたはあたしを止めることはできない」

「複数の部下を配置し、あんたと本気でやり合えば、止められる可能性はある。それに、今あんたを阻止した上で、即座にあんたが所持している麻薬を全て取り上げることもできる」

「一つ。あなたはシドがいる場所では、本気ではやれない。二つ。たとえあなたが、あたしが今現在所持している〈シンデレラ〉全てを取り上げたとしても、あたしは再び手に入れることができるし、手に入れる」

 磐井は溜め息をつき、背もたれのない円椅子に、尻餅を突くようにして座った。着ていた黒のスーツの胸ポケットから、煙草のパッケージを取り出し、一本くわえた。

「蓮さんから、五十余の部下と一緒に、形式上の破門をもらった。湾曲的な、リタ・オルパート、アイザック・ライクンとの戦争への許可だ。C・C・リヴァたちも加わる。俺たちは必ず殺る。アイザック・ライクンを」

「外野席で手に入る結果に、意味はないわ」

「シドさんのためにも、死に急がないでくれ」

「そんなつもりはないわ。ただ、あたしが生きるためには選ばなきゃならない道があって、それにはたまたま、おそらく、先がないだけ」

「どうすれば、あんたを止められた?」

「そうね。もし、彼が目を覚まして、あたしを抱きしめてくれたなら」

「彼には、マリさんがいる」

「ええ、そうね」

 磐井は立ち上がり、病室のドアを開けた。

「どれくらい、時間が必要なんだ?」

「三十分から、一時間」

「分かった」

「磐井?」

「何だ」

 肩越しに顔だけ振り返った磐井に、鈴乃は言った。

「ありがとう」

「命を賭けられたら、誰でも道を譲る」

 磐井は言った。

つづく




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2008年07月03日

ブログ小説 焔-HOMURA-[integral] 第187回


これ以上、言葉を遺さないで。


 日が暮れかけているのにも関わらず、黒いレンズのサングラスを掛けた男は、鈴乃を一瞥して、志津子に何事か呟いた。日本人のように見えるが、男の口から出てきた言葉は、日本のものではなかった。志津子は、男と同じ言葉を使い、返事をした。男は鼻を鳴らし、茶色い紙袋を、志津子に渡した。志津子からは、青い色の付いた、不透明なビニール袋――丸められて、直方体に近い形になっていた――が渡された。男は袋の中を覗き、頷くと、立ち去っていった。

「いくら渡したの?」鈴乃は言った。

「五十」

 今は手持ちがないけど――鈴乃の言葉を、志津子は途中で遮った。

「大丈夫だ、いらないよ」

 廃ビル。ガラスを失った窓から差し込む西日の中に、鈴乃たちはいた。アイザックとの戦闘を経た鈴乃の体は、当分の間、以前のように動かすのは無理だと、医者から言い渡された。〈ツガ〉の息のかかった病院を経営している医者だ。鈴乃は、法に触れる方法でもいいからと言ったが、医者は首を縦に振らなかった。志津子に相談したのは、他に、方法が思いつかなかったからだ。志津子は、ドラッグを使う方法を提案した。鈴乃はそれを呑んだ。彼女が手配したドラッグが今、男から手渡された紙袋の中に入っているものだった。志津子は紙袋の中身を一つ取り出して、鈴乃に放った。

 市販の目薬にしか見えない代物だった。全く同じケースは、商品名を示すシールが貼られたまま、透明な液体に満たされていた。

「これが?」

「モルヒネやヘロインのお仲間、抑制系薬物(ドラッグ)、〈シンデレラ〉。“ガラスの靴”とも呼ばれてる。静脈注射で摂取すれば、おそらく、あんたの体は動く。薬が効いてる間だけね」

「そう」

「満足かい?」

「ええ。でも、確実じゃないのよね? このドラッグの効果が、あたしの体を動かすかどうか」

「ああ」

 志津子は、男と同じく、黒いレンズのサングラスを掛けていた。表情は見えない。

「試してみても?」

「だめだ」志津子の語気は強かった。腹に、鈍く響く。「あんた、自分が使おうとしてる薬が、どれだけやばいのか分かってないのかい?」

「まあ、今のあなたの反応からすると、そうだったみたいね。麻薬の危険性は、ある程度承知してるつもりだったけど」

「ドラッグには、必ず副作用があるんだ。あんたのその、ぼろぼろの体を動かせるほどの効き目と、副作用を、秤に掛けてみな。分かるだろう」

「分かるような気はするけど、ぴんとこないわ」

「そいつを飲んだり、あぶって煙を吸ったり、粉状だったものを鼻で吸うなら、まだいい。それでも、十分にやばいドラッグだけどね。けど、静脈注射で摂取すれば、まず戻ってこれない」

「中毒症状から、抜けられない?」

「一発で、そこまでいく。もっと言えば、街のヤク中のがきどもが、より効き目のあるクスリと方法を追求した末に、〈シンデレラ〉の静脈注射で、昇天してる例さえ、いくつもある」

「そう」

「戻ってこれないんだよ。下手をすれば、死ぬんだよ」

「あたしは今、自分が生きてることに、あまり自信がないの」

「胸に手を当ててみろ。鼓動が聞こえるから」

「それで保証される生の話じゃないわ」

「あの男は、ドラッグが嫌いじゃなかったかい?」

「シドのこと?」

「そう」

「彼は、眠ってるわ。彼も今、自分が生きてることに、あまり自信がないでしょうね。ただし、その場合、鼓動で保証される生の話になるけれど」

「そうかい」

「そうよ」

「クスリを使って手に入るものに、本物はない」

「手に入れるために、行くんじゃないわ」

「シドはいずれ、目覚めるかもしれない。いずれ、あんたに微笑むかもしれない」

「彼の傍らには、彼が眠っている間、泣いてくれる女がいるわ」

「誰か、あんたに微笑んでくれる男が現われるかもしれない」

「あるいは、女が?」

「あたしは今、冗談に付き合う気分じゃない」

「そう」

 志津子が、黒革でできた、小さなショルダーバッグを、〈シンデレラ〉が入った紙袋とともに、鈴乃の膝の上に置いた。

「中に、注射器が入ってる。使いな」

「ありがとう。お金は」

「さっき、いらないと言った」

「でも、それじゃあ、あなたにお返しができない」

「だから、いらないんだよ。礼なんて」

「セックスなら」

 ばかじゃないのか。志津子の怒声が、ビルの中にこだました。志津子は荒々しく呼吸をしながら、鈴乃を見下ろしていた。

「あんたは、本当に」

「本当に?」

 志津子は首を振り、鈴乃に背を向けた。

「いや、何でもない」

「言ってよ」

「もういなくなる人間に、言いたい言葉なんてないよ」

「そう」

「ごめん、鈴乃。帰りは、一人で帰ってくれるかい? あたしはちょっと」

「うん。いいよ、志津子」

「ごめんよ」

「あたしが悪いのよ」

 別れの挨拶を交わした。志津子は、ビルの階段がある方へと歩いていった。鈴乃は言った。

「ポロは、元気にしてる?」

 ポロ。井織光子が遺していった、イングリッシュ・コッカー・スパニエル。処分される予定だったものを守り、彼女に預けたのだ。志津子が歩を止めた。

「ああ。他の子たちが、困るくらい」

「そう」鈴乃は言った。「ねえ、志津子。あたし、あなたのこと」

「やめな」また、ビルの中にこだま。志津子の声は、これ以上ないほど、硬質なものになっていた。「これ以上、あたしの中に、言葉を遺さないでおくれ」

「分かったわ」

「じゃあね」

 志津子は姿を消した。鈴乃は、〈シンデレラ〉の入った目薬のケースを通して、夕日を見た。燃えるような、赤。そのように感情が燃えていたのは、かつて、遠い昔のことだ。

つづく




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posted by 城 一 at 12:50| 長編小説 焔-HOMURA-[integral] | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年06月25日

ブログ小説 焔-HOMURA-[integral] 第186回(2版)


ありがとう、無能な指揮官。


 狩内蓮を見つけ、彼がついていた机を、両手で叩いた。蓮は、血が飛び散った机の上で、崩し将棋をやっていた。肝心の将棋の山が、机を叩いた衝撃で瓦解し、蓮は傷ついた表情を浮かべた。

「無粋なやつだな、お前。知らないのかもしれんが、こいつは崩し将棋って言う、立派な」

「暇潰しだろう」

 蓮は両手を広げて、肩をすくめた。

「知ってたのか」

 小さな古書店だった。色褪せた無数の本と、それを収める棚、空間を形作る線を曖昧なものにする埃、そしてわずかに、かびたにおい。古びた机に、レジスター。華やかなものとは、およそ縁のないものばかりが詰まった場所。そこに蓮と、その部下たちはいた。部下たちは、棚に詰まった本を片っ端から床へと散らばしていた。

「〈ミカド〉か」リヴァは言った。

「もちろん、そうだ。ここ最近の俺たちの仕事には、たいてい、その名詞が絡んでいる」

「こんな小さな、古本屋が?」

 本棚を全て除いたところで、生活に快適なスペースを確保できるかどうかさえ、疑わしいほどの規模の古書店だった。老後の時間の浪費にしか、似合わない場所。

「〈コイズミ古書店〉の店主、小泉修(こいずみおさむ)は、水滸伝が好きなじいさんでな。知ってるか? 中国の古典だ。小泉修は自身を、その水滸伝の中心人物、宋江(そうこう)に見立て、百八人の豪傑が集まる梁山泊を作り上げようとした。名前は〈水滸〉。だが、まあ。豪傑になりたかった一般人たちが、四十九名集まったところで、物語は幕引きとなった。彼らが潰したかった、やくざの手によって」

 蓮が座る椅子の後方にも、本棚があった。そこに並ぶ本の背表紙が、血で汚れていた。

「じじい一人が集めた連中に怯えて、わざわざ芽を潰しに来たってのか」

「〈DEXビル〉の件を境に、街は今や、〈ミカド〉一色だ。その大半が、英雄願望に衝き動かされた、ただ大きな波があったら乗りたいだけの、サーファーどもだが、勢いに乗せると厄介なことになる」

「街全部が、敵か」

「そうとも言える。くだらんな。どいつもこいつも、自分はいつか、ピーター・パーカーになれると思っていやがる」蓮は言った。「蜘蛛に噛まれて、スパイダーマンになれると」

「物語の中心は、誰しもが憧れる場所だ」

「誰しもが、人生という名の物語の中心にいるはずなのに」

「その物語も、たくさんの物語が集まった中心にあってほしいのさ」

「大きなものを望まなければ、表の世界にいることはできるのに」

「“裏”を迂回してでも、より中心を目指したいのさ。その願望を刺激するのが、〈ミカド〉だ」

「銃を取り、法を侵し、正義を騙った者たちが、まつられる文化。あるいは組織、集団。生死の狭間に身を置けば、視界が狭くなり、周りが見えなくなるからな。必然、世界が小さくなったように感じる。小さな世界なら、自分の居場所が、より中心に近づいたと錯覚することができるか」

「で? くそったれ(ファッキン)“正義の使者”どもは、まだまだ潜んでるのか?」

「勢いは弱くなっているものの、放っておけば、後々面倒に発展しそうな規模では」

「兵隊が必要だ」リヴァは言った。

「だめだ」

「リタ・オルパートと、アイザック・ライクンを潰すのに」

「だめだ」

「連中も、放っておけば、後々面倒に発展する可能性がある」

「風際慶慎にとって」

「〈ツガ〉にとって」

「たかが一人の子ども(ガキ)に執着する女を中心に、そうたくさんの人間が集まるとは、到底、思えないな」

「だが、その敵が〈カザギワ〉ならば、ミカド系の組織を作る可能性は、十分にある」リヴァは言った。「それに、小泉修は一人の子ども(ガキ)どころか、たかが一つの物語に執着した男だ」

「そうだな」

「兵隊が必要だ」

「答えは変わらない」

 机の上に、蓮が再び作っていた将棋の駒の山を、手のひらで払い落とした。

「兵隊が必要だ」

「誰かが、何かを成し遂げたくて。あるいは、手に入れたくて。その過程に、規模を問わず、戦闘が発生する可能性があるのならば、誰にだって必要だ」

「だから?」

 机の上には、歩の駒が、一つだけ残っていた。蓮はそれを逆さまに立ててから、指で弾いた。リヴァの腹に当たり、ぽとりと落ちる。

「俺が気に入らないのは、うちに入ったばかりのちんぴらが、自分が望めば、組の人間を自由にできるものと思っている点だ」

「俺は」

「組のやつらはもちろん、人間だ。機械じゃない。お前も含めて、そうだ。プライヴェートがある。人間として、自由に考え、行動する権利はある。だが、“ある程度”だ。お前らが構成するピラミッドの上にいるのは、俺だ。特に、〈ミカド〉という、くそったれの文化と組織が跋扈しているこの非常時では、それぞれの行動あるいは思考の、かなりのパーセンテージを、俺に委ねなければならない」

「俺には、風際慶慎が必要だ。それを手に入れるためには、今、兵隊が必要なんだ」

「俺は既に、お前にかなりの自由を与えた。他の連中が、俺の命令で動いている間、お前は自由に思考し、行動した」

「〈ツガ〉という組織に所属することで手に入る、力に利用価値があったからな」

 蓮が、眉を上下させた。

「今は」

「兵隊が必要だ。貸せないならば、俺にとって、〈ツガ〉は利用価値のない組織だ」

「暴力団が、部活やサークル活動か何かだと、勘違いしてるんじゃないか、ガキ? “ひやかしは厳禁”だ。ひとしきりだだをこねて、思い通りにならないなら、“はい、さようなら”か。そいつは、通用しない」

「二十一世紀に入っても、小指を欲しがる文化は、色褪せちゃいないのか?」

「色褪せてはいるが、ノスタルジーが、魅力を引き立ててはいるな」蓮が、懐から匕首(あいくち)を取り出し、机にとん、と突き刺した。「やり方は、知ってるか?」

 リヴァは、机に突き刺さった匕首の刃の下に、小指を置いた。

「これで、匕首を倒せばいいんだろ?」

 蓮は、背後の棚から一冊、本を取り出し、ページをめくった。

「頭を冷やして、よく考えるんだな。風際慶慎が、小指を犠牲にするに値するやつなのか。時間はやるよ」

「必要ない」

 匕首の柄に手をかけて、力を込めた。小指の上に引き倒す。が、刃は小指に至らなかった。蓮が、ページをめくっていた本を、滑り込ませて、匕首から小指を守っていた。

「まさか、本当にやるとはな」

「時間は必要ないと言ったぞ。情けも同じだ。答えは変わらない。どけ」

「そう簡単に、見捨てるな。小指がかわいそうだ」

 蓮を見た。

「なら」

「兵隊は貸さん。だが、このことで、組織の中での俺の求心力の低下を懸念してくれる甲斐性があるなら、とっとと用事を済まして、帰ってこい」

「リタ・オルパートとアイザック・ライクンは、そう簡単な相手じゃない」

「泣き言を言うな、情けない。お前は、破門だ。お前が街に出て問題を起こし、警察(サツ)と揉めても、〈ツガ〉は一切関知しない。〈ツガ〉の仕事(シノギ)の邪魔になる場合、容赦はしない。〈ミカド〉や、他の敵対組織と同様に扱われる」

〈コイズミ古書店〉の中を整理している男たちの中には、ポール・ミラーマンもいた。彼は、抱えてきた大量の書籍を、蓮がついている机の上に、荒々しく置いた。舞い上がった埃を、蓮は眉を潜めながら、手で払う。

「何だ、ポール。嫌がらせか?」

「嫌がらせだ。お前、ここ最近で、何人の人間を破門にした?」

「磐井を含め、五十前後かな?」

「五十三」ポールは言い、顎を動かして、リヴァを示した。「こいつを入れれば、五十四だ」

「いや、五十六だ」蓮は言った。「そうだろう?」

「蓮」リヴァは言った。

「違うのか?」

「いや、そうだ。バーバーとダンクも、俺と行動をともにする」

 ポールが溜め息をついた。

「頭痛がする。蓮。お前、減った戦力を、どうやってカバーするつもりだ」

「気合いだ。俺の部下の辞書の一ページ目には、必ずその言葉が記載されている」

「間違いだな。俺の辞書の一ページ目には、その言葉は載っていない」

 ポールが言った。

「ほう? なら、何て言葉が載ってるんだ?」

「無能な指揮官」

「知らないのか? 有能な人間は、常に副官にいるべきなんだ」

「頭が割れるようだ」

「あとでバファリンをやるよ」蓮が、リヴァを見た。「おい、外部の人間は邪魔だ。ここでやってることは、見世物じゃないんだ。とっとと出ていったらどうだ?」

「ありがとう、蓮」

 蓮は眉間に皺を寄せて、ポールを見た。

「おい、ポール。どうして、組の外部の人間が、俺の名前を知ってるんだ?」

「知らんよ」

 リヴァは言った。

「ありがとう、“無能な指揮官”」

「うむ。行ってよし」

 踵を返し、リヴァは古書店の出口へ向かった。背後で、ポールの溜め息が聞こえた。

つづく




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2008年06月19日

ブログ小説 焔-HOMURA-[integral] 第185回(5版)


上を向いて、笑ってる方が。


 シドの病室を出たところで、彼の養父、志戸有助と会った。マリが見舞いに来ていることを告げると、志戸有助は、少し時間を潰さなくてはな、と言った。そして鈴乃に、それに付き合ってほしいとも。鈴乃は、車椅子を押してくれていた看護婦に別れを告げ、志戸有助の願いを聞き入れた。彼が引き連れていた部下が、自分がやると言ったが、志戸有助は頑として譲らず、自らの手で車椅子を押した。後ろに〈ツガ〉の玄武隊の構成員である、志戸有助の部下を二人従え、彼とともに、院内の中庭に出た。サルビアの赤い花弁が、寒風の吹く庭を彩っていた。

 志戸有助が言った。

「知ってるかい? 一度、あいつが目を覚ましたことを?」

「本当ですか」

 鈴乃は身をよじって、志戸有助を見上げた。シドの回復。頭をよぎった期待は、彼の表情と言葉によって、かき消された。

「あいつの命がこちら側に戻ってくることを、保証するものではないらしいがね。まったく。年寄りをぬか喜びさせるたぁ、趣味が悪い。医者のやつも、高敏のやつも」

「本当に」

「ネコに謝っといてくれ。そう言っていた。最初は、ペットのことでも言ってるのかと思ってたんだが、違ったんだな。あいつの弟分から、聞いた。どうやら、あいつの“ネコ”は、お前さんらしい」

「どうでしょうか」

「心当たりがないかい?」

「あたしの方が、謝らなきゃならないことばかりしていましたから」

「そうかい」志戸有助は言った。「ま、あいつの言ってた“ネコ”が、飼ってるのかも分からんペットの猫だったにせよ、殺し屋のネコだったにせよ。とりあえず、受け取っちゃくれねえか。あいつがわざわざ戻ってきて、置いていった言葉だ」

「分かりました」

「あいつのこと、許してやってくれるかい?」

「許すも、何も」

 言いながら、鈴乃は志戸有助の顔を見た。軽口を呑み込み、頷いた。

「ありがとよ」志戸有助は空を見上げて、溜め息をついた。「血、命、銃、麻薬、女。全てが溢れるほど多すぎて、右から左へと流れていって、記号になっちまう。ヤクザってのはまったく、因果な商売さ。長いこと、それで飯を食ってきた。お陰で増えたしがらみを引きずりながら歩くにゃ、俺は年を取りすぎた。あいつにあとを譲って、解放されるつもりでいたのが、神さんにばれちまったかな?」

「すいません」鈴乃は言った。「彼のことを、守るつもりだった。守るべきだったのに、守れなかった。それどころか、あたしの方が守られてた」

「腕力のことを言ってるのかい? それとも、体ん中のことか。何にせよ、謝ることじゃねえさ。女の盾になれねえ男に、価値なんかねえ」

「そんなことは」

「あんたは、〈カザギワ〉の殺し屋だ。戦闘能力じゃ、やつは敵わなかったろうさ。だが、そんなことは問題じゃないんだよ。あいつはちゃんと、あんたのことを守れたかい?」

「十二分に。だからあたしは今、ここにいるんです」

「なら、いい。女一人も満足に守れねえやつに、玄武の名を譲ろうとしてたなんてことになったら、卒倒しちまわあ」

「すいません、本当に」

「いいんだよ。それにしても、あんたみたいなのが、殺し屋なんてな。お陰で、包帯にギプス、車椅子。あんたは上を向いて、笑ってる方が似合ってると思うんだがね」志戸有助は言った。「そうなりゃ、極上のいい女だ」

「やめてください。あたしは」

 看護婦がやって来て、志戸有助に、マリが帰ったことを告げた。そして今日、面会の許されている時間が、残り少ないことを。志戸有助は頷き、鈴乃に別れを告げ、部下を従え、院内へと戻っていった。

「あたしはいい女なんかじゃ」

 車椅子のハンドルを握った看護婦に、何か言ったかと尋ねられた。何でもない。首を振り、鈴乃はそう言った。

つづく




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2008年06月13日

ブログ小説 焔-HOMURA-[integral] 第184回(13版)


また、会いに来てあげてね。



喪失を 埋める道里に復路なし

女殺し屋 猫が啼く



 鈴乃は、看護婦に車椅子を押してもらい、シドの病室を訪れた。個室で、もう一台ベッドを置けそうなスペースがあった。ベッドで眠るシドの頭側、窓際にある淡いグリーンのチェストの上には、見舞いの花が置かれていた。溢れんばかりにバスケットに詰め込まれた、鮮やかなパステルイエローのバラとガーベラ。ベッドを挟んで逆側では、心電図が一定のリズムで音を発してグラフを描き、シドの心臓が動いていることを保証していた。シドが眠るベッドの脇には、先客がいた。マリ。シドの胸に突っ伏して、心電図よりも静かな調子で泣いていた。鈴乃は目で合図し、看護婦に別れを告げてから、言った。

「どうして泣いてるの?」

 声をかけられて初めて、鈴乃の存在に気づいたマリは、いったん泣くのをやめ、振り向いた。彼女の目は赤く、周囲が腫れぼったくなっていた。マリは化粧を崩さないように、指先でそっと、涙をすくった。

「ああ、あなた」マリは言った。「泣いてるのは、悲しいからよ」

「嘘」

「嘘なんかじゃない」

 シドの方に向きなおり、独り言のように、マリは言った。鈴乃は、軋む体を動かして、車椅子を操った。チェストの前に行き、日の光を浴びながら、バスケットの中の花を眺めた。

「シドから、聞いたわ。彼がソープに“沈めた”お姉さんの復讐を果たすために、彼の側にいるんだって。彼の恋人(オンナ)なのに、他の男と平気で寝たり、彼の嫌いな麻薬(ドラッグ)に手を出すのは、そのためなんだって」

「タカが、そう言ったの?」

「そうよ。磐井から聞いた部分もあるけれど」

「なら、どうして、あたしのことを捨てなかったのかな」

「“理屈通りに動かないのが、気持ちってもんだろ”だそうよ。あなたの気が済むまで待って、そして、あなたと一から関係を築きたいって」

「ばかね」

「まったくもって」

「サキお姉ちゃんは、元はすごく真面目だったの。あたしは、その正反対。悪いことばかりしてた。煙草、お酒、男。同年代の子たちの中で、覚えるのが一番早かった。お姉ちゃんには、そのことで、いつもお説教されてた。けど、悪い気はしなかった。あたしのために言ってくれてるって、分かってたから。格好とか言葉遣いとか、付き合う友だちの種類とか。まるで正反対だったけど、あたしたち、仲のいい姉妹だった」

「あたしにも昔、兄がいたわ」鈴乃は言った。「もういないけれど」

 そうなの。マリはそっと、相槌を打った。年上の兄弟を持つ感覚を共有する、仲間として。そして、その“兄”がもういないことに対して、残念だとでも言うように。その兄とは血の繋がりがなく、考えようによっては、彼に犯されたこともあるのだということは、言わなかった。マリは言った。

「そのお姉ちゃんが、変わったの。いい意味でね。好きな男の人ができたのよ。大学二年生のときだった。あたしなんか、中学校に入ってすぐにセックスを覚えたのに」

「奥手だったのね」

「かつ、地味だった。でもそれが、急に魅力的な大人の女の人になった。化粧がうまくなって、ちょっとした仕草も女らしくなって、服のセンスも良くなって。人生、楽しんでるなって思った。それまでは、こうしなくちゃならない、ああしなくちゃならないって、規則とか義務、責任に縛られてばかりの人だったから。お姉ちゃんの変化は、自分のことみたいに嬉しかった」

「そう」

「二年。お姉ちゃんが、輝いてた時間の長さよ。そして、その男の人と続いた長さでもある。その人と別れてからは、今度は悪い意味で、お姉ちゃんは変わった。何だか落ち着きがなくなって、いつも、らしくない場所にいて、らしくない種類の連中と付き合って、らしくないことをするようになった。夜が明けるまで街にいて、常に、一緒にいてくれる人を探してた。で、一緒にいてくれる人なら、誰でもいいの。体目当ての猿でも、ただ飲み食いがしたいだけの、たかり屋でも。お金の使い方も、荒くなった。それまでは、一つや二つ持ってるくらいだったブランド品で、身を固めるようになった。まるで、鎧みたいだった」

「それで、何か、あるいは誰かから、身を守ってた?」

「そんな感じがした。で、お姉ちゃんは“鎧”を買うのに借金をし始めた。お姉ちゃんは、街の不動産屋で働いてたんだけど、そこのお給料じゃ間に合わなかった。借金は高すぎたし、膨らむスピードも早すぎた。なのに、お姉ちゃんはブランド品を買うのをやめなかった。最終的には、彼女はヤクザからお金を借りた。ソープランドへ行って、男の人とセックスをして稼いだお金で、借金を返済しなくちゃならなくなった」

 鈴乃は頷いた。マリは続けた。

「お姉ちゃんは、借金で首が回らなくなった辺りから、家に寄りつかなくなってた。両親が警察に届けようとしたけど、お姉ちゃんだって大人だから、何か事情があるのかもしれないと思った。だから、あたしは少し時間をちょうだいって言って、街でお姉ちゃんを探し始めた。そこで会ったのが、タカだった。彼は言ったわ。“そういう事情なら、もしかすると、俺たちのいる世界に関わってしまってるかもしれない”って。初めて会ったときから、優しい人だった。彼のことを好きになるまで、時間はかからなかった。彼の方も、同じ気持ちだっていうのも、すぐに分かった。不謹慎だったとは思うけど、お姉ちゃんを探すのに、タカと街を歩き回ってた時間は、同時に、彼とのデートでもあったの。あたしたちは、愛し合うようになった」

「恋人同士になった」

 鈴乃の言葉に、マリは頷いた。

「少しして、タカがあたしを避けるようになった。嫌われたのかなって思った。でも、違った。タカは調べてるうちに、分かったの。自分がソープへとやった女の一人が、あたしの探してる姉だっていうことに」

 マリは少し黙った。鈴乃は待った。彼女は少し深く息を吐き、話を再開した。

「けど、タカは逃げたわけじゃなかった。あたしに本当のことを話すための、気持ちの準備をする時間が欲しかっただけ。で、それができて、あたしに話した。あたしは仕方ないと言った。悪いのはお姉ちゃんだって。嘘だった。タカのこと、最低の男だって思ってた。あたしのことだって、本当は、自分がソープにやった女の妹だってことが分かってて、わざと側に置いてたんじゃないかって。それで、まんまと彼のものになったあたしのことを、陰で笑い者にしてたんじゃないかって」

「彼は、そんなことはしないわ」

「タカの仕事が忙しくて、しばらく会えない時期があった。あたし、タカのことを愛してた。けど、お姉ちゃんのことが分かってから、彼のことを憎んでもいた。同時に、彼に会えない寂しさもあった。ごちゃまぜになった感情を、持て余してた。あたしは街に出て、飲み歩いた。飲みすぎて酔っ払って、そのうち、記憶が飛んだ。気づくと、ラブホテルのベッドで、知らない男の人と寝てた。びっくりして飛び起きて、すぐに帰ったわ」

「誰にでもときどき、そういうことがあるわ」

「仕事が一段落して帰ってきた彼に、問い詰められた。彼の部下が、あたしと似た風貌の女が、知らない男とラブホテルに入るのを見たって。あたしは、知らないの一点張りで、無理矢理、押し通した。だって、目撃したって話だけで、証拠はないんだもの。そうでしょ? 最後は、悲しい顔をしてたけど、タカの方が折れた。“そうか、疑って悪かった”って」

「そう」

「あたし、そのとき思ったの。タカは、お姉ちゃんを売春婦に仕立てた男。だから、その報いとして、もっとその“悲しい顔”を、あたしに見せてくれてもいいんじゃないかって。それを見る権利が、あたしにはあるんじゃないかって。それで、あたしは彼を悲しませるために、他の男と寝始めた。そして、そのことを彼にほのめかすの。彼とのセックスのとき、わざと、他の男と行ったラブホテルの名前が入った、コンドームを出してみたり。浮気相手から電話がきたら、わざとそわそわしながら、その場を離れて電話に出てみたり。そうしておきながら、問い詰められたら、知らぬ存ぜぬで通すの。彼が嫌いなのを知ってて、麻薬(ドラッグ)にも手を出したわ」

「そう」

「でもね、本当は分かってるの。タカが悪くないってこと。悪いのは、お姉ちゃんを助けられなかった、あたし。お姉ちゃんが買い続けてた“鎧”はきっと、助けてほしいってサインだったのに。あたし、何もしなかった。お姉ちゃんがソープランドで働いてることが分かってから、タカに、そのお店に連れていってもらったことがあるの。お姉ちゃんが休みの日にね。辛かった。あからさまにいやらしいお店の雰囲気とか、セックスで疲れた女の人の表情とか。それが、お客さんが来ると、媚びたものに早変わりするの。お姉ちゃんも、きっと同じなんだろうと思うと、あたし、いても立ってもいられなくなった。お前が助けなかったから、こうなったんだぞ≠チて、言われてるみたいだった。だから、タカのせいにしたの。タカがそれを受け入れてくれるから、寄りかかっちゃってた」

「分かるわ」

「ごめんねって、言わなくちゃならなかったのに。言おうと思ってたのに」

 マリの声が震えていた。鈴乃は言った。

「言えば、聞こえるわ。きっと」

「無理よ」

「聞こえるわ」

 うん、そうだよね。そう言ってマリは頷くと、涙を拭った。深呼吸をし、シドの頬に手のひらを添えて、彼女は言った。

「タカ、ごめんね。愛してる」

 鈴乃は、目を奪われたバラの花びらを、指先で揉んでいた。力を込めすぎて、花びらが破けた。

「あたしは、殺し屋なの」鈴乃は言った。「シドと一緒に、仕事をしていた」

「ええ」

「必ず、殺すわ。シドを、こんな風にしたやつを」

「そう」マリは言った。声はもう、震えていなかった。「そう言ってくれる気持ちは、ありがたいわ。けど、タカはあなたのことを見てると、妹を思い出すって言ってた。だから、あなたにそんなことをされても、喜ばないと思う」

「そう」

「でも、やるのね」

「ええ、やるわ」

 鈴乃は言った。シドの枕元にあるスイッチを押して、看護婦を呼んだ。鈴乃を、シドの病室まで運んでくれた看護婦が来た。彼女に車椅子を押してもらって、病室の出口へと向かった。

「また、タカに会いに来てあげてね」

 マリが言った。鈴乃は返事をしなかった。

つづく




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2008年06月09日

ブログ小説 焔-HOMURA-[integral] 第183回(7版)


そう遠くないうちに、必ず。


 ログハウスを出、乗り込んだ車の中で、慶慎は目隠しと手錠をされた。しばらく車に揺られたのち、どこかの建物に入り、背もたれのある椅子に座らせられた。視界は遮られたままだったが、扉が閉まった音、そしてその響き具合で、自分のいる場所が小さな部屋だということが分かった。

 時間が経過し、ドアが開く音を聞き、目隠しを外された。目の前に、リタ・オルパートがいた。

「ごきげんよう、坊や」

 開けた視界に映ったのは、想像した通り、小ぢんまりとした部屋だった。コンクリート打ちっぱなしの壁。そして、床と天井。天井からは裸電球が一つ、ぶら下がっていた。壁にくっつけるようにして、安物で使い古されたスプリングベッドがあった。その上に、薄汚れた敷布団と掛け布団。そして、枕。部屋の隅では、膝の高さの電気ヒーターが、赤く燃えていた。どこかから聞こえる、遠い騒音が響き、部屋全体がわずかに震動しているように感じた。灰色に塗られた、鉄製の扉が一つ。その脇に、リタ・オルパートが腕を組み、寄りかかっていた。長い髪を首の後ろで束ね、チョコレート色のパンツスーツに身を包んでいた。ジャケットの下に、白い、薄手のタートルネックのセーター。スーツと同色の靴。踵には、低いヒールが付いていた。

 足下では、アイザック・ライクンが、椅子に座る慶慎の両足首に、手錠をはめていた。手首にしてあるものよりも、輪と輪を繋ぐ鎖が長い。リタに手を出したら、彼女が何と言おうと、お前を殺す。耳元にそう囁き、アイザックは部屋を出ていった。

 慶慎は言った。

「ここは、どこですか?」

「僕を殺してくれ≠ニ言った子が、自分の居場所を気にするの?」

「生きる意志があろうが、なかろうが。目隠しを外されたら、そう聞きたくなるのが、人間の心理ってものじゃないですか?」

 リタはくすりと笑った。

「それもそうね。でも、教えられないわ」

「そうですか」

「何か、欲しいものはある?」

「死」

 リタは微笑を浮かべた。

「それは、もう少しあとにしましょう。お腹は、減っていない?」

「なぜ、そんなことを聞くんですか? 僕は、あなたの客じゃない。あなたは、殺したくて、僕のことを探していたんでしょう? 招待して、もてなすためにじゃなく」

「もちろん、そうよ」

「なら、どうしてそれを、すぐに実行に移さないんですか」

「時間をかけて、じっくり愉しみたいからよ」リタはそう言うと、慶慎に歩み寄り、その頬を撫でた。「そう焦らないで、ベイビ。そう遠くないうちに、必ず殺してあげるから」

「そうしてください」

 リタは頷くと、慶慎から離れた。元いた壁際に戻り、元の姿勢で寄りかかる。

「見張り役も兼ねて、あなたに一人付けるわ。お腹が減ったり、トイレへ行きたくなったり、シャワーを浴びたくなったりしたら、何なりと言いつけてちょうだい。何か、欲しいものがあるときでも。ただし」リタは片目をつむり、ウインクをした。「死以外のものにしてね」

「これから殺す人間に対する扱いとは思えない」

「かもね。でも、いずれあなたにあげるものが、肉体及び精神的疲労や苦痛で、曖昧になったり、軽減されてしまったりしては、台無しでしょう?」

「あげるもの」慶慎は、確認するように自分で呟いた。

「さ、眠ったらどう? 疲れたでしょう」

「そう言われて、はい、分かりました≠ネんてすぐに眠れるほど、神経は図太くないですよ」

「睡眠導入剤でもあげましょうか?」

「それで殺してもいいですよ」

 リタは、また微笑を浮かべた。

「そんなことはしないわ」

「何にせよ、試してみてもいいですか?」

「もちろん」

 リタは一際大きく頷き、そう言った。

つづく




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2008年06月06日

短編小説 R&B


 違うとは分かっていながらも、強烈な風は俺たちのことを咎めるために吹いているという考えを、頭から追い出すことができなかった。腹這いになっている俺たちの上で、雲に埋まり、穏やかじゃない白色に染まった空。いつ降り出してもおかしくない雨を押し止めているのは、お前たちのためなのだとでも言うように、恩着せがましく輝いている。

 携帯電話に、クラスメイトの大倉ミチヨからEメールが届いた。頼んでもいないのに彼女は、俺のために購買でメロンパンを買い、それを口実に、昼休みを俺と一緒に過ごそうとしているようだった。彼女が俺に、他の男子以上の好意を寄せていることは知っていた。その好意の分だけ、仕草や言動に上乗せされた温もりが、ふとした瞬間に、彼女の気持ちを俺に知らせたのだ。悪い気はしなかった。だからと言って、彼女の想いを汲み、自分から動こうというところまではいかなかったが、他の女子以上に彼女への好意も、俺の中にはあった。彼女を傷つけることは、できる限り避けたいとも思っていた。だが、今の俺には、彼女を気遣う余裕がなかった。俺は携帯電話を閉じた。

「誰から?」

 ブルースが言った。彼は、四分の一、中国人の血が入ってはいるものの、本当の名前は、誰が聞いても違和感がなく、縦書きの方が似合うものだ。ブルースは、事を始める前に二人で決めた暗号名(コード・ネーム)だった。俺は、リズム。深い意味はない。その名前が、俺たちが日常からかけ離れたところにいることを、教えてくれさえすればいい。それに、意味など微塵も込めなくとも、既にこの名前は、重たすぎるものになっている。俺は肩をすくめ、Eメールの送り主と、その内容をブルースに教えた。

「ミチヨ、傷つくと思うなあ。彼女が君を好いてること、知ってるんだろ?」

「ああ」

「好意の分だけ、敏感になるものさ、人って」

「分かってる」

 ブルースは、その続きを待った。俺はそれ以上、言葉を継ぐつもりはなかったが、彼の期待に答えるために、頭を働かせた。その時間を稼ぐために、母が握ったおにぎりを頬張った。口いっぱいに。具は、焼いた鮭だった。魔法瓶から、冷たい麦茶を飲む。結局、言葉の続きを思いつくことはできなかった。俺は話の矛先をブルースに向けた。

「お前にだって、いるんだろ? そういうやつが」

 強風にはためく、長すぎる前髪の下で、ブルースは目を細めた。ミチヨの話題を避けたことを、察したのだろう。彼はコッペパンを一口だけかじり、口許を緩めた。

「不特定多数」ブルースは言った。「けど、今のところ、その五文字で一括りになる枠組みから抜け出す人はいないね」

「残念なことだな」

「その方がいいさ。よそ見や寄り道は絶対にしないとは言わないけど、女の子との色恋沙汰は、その度合いが強すぎる。今は、そんな余裕ないよ」

 ブルースの言葉は、耳にしてみると、先の彼の沈黙に対して、俺が返すべき答えだったことが分かった。俺は胸の中で、舌打ちをした。答えを知っていたくせに、わざわざ沈黙で俺の思考を毛羽立たせ、問いを投げかけた。たぶん、俺が答えに窮することも分かっていたのだろう。

「嫌なやつだな、お前」

「なぜ?」

 仕返しのために、俺はわざと黙った。ブルースは小首を傾げ、昼食の続きに取りかかった。

 昼休みの屋上には、誰もいなかった。強風と微細な砂粒が舞うこの場所は、昼食にも、男女の逢引にも不向きな上に、非常時以外、使用することを禁止されている。にも関わらず、俺たちがここにいるのは、目的があるからだし、それが前述の二つには当てはまらないからだ。

 先に昼食を終えたブルースは、あぐらをかいて、ノートパソコンを開いた。少し彼の指が踊っただけで、画面は俺の理解の範疇を超えたプログラムを呼び出し、酔ってしまいそうなほどの数と難解さの数式を並べた。俺はその数々の数式が弾き出す答えを理解はしていない。だが、答えが導く場所にたどり着くことはできた。逆にブルースは、計算はできても、たどり着くことができなかった。それが、俺たちがコンビを組んでいる理由でもある。

「いつも不思議に思ってるんだけどな、ブルース」俺は言った。「それだけの数式を操れるやつが、どうしてもっと、数学でいい成績を取れないんだ?」

「学校の数学は非実用的だから」ブルースは言った。「それに、“好きこそものの上手なれ”って言うけど、憤怒と命を賭けることは、対象を好くこと以上の効果を発揮するからさ。きっとね」

 携帯電話に、またミチヨからEメールが来た。自分がメロンパンを買ったことを、好意の押しつけだったとして反省し、謝罪の言葉を連ねていた。それが誤解であることを、俺は彼女に教えたかったが、どうしてもそういう気分になれなかった。ブルースが横目で俺のことを見た。言ってもいないのに彼はメールがミチヨからのものであることを察知し、頷いた。

「彼女には悪いけど、たぶん、それが正解さ」

「さっきと言ってることが違うな」

「さっきのは単純に、意地悪をしただけさ」

「ああ」俺は頷いた。「だから、嫌なやつと言ったんだ」

 俺は大型のドラムバッグを開けた。中には、大量の衣類に守られて、黒い強化プラスチック製のアタッシェケースが入っていた。ダイアル式の錠を外し、蓋を開ける。中から分解したスナイパーライフルのパーツを全て取り出し、地面に並べ、一つ残らずあることを確認してから、組み立て作業に取りかかる。既に何度も繰り返された作業だ。本番と、リハーサル、そして練習で。五分で作業を終え、ライフルの先端に減音器(サプレッサー)を取り付けた。三脚を調整し、その上に銃身を載せる。

「時間通りだ」

 そう言ったブルースは、ノートパソコンの操作を終え、双眼鏡を覗き込んでいた。彼の空いている、もう片方の手の中で、イチゴ・オレの入ったパックがへこんで華奢になり、中身がもう残っていないことを告げている。俺は頷き、スコープを使い、ブルースと同じ方を見た。

 真っ白なスーツに、ネクタイを締めず、ボタンを三つほど開けて、青いシャツを着た男が、それぞれの機器で望遠効果が施された俺たちの視界の向こう側で、笑っていた。開いた胸元には金鎖。左手には金のロレックス。指のほとんどが、金の指輪で飾られている。ジェルで前髪を全て後ろへと追いやった頭。相手に歯を見せてはいるが、その瞳に隙はない。信頼に値しないものを前にしたときの、獣のような目をしている。

「忠村治夫(ただむらはるお)」

 俺は、男の名前を呟いた。口にすることで、相手を仕留める確率が上がるような気がした。そうしてから心配になった怒りの感情の噴出は、なかった。もしそんなことになれば、狙撃の精度が著しく低くなってしまう。俺は安堵の溜め息を吐いた。代わりに、もう長いこと、胸の奥で静かに燃え続けている感情を確認する。その存在は、狙撃の精度を低くはしない。俺の意志と行動を、より強固なものにするだけだ。慢性的な怒りというのは、そういうものだ。

 忠村治夫は、射精産業がメインコンテンツとなっている、六階建てのビルの最上階にある一室にいた。その場所だけは他とは違い、いかがわしい雰囲気はなく、磨かれた床の上に、大きな机と応接セットが並んでいる。ただし、ビルが長い年月を過ごすうちにまとった、無数の傷や古さ同様、安っぽさだけは抜けていない。忠村治夫は、ビルと同じく安っぽい服装に身を包んだ男と向かい合っており、何度目かの笑みとともに、間に挟んだ木のテーブルの上で、アルミ製のアタッシェケースを交換した。忠村治夫が受け取った方には、札束。相手の男の方には、ちょうどレンガと同じ形状をした、白いブロックが敷き詰められていた。

「あれは?」

「麻薬(ドラッグ)さ」ブルースは、双眼鏡を覗いたまま、言った。「粉を圧縮して、ブロック状にしたんだ」

「それじゃあ、家は建てられないな」

「家が建つ金額にはなる」

 ブルースが、このお膳立てをした。情報を集め、狙撃に適した場所を探し、天気図とにらめっこをして、天候を計算した。晴天時の強烈な光も、雨天時の弱々しい光も、狙撃には最適とは言えなかった。今日のような、白い空の下が一番いい。少なくとも、俺には。俺は引き金に、そっと人差し指を置いた。いずれ、そう遠くないうちに、俺はその人差し指に力を込める。だがそれは、正義なんて言う、口にした途端に酸化し、まやかしに変わる、移ろいやすい感情、あるいは思想からではない。もっと単純(シンプル)で、確かなものから。俺たちはそのために、ここにいる。

 俺の注意は、指輪でうるさいくらいに飾り立てられた、忠村治夫の指に向いていた。

「やつは、ホリーに向かって引き金を引いたと思うか?」

「間接的には、確実に」

「直接的に」

「それを確かめるには、狙撃って言う手段は不向きだよ」

「分かってる」俺は言った。「訊いただけだ」

 ホリーは死んだ。体中に銃弾を撃ち込まれて。イメージチェンジのためにショートカットにした彼女の髪はもう、俺の好みの長さまで伸びることはない。涙を流すように、その体に汗が滲むことも、愛を囁くだけで、俺の体を芯まで震えさせることはない。たまには料理をしないと腕が鈍ると言ってエプロンもせずに台所に立ち、ブルースを怯えさせることはない。もういない両親の代わりに叱責し、ブルースに愛情を教えることもない。俺たちに等しく、笑顔をくれることはない。

「何度も言うようだけど」ブルースが言った。「僕たちのしていることは、正義なんかじゃない。姉貴はいつか、そしていつでも、殺されておかしくない場所にいた」

「分かってる」

 ホリーは、俺の恋人であり、ブルースの姉だった。そして、街一帯を牛耳る暴力団、馳英会に飼われた殺し屋だった。カラスと言う暗号名(コード・ネーム)を使い、黒いコートに身を包み、敵対する組織の人間を何人も殺した。今、俺の手の中にある、オートマティックのスナイパーライフルで。ホリーの死は、殺し屋という因果な商売に身を浸していることを、他ならぬ彼女自身から告白されたときから、覚悟していたものだった。だが、味方であるはずの仲間から殺される理由はない。ブルースがかき集めた情報はそのことを示していて、俺はそれを信じた。半年。俺とブルースが、悲しみにからめ取られ、身動きができなかった時間だ。そして、悲哀と無気力感が発酵し、慢性的な怒りに変異するのに要した時間でもある。

 俺は舌で舐めて唇に水分を与え、もう一度言った。

「分かってるさ、ブルース」

 ホリーが最後に殺すはずだった相手と、忠村治夫に繋がりがあったことを、ブルースは調べ出していた。忠村治夫は、馳英会と敵対する組織と、繋がっていたのだ。金の流れもあった。この情報を馳英会の人間に流し、忠村治夫が裏切った連中に、やつを裁かせるという手もあった。だが、俺たちはその方法を選ばなかった。間接的な手段で怒りを鎮められるほど、大人ではなかった。

「そろそろ決めないと、まずいよ」ブルースが言った。

「ああ」

 返事をしたものの、引き金に添えた指が重たくて仕方がなかった。いや。思い返せば、指が軽かったことなど、一度もなかった。忠村治夫に与していた人間を、これまでに何人も葬ってきたが、指と、それが引くべきライフルの引き金は、この世に生を受けた者に、等しくある命の分だけ、重たかった。当然のことだ。ただ、俺の中にある慢性的な怒りが、その重さをわずかに上回っているだけに過ぎない。俺は目を閉じ、忠村治夫が、麻薬を売りつけた相手に見せている笑みを浮かべながら、ホリーに向かって銃を撃っている光景を想像した。短く息を吐き、目を開けた。引き金を引いた。オートマティックのスナイパーライフルは、俺が引き金を引いている間、一切の文句も言わずに、忠村治夫の体に向かって、銃弾を送り続けた。最初に当たったのは、忠村治夫の肩だった。次は、喉。撃たれた衝撃で忠村治夫の体は回転し、銃口の先に、その胴体をさらけ出した。腹、胸。銃弾を撃ち込んだという実感は、命に対して、あまりにも軽すぎるライフルの引き金と、忠村治夫の体から小さく噴き出す、血の赤色からしか、感じることができなかった。スコープの向こう側が、実はフィクションの世界だと知らされても、俺は驚かなかっただろう。忠村治夫の顔面に二発、弾が当たったことを確認したところで、俺は撃つのをやめた。

 即座に俺たちは後退し、可能な限り身を低くして、ブルースはノートパソコンと双眼鏡を、俺はスナイパーライフルを片付けた。忠村治夫が死んだ方からは、死角になる側から屋上を後にし、学校の中に戻った。閉じたノートパソコンを小脇に抱えたブルースは、ストローを口にくわえて音を立て、まだパックの中で、イチゴ・オレを探していた。

 昼休みは、まだ三分の一ほど残っていた。校内にいる者のほとんどは、最初の三分の二で昼食を終えており、その分、騒がしかった。持参した、あるいは購買で買った昼飯だけでは、口を動かし足りないとでも言うかのように。俺たちは足並みを揃えて教室へ戻り、荷物を置いた。スナイパーライフルがドラムバッグの中に入っているが、錠がかけてあるし、アタッシェケースはそう簡単には破壊できない。俺たちはトイレへ行き、手と顔を洗った。水をしこたま飲み、鏡を見つめた。

「これで終わりだ」ブルースが言った。「姉貴の死に関わった連中は、みんな、いなくなった」

「ああ」

「僕たち、元の場所に戻れると思う?」

「少なくとも、そのために最大限の努力をする」

 ブルースは頷いた。

「うん、そうだね」

 俺たちは教室に戻った。自分の机で、五分ほど静かにしていた。スコープと引き金越しとは言え、人を殺したという感覚が、血とともに全身を巡って、蝕んでいた。わずかばかりの余裕を取り戻して教室の中を見回すと、こちらを見ないようにしながらも、注意を一心に俺に向けている、大倉ミチヨがいた。彼女はいつも一緒にいる女子連中とくっつけた机で、談笑に興じていた。もしくは、そのふりを。俺は机を立ち、彼女の所に行った。メールを返さなかったことを謝り、返せなかった事情をその場で捏造し、彼女に聞かせた。彼女はそれを信じた。俺がメールを返さなかったことが、彼女を煙たがっていたからではないと知ったミチヨの表情からは、硬さが消えた。俺は、精一杯の笑顔を作り、彼女に言った。

「メロンパン、まだあるかな?」

 彼女は、首が壊れるのではないかと思うほど大きく頷き、うんと言った。その声が大きすぎて教室中に響き渡り、クラスメイトの視線とくすくす笑いを集めた。ミチヨは顔を真っ赤にし、束の間うつむいてから、両手のひらを合わせた上にメロンパンを載せて、俺にくれた。

 俺は笑った。



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2008年05月30日

ブログ小説 焔-HOMURA-[integral] 第182回(2版)


ブレーキの壊れた車なら。


「ダンクの様子はどうだ?」

 リヴァは言った。〈ツガ〉の息がかかった病院の、個室。ベッドでダンクが眠っていた。立ち上がろうとしたバーバーを制し、背もたれのない円椅子に座りなおさせた。拳をぶつけ合う。

 バーバーは、ダンクに視線を戻して、言った。

「変わりないよ。ときどき、うなされてるみたいだけど。悪い夢でも見てるのかな」

「病院、あまり好きじゃないからな」

 アイザックとの戦闘後、この病院へと運び込まれてから、ダンクは深い眠りに落ちたままだった。医者は、そう長くはかからないだろうと請け負った。シドのものとは違い、ダンクの眠りは、命に関わるものではないとも。ただ、受けたダメージが大きすぎ、彼を深い眠りに誘っているだけだという話だった。

「お前の方は、大丈夫なのか、バーバー?」

「寝る間も惜しんで、リハビリ中さ」バーバーは肩をすくめて、おどけた。その小さな仕草でさえ、体のどこかが痛んだらしく、軽く眉をしかめた。「僕も、病院はあまり好きじゃないんだ。消毒液のにおいが、だめなんだよ」

「ヘアトニックのにおいの方が、好みってわけだ」

「床屋(バーバー)の息子だから? 偏見だね。ヘアトニックにも、色々種類がある。好き嫌いはあるさ。人よりも、好きなものが多いだけでね」

「戦力が減ったな」

「うん」

 シドは重体。昏睡の中で、生死の狭間をさまよっている。いつ、答えが出るのか、医者も分からないと言っていた。ただ、長くはかからないというのが、医者の見解だった。ネコは、車椅子なしでは歩くこともままならない状態。ログハウスに、応援に来ていた〈ツガ〉の者たちも、二人が死に、三人が、体の動きに差し支えがない程度だが、傷を負った。磐井は脚を撃たれ、歩くには松葉杖が必要だった。

「慶慎に執着してるのは、ただの、俺の個人的な感情からだ」ポケットに両手を突っ込んだ。折れた左腕だけは、ギプスに包まれているので収まらなかった。「お前は、来なくていい。あとは、俺一人でやる」

「彼は、ただ街で偶然会ったってだけの、友だちだからね。僕にとっては」

「ああ」

「君にとっては、亡くした兄弟の面影が重なるから、命を賭ける価値があるのかもしれないけど。僕がそんなことをしていたら、一年三百六十五日、命を賭け続けることになる」

「トゥエンティフォー・セヴン」

「なんて言って、下りるとでも?」

「バーバー」

「リヴァ。下りるつもりなら、最初から下りてる」バーバーは、ダンクの顔を見下ろしながら、微笑んだ。「もう少し、計算高くて、クールな頭を持ってるつもりだったんだけどね」

「俺も、そう思ってた」

「賢く生きるのも、大切だけど」バーバーは言った。「負けっぱなしで迎えるフィナーレに満足するほど、枯れてはいないつもりさ」

「困ったことだな。俺たち三人組の中から、いつの間にか、ブレーキ役がいなくなってる」

「ブレーキの壊れた車なら、チキン・レースで負けることはない」

「勝つか」

「あるいは、死ぬか」

 バーバーが顔を上げた。リヴァはその手を取り、思いきり力を込めて握った。

「そうだな」病室の窓の外では、夜が明け始めていた。「その通りだ」

つづく




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posted by 城 一 at 03:32| 長編小説 焔-HOMURA-[integral] | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月23日

ブログ小説 焔-HOMURA-[integral] 第181回(3版)


ダイヤモンド。



赤色の 生命の源 その身に浴びて

闇より出づる 彼の名は焔


「本来ならば、ここに〈ツガ〉の人間を出入りさせることは、禁じられているんだがね」

 葛籠(つづら)が言った。カザギワの殺し屋が使用する銃器の整備、改造を一手に引き受けている人間だ。枯れ果てそうな体を、車椅子で引きずっている一方で、二つの瞳だけは、ぎらぎらとした生命力を湛えている。

「慶慎のCZ75を回収して、わざわざ届けてやったのを忘れたのか? 少しくらい、融通を利かせてくれたって、いいんじゃないか、じいさん?」

 リヴァは言った。

「だからこうして、入れてやってるんじゃないか、坊主」

 武器工場。葛籠の他に、人気はなかった。万が一、リヴァを工場に入れていることが誰かに知れた場合、その責任を負わなければならない人間を、自分だけにする。葛籠の、気遣いだった。それに、関わる人間が少なければ少ないほど、情報が漏れる可能性も低くなる。

「で、用件は?」

 リヴァと葛籠は、テーブルを挟んで向かい合っていた。そのテーブルの上に、葛籠が小さなアタッシェケースを置いた。それを開く。中には、修理された“スカーレット”と“マゼンタ”。一対のCZ75が収められていた。

「この“落としもの”を、持ち主に返してほしいのだ」

「俺が?」

「車椅子の年寄りに頼るかね?」

 リヴァは首を振った。開いたアタッシェケースのふたの部分にも、収まっているものがあった。大振りのナイフと、用途の分からない部品。リヴァはナイフを取り、手のひらの上で転がした。ナイフに使われた形跡はなく、エッジが光を反射して輝く。

「CZ75は、昔の〈カザギワ〉の殺し屋が残した、“お古”だったはずだ。違うか?」

「そうだ」

「だが、こいつは真新しい」

「あの坊主をいくら見てもな。俺にゃ分からなかった。どういう銃を用意してやりゃいいのか。それに、あの年頃は成長期だ。目を離した隙に、目まぐるしく変わる。体も、心も。あいつに、何を用意してやりゃいいのか、ずっと考えていた。それで思いついたのが、そいつさ」

「ナイフは、あんたの埒外だろ?」

「だから、作らせたのさ。光りものを専門にしてるやつにな」

「なるほど」

「銃剣(ピストル・バイヨネット)ってんだ。銃口の下部に装着できるようになってる」葛籠は言った。

 刃に刻まれてる文字があった。リヴァはそれを、指先で撫でた。

「こいつは?」

「そいつの名前さ」

「それが、ピストル・バイヨネットなんだろ?」

「違う。そいつは、総合的な名前だ。CZ75のことを銃って呼ぶようなもんだ」

「そうかい」リヴァは、ナイフに刻まれた言葉を反芻した。「だが、こいつの持ち主は、もういない。敵さんの手に、自ら落ちたんだ」

「戻ってこないのか?」

「さあな」

「お前さんは、どう思ってるんだ?」

「知らねえよ」

「あいつが戻ってこないと思うんなら」葛籠は言った。「置いていっていい」

 リヴァはアタッシェケースを閉じ、テーブルから取った。

「戻ってくるかもしれないし、こないかもしれない」アタッシェケースは想像した以上に、重たかった。「たとえ、あいつにもう一度会えたとしても、あいつは受け取らないかもしれない」

「だが、持っていくんだな」

「あんたが手を付けた代物だ。うまく捌けば、高く売れるかもしれないだろ?」

 葛籠は、口端を上げて、にやりと笑った。

「そういうことにしといてやるよ」葛籠はそう言うと、テーブルの下に目をやった。「もう一つ、渡すもんがある。そいつを取ってくれねえか」

 リヴァは、葛籠が視線で示したものを、テーブルの上に載せた。CZ75が入っていたものよりも大きく、横に長いアタッシェケース。色は黒。硬質プラスチック製。

「こいつは?」

「開けてみろ」

 そうした。中には、見慣れない形状をした銃が入っていた。拳銃よりは大きく、ライフルやサブマシンガンにしては、少し小さい。バナナのように下方に伸びる弾倉がないからだ。リヴァは手に取り、感触を確かめた。葛籠が言った。

「PP-19 Bizon(ビゾン)。ロシア製のサブマシンガンだ。CZ75を持ってくって言うんなら、貸してやるよ」

「くれねえんだ。けちくせえな」リヴァは、ナイフと同じように、銃身に刻まれている文字を見つけた。「“ダンデライオン”だ?」

「そいつの名前だ。貸してやるんだからな」葛籠が、下からねめつけるような視線を送ってきた。「必ず返せよ、坊主」

「他組織の人間をここに入れた上に、武器を預ける。ばれりゃあ、大問題だな」

「足下をすくわれかねないな」

 リヴァは、膝から下を失った、葛籠の下半身を見て、鼻を鳴らした。

「だが、その心配はなさそうだな」

「まあ、そうだな」

「だが、もうろくしてるんじゃないのか、じいさん? 俺が、たんぽぽって柄か?」

 葛籠は体を少しずらして深く座り、車椅子の背もたれを軋ませた。肘掛けの上で頬杖を突き、目を細める。

「違うのか?」葛籠は言った。「お前さんの髪型はちょうど、たんぽぽの花弁みたいに、ぎざぎざ尖ってるぜ」

「まあ、そうだな」リヴァは言った。

「それに、この街は栄養価の高い土に恵まれた、優良な環境だとは、世辞にも言えん。アスファルトに覆われた地面のような、劣悪な環境じゃなかったか?」

「まあ、そうだな」

「そこで、根性はおよそ真っ直ぐとは言い難いが、それなりに咲いた」

「ほう」

「似合いの名前だろう」

「かもしれないな」両手にそれぞれ、アタッシェケースを提げ、葛籠に背を向けた。「それで? どうして、俺なんだ?」

「目ってやつは、宝石みたいなもんだ」葛籠は言った。「例えば、そうだな。ダイヤモンド」

「たんぽぽが、ダイヤを二つ付けてるってか?」

「ダイヤモンドは、だが、採掘してそのままじゃ、だめだ。光の反射の具合を計算して、うまくカットしてやらなきゃならん」

「ああ」

「お前の目をダイヤとするなら、あいつの目もダイヤなのさ」

「高く売れるな」

「だが、違う点がある。お前さんのは、もうカットされてる。素人くさい、ずいぶん大雑把なカットだがな。仕上げたやつは、散々苦労したんだろうよ。試行錯誤してな」

「それで?」

「あいつのダイヤは、まだカットされていない。原石ってやつだ。どうなんだろうな? 同じ、ダイヤをカットしたやつなら、こう思うんじゃないか? 今度はもっと、うまくカットしてやれる。もっと綺麗な宝石にしてやれる」

「どうだかな」葛籠に背を向けたまま、リヴァは肩をすくめた。「カットしたやつに会ったら、聞いておいてやるよ」

「そうしてくれ」リヴァが振り向くと、今度は葛籠が背を向けていた。小さく湾曲した背中には、哀愁が滲んでいた。「坊主は、そいつを受け取るかな?」

「さあな」

「お前さんは、どう思ってるんだ?」

「外すと虚しくなる推測は、しないことにしてる」

 リヴァは、葛籠の武器工場を後にした。

つづく




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posted by 城 一 at 00:47| 長編小説 焔-HOMURA-[integral] | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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